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2023年9月26日 (火)

日本一有名な陰陽師~安倍晴明の逸話集

 

寛弘二年(1005年)9月26日は、陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明(あべのせいめい・あるあき・はるあきら)さんがお亡くなりになった日

・・・・・・

享年85だとか。。。

来年の大河ドラマ「光る君へ」では安倍晴明=あべのはるあきらと読ませ、ユースケ・サンタマリアさんが演じられますね~楽しみです。

ちなみに、現在陰陽師と言えば、何か占い師のようなイメージですが、この陰陽師は鎌倉時代から明治時代初めまで安倍氏流土御門家(つちみかどけ)が統括した陰陽寮(おんみょうりょう=暦の作成や時を測る&行事等の吉凶を担当した部署)に所属した、いわゆる公務員です。

安倍晴明はその祖という事になります。

15年ほど前の古いページでは、出生の秘密とされる人形浄瑠璃歌舞伎「葛の葉(くずのは)のお話をさせていただいたり、彼が奥さんに隠れて一条戻り橋の下に式神(しきがみ=使いとする鬼神)を隠していた話なんかを書かせていただきましたが(2007年9月26日参照>>)

そこでもお解かりのように、逸話は複数あるものの、実際の人物像となると、とにかく謎な人です。

てな事で、今回は、ひょっとしたら大河でも描かれるかも知れない、様々な逸話をご紹介します。

・‥…━━━☆

幼少の頃、鬼を見た話
~今昔物語~

晴明は、幼少の頃、陰陽道を独占していた賀茂氏の長、賀茂忠行(かものだだゆき)に、天文道を習っていましたが、

ある日、師である忠行について下京のあたりに行ったときの事。
忠行は牛車にゆられ、晴明はその後ろを徒歩で歩いておりました。

ふと、前方を見ると、向こうからたくさんの鬼がやってくるのが見えました。
忠行は牛車の中で寝込んでしまっていて、その鬼どもに気づきません。

晴明があわてて、忠行を起こします。

忠行は、すぐに術を使って、自分や供の者たちの姿を隠して、鬼どもから見えないようにして、危機を回避する事ができました。

この日から、忠行は自分の術のすべてを晴明に教え始めます。

幼くして鬼を見た晴明に、陰陽師としての才能を垣間見たのでしょう。

やがて、忠行は、晴明に天文道を、息子の光栄(みつよし)に暦道を継がせる事にし、この時から陰陽道は、二流に分かれます。 

 ・‥…━━━☆

花山帝の頭痛を癒した話
~古事談~

花山天皇は頭痛に悩んでおりました。
特に雨の日はひどく、さまざまな治療をしましたが、いっこうに良くなりません。

晴明は、花山天皇に
「みかどの前世は、大峯山のある宿で亡くなった尊い行者である。

Dscn2435ba 前世の徳によって、天皇として今の世に生まれたが、前世の髑髏(どくろ)が岩の間に落ちて挟まっているため、雨の日は岩がふくらみ間がつまるので、今現世でこのように痛むのです。

大峯にある首を岩から取り出して、広い場所に置いたならば、必ず治癒いたしましょう。」
と言い、髑髏のある場所まで指摘しました。

花山天皇が使いを出して調べさせた所、晴明の言った場所に言った通りの物があり、使者はその首を取り出しました。

それから、天皇の頭が痛む事はありませんでした。 

・‥…━━━☆

 播磨の僧が弟子になる話

晴明のところにある日、播磨の国から、ひとりの老僧がやってきた時の話です。

「ぜひ、陰陽道を習いたい」
と、その老僧は言うのですが、晴明には、その老僧が自分の力を試すためにやって来たこと、連れている二人の童子が式神である事を、即座に見抜きました。

そこで、晴明は術を使って老僧の式神を隠してしまいました。

やがて、老僧は自分の連れていた式神がいない事に気づき、自分の思惑が晴明にバレていた事を察し、晴明を試そうとした事を謝りました。

「式神を使う事は、簡単にできるが、他人の式神を隠すなどという事は、並の陰陽師にできる事ではない」
と、すぐに、晴明の弟子になったという事です。

 ・‥…━━━☆

 寛晴(かんちょう)僧正のもとでの談笑の時の話
~今昔物語より~
~宇治拾遺物語より~

寛晴僧正の所で、若い公家たちや僧たちと談笑している時、晴明は、あるひとりの者から、
「人は殺せるのか?」
と問いかけられました。

「殺そうと思えば殺せるが、生き返らせれるかどうかわからないので、人を殺す術は使いたくありません」
と晴明が答えると、そこにいた連中が
「できないからそんな事を言っているのだろう」
と返してくる。

Dscn2436ba その談笑している庭先に1匹のカエルがいて、誰ともなく
「ならば、そのカエルを殺して見せよ」
という事になりました。

晴明は、そこにあった草の葉をひとつ摘み取って呪文を唱え、す~っとカエルに向かって投げました。

するとカエルは、葉っぱに押しつぶされ、ペチャンコになって潰れて死んでしまいました。

そこにいた一同の顔色が変わりブルブルと晴明の術の恐ろしさに震え上がりましたとさ。

 ・‥…━━━☆

毒の瓜を当てた話
~古今著聞集~

物忌み中の藤原道長(ふじわらのみちなが)の所に、僧の観修(かんしゅう)、医師の丹波忠明(たんばただあき)源義家(みなもとのよしいえ)、そして晴明が集まっていた時の話です。

ちょうどその時、奈良から早瓜が献上されてきました。

道長が、
「物忌み中にこのような物を、取り入れるのはどうであろうか」
と晴明に占ってみるよう命じました。

すると晴明は、
「瓜の中に毒があります」
と言い、たくさんある瓜の中から一つを取り出しました。

観修がお経を唱えるとその瓜が動き出したので、丹波忠明が瓜の二ヶ所に針を打ち立て、最後に義家が腰の刀を抜いてその瓜を真っ二つに割りました。

すると、中にはとぐろを巻いたヘビが入っていました。

義家の刀は、ヘビの頭を打ち切り、丹波忠明の針は、ヘビの両目に突き刺さっていました。  

 ・‥…━━━☆

蔵人の少将の命を救う話
~宇治拾遺物語~

ある日、蔵人の少将が華やかに行列を組んで内裏に向かっていた時の事、1匹のカラスが少将に糞をかけました

その瞬間、晴明はカラスが式神で少将は陰陽師の呪いをかけられ、式神に打たれたので今夜限りの命である事に気づいたのです。

晴明は、その事を少将に伝え、里で祈祷をする事になり、少将に護身の術をほどこして、一晩中呪文を唱えました。

実は、少将に呪いをかけたのは、同じ家に住む少将の妹の夫でした。

舅が少将ばかりを大切にするのを逆恨みして、陰陽師に頼んで式神を使って少将を呪い殺そうとしたのでした。

少将を呪った陰陽師は晴明の力によって戻された自分の式神によって逆に呪い殺されてしまいましたとさ。 

 ・‥…━━━☆

宿命のライバル蘆屋道満と対決の話

ある日、宮中で同じ陰陽師である蘆屋道満(あしやどうまん)と晴明のどちらの法力が優れているか、競い合った事がありました。

その場にいる公家たちが、道満と晴明にわからないように、長持の中に夏みかん16個を入れ、蓋をして、ふたりに中に何が入っているか、言い当てさせる・・・という物でした。

Dscn2440ba 道満は、すかさず
「中には夏みかんが入っている」
と言いました。

晴明は、
「中にはねずみが16匹入っている」
と言いました。

そこにいたみんなが、
「道満の勝ち、晴明の負けだ!…」
と思いながら蓋をあけると、中の夏みかんはすべて、晴明の術によって、ねずみに変えられていたのです。 

 ・‥…━━━☆

 道満の呪いから道長を救う話
~古事談~
~宇治拾遺物語~

藤原道長は、法成寺の御堂に入る時、毎日白い犬を連れていました。

ある日、いつものように犬を連れて法成寺に入ろうとした時、犬が前に回りこんで立ちはだかったり、衣の裾を噛んで引っ張り、道長を寺に入れさせまいとします。

不審に思った道長は、すぐに晴明を呼んで、占ってもらいました。

すると晴明は、道の中にに道長を呪う物が埋められていると指摘。

道を掘ってみると、土器を二つ十文字に合わせた物が出てきました。

晴明が懐紙を鳥の形に結んで、呪文とともに空に投げあげると、白鷺となって南の方角へ飛んで行き、呪いをかけた犯人である蘆屋道満の屋敷に落ちました。

道満は、藤原顕光(あきみつ)頼まれて術を仕掛けた事を白状し、その後、ふるさとの播磨に追い返されたという事です。

 ・‥…━━━☆

と、まぁ、こんな感じですが…

いやはや…
どうなるんでしょうね~

なんせ大河ドラマですからね~
こういう不可思議な事を表現するのか?否か?

そこも楽しみですね。
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2023年9月19日 (火)

鎌倉公方と関東管領~足利基氏と上杉憲顕

 

正平23年・応安元年(1368年)9月19日、鎌倉公方を支えた初代関東管領上杉憲顕が、乱鎮圧の陣中で亡くなりました。

・・・・・・・・・

上杉憲顕(うえすぎのりあき)は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう=第96代)足利尊氏(あしかがたかうじ)らとともに鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)功労者の一人である上杉憲房(のりふさ=南北朝時代)の息子で、

元弘三年(1333年)の、あの建武の新政(6月6日参照>>)の一環で後醍醐天皇の皇子である成良親王(なりよししんのう)鎌倉府(関東支配機関)に下った際の護衛の一人として仕えました。

しかし、その後、ご存知のように後醍醐天皇と足利尊氏の間に亀裂が入る(8月19日参照>>)事になるわけですが、そうなっても上杉憲房・憲顕父子は足利尊氏のもとを離れる事は無かったのです。

そのため父の上杉憲房は、後醍醐派の新田義貞(にったよしさだ)が京都を制圧した延元元年・建武三年(1336年)1月の戦い(1月27日参照>>)で、敗戦の色濃くなった足利尊氏を逃がすために壮絶な戦死を遂げています。

こうして父の後を継ぐ事になった上杉憲顕は、5ヶ月後=6月の京都合戦にて京都を奪回して(6月30日参照>>)その京都で幕府を開く事になった足利家の、地元関東における出張所の役割となった鎌倉府の首長となった足利義詮(よしあきら=尊氏の三男)のもとで執事(しつじ=補佐役)を務める事になりました。

ところが、その後すぐに、突然執事の職を高師冬(こうのもろふゆ=高師直の従兄弟)に交代するよう命じられて上杉憲顕は京都へ・・・2年後に復帰するも、執事の職は高師冬との二人体制になりました。

…と、このあたり=正平五年・観応元年(1350年)で起こるのが、尊氏と弟の足利直義(ただよし)による、あの壮大な兄弟ゲンカ=観応の擾乱(じょうらん)です(10月26日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

それまで尊氏の右腕として働いて来た弟と不仲になった事で、尊氏は、関東にいた三男の足利義詮を、その右腕後継者(後に将軍後継者)とすべく京都へ呼び寄せ、代わりに四男の足利基氏(もとうじ)鎌倉公方(かまくらくぼう=鎌倉を拠点に関東を支配する役)として関東に下向させたのです。

こうして上杉憲顕は、高師冬とともに足利基氏の執事となったわけですが、ややこしい事に、この二人の執事は高師冬が尊氏派で上杉憲顕が直義派・・・

両執事の力関係が拮抗する中で、例の兄弟ゲンカも激しくなり、正平四年・貞和五年(1350年)12月に直義派の上杉重能(しげよし=上杉憲顕&尊氏&直義の従兄弟)が、尊氏派の高師直(こうのもろなお=尊氏の側近・執事)の配下に殺されると、翌正平六年・観応二年(1351年)2月には、その高師直も戦いで命を落とします(2月26日参照>>)

結局、この泥沼の兄弟ゲンカは正平七年・文和元年(1352年)の足利直義の死を以って終結する事になりますが、この間、直義派として動いていた上杉憲顕は、当然、尊氏の怒りを買い、周囲の諸将にも離反され、上野(こうずけ=群馬県)越後(えちご=新潟県)守護職(しゅごしょく=県知事)をはく奪・・・自ら剃髪(ていはつ=坊主)するも信濃(しなの=長野県)へ追放される事になってしまいました。

ところが正平十三年・延文三年(1358年)4月、初代将軍の足利尊氏がこの世を去った(2012年4月30日参照>>)事で上杉憲顕の運命は変わります。

父の死を受けて第2代室町幕府将軍となった足利義詮と鎌倉公方の足利基氏・・・

この時、兄=義詮は29歳、弟=基氏は19歳・・・ともに、自身の生き方&考え方&やり方が定まって来るお年頃。

兄の義詮が未だ続く南北朝の動乱の中で将軍の力を確固たる物に押し上げる事にまい進する(2023年4月30日参照>>)一方で、

弟の基氏は政権運営に自らの手腕を発揮したいと願い、これまで執事を務めていた畠山国清(はたけやまくにきよ)の追い落としに取り掛かり、正平十六年/康安元年(1361年)に国清を罷免します。

畠山国清は、わずか10歳で鎌倉公方となった基氏を良く支えてくれてはいましたが、幼き公方を支える執事という者は、考えようによっちゃぁ公方が幼いのを良い事に自身の好き勝手にやって来ていたとも言えるわけで、大人になった基氏から見れば、うっとぉしいご意見番を排除して自身の思う通りに~って思うのも無理はありません。

とは言え、政治の実務を担当する人物は必要なわけで・・・そこで、経験者の上杉憲顕を呼び戻す事にしたのです。

Asikagamotouzisyozyouuesugianoriakic
上杉憲顕宛て…政界に復帰するよう要請する足利基氏書状(米沢市立上杉博物館蔵)

書状には「京都も度々仰せ…」とあり、将軍の足利義詮も憲顕の復帰を願っている事がうかがえます。

とは言え、かつて上杉憲顕がはく奪された上野と越後の守護職を守護代(しゅごだい=副知事)として引き継いでいた宇都宮氏綱(うつのみやうじつな)は上杉憲顕をすんなり受け入れる事ができずに反発!

「 宇都宮氏綱が鎌倉へとやって来る上杉憲顕を待ち伏せしている」との情報を掴んだ足利基氏は、自ら兵を率いて岩殿山(いわどのやま=埼玉県東松山市)にて宇都宮軍を撃退し、無事、上杉憲顕を鎌倉に迎え入れたのでした。

この時から、関東執事は関東管領(かんとうかんれい)と呼ばれるようになり、関東管領が鎌倉公方を支えながら政治を行う体制ができあがったのです。

そう・・・この上杉憲顕さんが代々関東管領を受け継ぐ山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)始祖となり、

それはやがて、北条(ほうじょう)に追われた上杉憲政(のりまさ)が、頼った越後の守護代=長尾景虎(ながおかげとら)関東管領職を譲り(6月26日参照>>)、その長尾景虎が上杉謙信(けんしん)と名乗るに至るまでの最初の最初という事です。

時に正平十八年/貞治二年(1363年)、足利基氏が24歳、上杉憲顕は57歳でした。

しかし、この二人のタッグは長くは続きませんでした。

正平二十二年・貞治六年(1367年)4月26日、1ヶ月前までは、まだ「軽い病気」との事だった足利基氏が、4月下旬に重篤となり、未だ28歳の若さで亡くなってしまうのです。

唯一の救いは、病床の基氏が我が子=金王丸(こんおうまる=後の足利氏満)後継者に指名し、それを足利義詮がOKしていた事で、

わずか9歳の後継者にも関わらず、何のモメ事も無く、すんなりと家督継承が進み、関東十ヶ国を束ねる鎌倉公方の役目も、そっくりそのまま金王丸に受け継がれた事でした。

しかし、そのわずか半年後の11月8日・・・はじめは単なる風邪のような症状だった足利義詮の病が、みるみる悪化し、やがて食事もとれない状態となって、そのまま亡くなってしまったのです。

幸いなことにコチラも、生前の義詮が、領国の阿波(あわ=徳島県)に戻っていた細川頼之(ほそかわよりゆき)を都に呼び寄せて、次期将軍に息子の足利義満(よしみつ)を指名し、ベテランの彼に、そのサポート(執事=管領)をしてくれるようしっかりと頼んでいたのでした。

こうして、鎌倉公方はわずか9歳、将軍は11歳という、ともに少年の域を出ない幼君が務める事になったのですが、上記の通り、どちらもしっかりとしたベテランがサポートする形となった事で、特筆すべき混乱は起こらなかったのです。

ただ・・・このあとほどなく、
義満の家督相続を祝賀するため京都に向かった上杉憲顕の留守を狙って河越直重(かわごえただしげ)らを中心に武蔵(むさし=東京都と埼玉&神奈川の一部)の武士たちによる反乱=武蔵平一揆の乱(むさしへいいっきのらん)が勃発し、

これに乗じた宇都宮氏綱や、未だ蠢く南朝の新田義宗(にったよしむね=新田義貞の三男)脇屋義治(わきやよしはる)らが越後にて挙兵します。

しかし、さすがはベテラン上杉憲顕・・・

自身が京都に滞在していた事を幸いに幕府を味方につけ、関東には甥っ子の上杉朝房(ともふさ=犬懸上杉家)に幼き足利氏満を看板に据えて河越(かわごえ=埼玉県川越市)に出陣するよう手配。。。

つまり、完全に「コチラが官軍⇔アチラは賊軍」の構図を見せつけて、周辺の諸将がコチラに味方するよう仕向けたわけです。

おかげで河越における乱は鎮圧され、その勢いのまま北上して新田義宗を討ち取り、脇屋義治を敗走させる事に成功しました。

負け組となった者たちの領地は鎌倉公方の直轄地となり、この功績にて、管領=上杉氏は関東における揺るぎない地位を獲得する事になり、関東での南朝勢力はほぼ壊滅されました。

こうして何とか乱は鎮圧できたものの、上杉憲顕自身は、正平23年・応安元年(1368年)9月19日、この乱の陣中にて帰らぬ人となってしまいました。

死因は「老齢のため」という事なので、合戦での討死ではないようですが、享年62
て、この時代は、62歳で老齢なんですかね?

とは言え、上杉憲顕が敷いたレールはバッチリ!

次期関東管領職は、先ほどの甥っ子=上杉朝房と憲顕息子の上杉能憲(よしのり)の二人がしっかり継ぐ事となります。

ただし…時代はくりかえす・・・と言うのでしょうか?
大人になった足利氏満くんが…ねぇ~
 と、そのお話は【鎌倉公方・足利氏満の関東支配~小山義政の乱】>>でどうぞm(_ _)m
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2023年9月12日 (火)

信長の上洛を阻む六角承禎~観音寺城の戦いの箕作城攻撃

 

永禄十一年(1568年)9月12日、足利義昭を奉じて上洛する織田信長に抵抗した六角承禎との観音寺城の戦いで箕作城への攻撃が開始されました。

・・・・・・・・・

永禄八年(1565年)5月、兄で第13代室町幕府将軍だった足利義輝(あしかがよしてる)を、次期将軍に足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を推す松永久通(まつながひさみち=松永久秀の息子)三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)らに殺害された(5月19日参照>>)弟の足利義昭(よしあき=当時は覚慶)は、

幕府被官であった細川藤孝(ほそかわふじたか=後の細川幽斎)近江(おうみ=滋賀県)の豪族=和田惟政(わだこれまさ)らの助けにより、幽閉場所から何とか逃れ(7月28日参照>>)将軍復権を目指す中、自らを奉じて上洛してくれる武将求めて、美濃(みの=岐阜県南部)を制した(8月15日参照>>)織田信長(おだのぶなが)を頼りました(10月4日参照>>)

美濃を制した3ヶ月後の永禄十年(1567年)11月に、時の正親町天皇(おおぎまちてんのう=第106代)から、美濃の平定を賞する賛美と、その地における皇室領の回復を願う綸旨(りんじ=天皇の命令書)を受け取っていた信長は、この同じタイミングで声をかけて来た足利義昭の依頼に応じ、上洛を決意したのでした。

翌永禄十一年(1568年)7月、義昭が滞在していた越前(えちぜん=福井県東部)に使者を遣わして、美濃の立政寺 (りゅうしょうじ=岐阜県岐阜市 )に義昭を招き入れた信長は、翌8月5日に配下の諸将に向けて出立の兵備を整えるよう通達し、7日には、馬廻り250騎を引き連れて北近江へ向かい、前年に妹(もしくは姪)お市の方を嫁がせて味方につけた佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)浅井長政(あざいながまさ)に会って、上洛への道筋を再確認します(6月28日前半部分参照>>)
(ちなみに信長と長政は、この時が初対面とされています)

そして信長は、この佐和山城滞在中に和田惟政に自身の家臣3名を付き添わせ観音寺城 (かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)にて南近江を支配していた六角氏(ろっかくし)の下へ派遣し、足利義昭の入京を助けるよう求めたのです。

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観音寺城跡に残る石垣

しかし六角承禎(ろっかくじょうてい=義賢)は、これを拒否・・・

室町幕府開幕の一員だった佐々木道誉(ささきどうよ)(参照>>)の流れを汲む源氏のプライドなのか?否か?

心の中は読み取れませんが、とにもかくにも信長は、何度も使者を派遣しますが、病気を理由に使者に会う事もせず、六角承禎は信長の要請を断り続けます。

おかげで信長は、この佐和山城に7日間も滞在する事になってしまいました。

「応じぬならば…潰すしかない」
との決意を胸に岐阜に戻った信長は、いよいよ9月7日、1万5千の軍勢を従えて岐阜を発ったのです(9月7日参照>>)

尾張(おわり=愛知県西部)からは、三河(みかわ=愛知県東部)勢千人を率いた徳川家康(とくがわいえやす)が加わり、浅井長政も江北(こうほく=滋賀県北部)の軍勢3千を出し、9月8日には近江高宮(たかみや=滋賀県彦根市高宮町)に着陣しました。

翌9日と10日は人馬を休息させた後の9月11日、愛知川(えちがわ=鈴鹿山脈から琵琶湖に流れる川)の北岸にて野営し、六角氏の出方を伺います。

一方の六角承禎は、長男の六角義治(よしはる)や次男の六角義定(よしさだ=佐々木義定)らが居城の観音寺城を本陣とし約千の馬廻衆を守備要員として配置し、和田山城(わだやまじょう=滋賀県東近江市五個荘)田中治部大輔(たなかじぶのだゆう)を大将にした主力部隊6千で守らせ、箕作城(みつくりじょう=同東近江市五個荘)吉田出雲守(よしだいずものかみ)3千を籠らせ、さらに周辺の支城18城に被官衆らを配備して守りを固めたのです。

六角氏としては、主力のいる和田山城に信長勢を引き付けておいて、観音寺城と箕作城から出撃したせん滅部隊によって徹底抗戦する作戦でした。

かくして永禄十一年(1568年)9月12日、白々と夜が明ける頃、織田軍は一斉に愛知川を渡り、進撃を開始したのです。

まずは、稲葉一鉄(いなばいってつ)氏家卜全(うじいえぼくぜん)安藤守就(あんどうもりなり)美濃三人衆の部隊を和田山城に向かわせ

柴田勝家(しばたかついえ)池田恒興(いけだつねおき)森可成(もりよしなり)らの部隊を観音寺城に備えさせ

信長自らは佐久間信盛(さくまのぶもり)滝川一益(たきがわかずます)丹羽長秀(にわながひで)木下秀吉(きのしたひでよし=豊臣秀吉)らの率いる部隊を指揮しつつ箕作城へと向かい、すかさず攻撃を仕掛けます。

北からの木下勢、東からの丹羽勢を先頭に、急坂の険しい山肌に喰らい付き、激しく攻め立てましたが、堅固な城壁は容易に崩す事ができず、その日の夕方5時頃=夕暮れ時になっても、城はビクともしませんでした。

やむなく、その日の攻撃を終えた織田軍・・・

しかし、ここで諦めない秀吉の陣では、蜂須賀正勝(はちすかまさかつ=小六)をはじめ前野長康(まえのながやす)生駒親重(いこまちかしげ=土田甚助)らを交えて評議します。

なんせ、朝早くから夕方まで=約7時間ほどに渡って攻撃を続けたにも関わらず、ラチが明かなかったわけですから、
「このまま明日朝から攻撃を再開したとて同じ事のくり返しになるんちゃうん?」
「そうなったら、崩すのは、さらに困難になるのでは?」
「そうこうしているうちに、他の城々と連携して盛り返して来たら?」
「なんなら、今日の合戦は終わった…と思ってる今夜に奇襲をかけてみては?」
の流れとなり、秀吉は、
「ならば…」
と、三尺(約90cm)の大松明(たいまつ)を数百本用意させ、山の麓から中腹にかけて約50か所に分けて積んで置かせた後、

寝静まった真夜中の頃合いを見計らって一斉に火をつけた後、それを1本ずつ持った将兵たちが、銘々松明を振りかざしながら城に攻め上って行ったのです。

秀吉らの予想通り、
「今日の戦いは終わった」
と思っていた箕作城の城兵は慌てふためき、暗闇に浮かぶ松明の炎に兵の数も見誤り、
「やれ!大軍が攻めて来た」
とばかりに、ほとんど抵抗せずに逃げ出してしまったのです。

おかげで、箕作城は翌日の夜明けを待たず落城してしまいました。

また、この状況を目の当たりにした和田山城も、驚いた城兵が次々と逃げ出してしまい、コチラの城も夜のうちに捨てられる事になったのです。

和田山城の本隊が織田勢をくぎ付けにして、箕作城と観音寺城の精鋭部隊で追い込んみながら、京都にいる三好三人衆や松永らの救援を待つつもりでいた六角承禎以下観音寺城の大物らも、

アテが外れたうえに、あまりにもアッサリと二城が陥落した事に驚き、やむなく観音寺城を捨て、夜陰にまぎれて甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)へと落ちて行ったのでした。

この様子を見た18の支城の面々も、本城が明けた以上、これ以上の抵抗はムダ…とばかりに次々と投降して来ます。

一方で、まさに籠城して徹底抗戦を構える者もいました。

六角氏の重臣で日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町)の城主だった蒲生賢秀(がもうかたひで)です。

この時、日野城は織田方の柴田勝家や蜂屋頼隆(はちやよりたか)らに攻撃されていましたが、見事に守り抜き、本城の観音寺城が崩れてもビクともせず、ただ一人になっても信長に抵抗する気満々でいたのです。

しかし、そんな勇将=蒲生賢秀を憂う武将が織田方に一人・・・

それは蒲生賢秀の妹を妻に娶っている伊勢神戸城(かんべじょう=三重県鈴鹿市)神戸具盛(かんべとももり=神戸友盛)

実は、彼も以前は信長に敵対する勢力でしたが、半年ほど前に、娘の婿養子に織田信孝(のぶたか=信長の三男)を迎えて神戸氏の後継者とする事で和睦したばかりだったのです。

信長に蒲生賢秀の説得を申し出た神戸具盛・・・妹婿の説得が効いたのか?蒲生賢秀は、神戸具盛に連れられて観音寺城に入っていた信長のもとへと参上し、嫡子を人質に出す条件で投稿したのでした。

かくして近江を平定した信長は、滞在中の観音寺城から、9月14日、立政寺にて待機していた足利義昭に向けて岐阜を発つよう促し、自らは守山(もりやま=滋賀県守山市)から琵琶湖を渡って三井寺(みいでら=滋賀県大津市:園城寺)に入って、そこを本陣としつつ義昭を待ち、

義昭と合流した翌日の9月28日、ともに京都に入ったのでした。

Nobunagazyouraku
信長上洛の道のり
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

ところで、今回、チャッチャと城を放棄して逃げちゃう六角父子と、踏ん張って籠城する蒲生父子・・・

しかも、今回の一件で織田家に人質に出される蒲生賢秀の嫡子というのが、ご存知!蒲生氏郷(うじさと)

ほんで、
この父子は、後々の本能寺の変(2015年6月2日参照>>)の時、見事な連携プレーで安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市安土町)にとり残された人々を救う事になります(2017年6月2日参照>>)

そりゃぁ、あーた…ドラマで描くなら蒲生父子の方がステキに決まってますが、

実際には、
徹底的に籠城して城を枕に討死するのも戦国武将なら、
できる限り
命守りながら何度もチャンスを伺うのも戦国武将。。。

人間、生き残ってこそ再起が図れるという物・・・

チャッチャと逃げちゃう…これこそが六角承禎のやり方!です。
(今回は神戸君がいたから蒲生も大丈夫やったけどね)

なんせ、この後も信長と戦う三好三人衆の後援したり、なんやかんやと六角父子はしつこく邪魔して来ますから、ただ逃げるだけじゃなく、やはりしぶといのです。
 ●金ヶ崎の退き口から姉川までの2ヶ月~>>
 ●まさに背水の陣~瓶割柴田の野洲川の戦い>>
(結局、末裔は加賀前田家の家臣として明治維新まで生き残りますしね)

てな事で、信長上洛の際の六角氏との合戦・・・一般的には観音寺城の戦いと呼ばれますが、実は主戦場は箕作城だったというお話でした。

なにげに秀吉一派がカッコイイ…(#^o^#)
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2023年9月 4日 (月)

毛利輝元と宇喜多直家の狭間で…植木秀長&秀資父子と佐井田城攻防

 

元亀二年(1571年)9月4日、毛利輝元が備中に出兵し三村元親と共に植木秀資の佐井田城を攻めるも、守る宇喜多直家らに大敗しました。

・・・・・・・・

斉田城とも才田城とも表記される佐井田城(さいたじょう=岡山県真庭市下中津井)は、室町時代に細川京兆家(ほそかわけいちょうけ=近江源氏・佐々木道誉からの宗家・嫡流)に仕え、備中(びっちゅう=岡山県西部)守護代(しゅごだい=副知事)なども務めた(しょう)の流れを汲む植木秀長(うえきひでなが)によって永正十四年(1517年)頃に築城されたとする備中北東部に位置する標高340m程の山の尾根に沿った山城です。

とは言え、名門の血を受け継ぐ植木秀長とて、戦国も後半になると、出雲(いずも=島根県)尼子(あまこ・あまご=京極氏の支族)からの進攻を受けてやむなく尼子の配下になったり安芸(あき=広島県)で力をつけて来た毛利元就(もうりもとなり)の支援を受けた三村家親(みむらいえちか)が備中制覇に向けて動き出した事で三村の傘下になったり、と、戦国の覇権争いに翻弄されていく事になります。

そんなこんなの永禄九年(1566年)、猿掛城(さるかけじょう=岡山県小田郡矢掛町)庄為資(しょうためすけ=荘為資) を倒して(2月15日参照>>)、事実上、備中(びっちゅう=岡山県西部)覇者となったていた三村家親が、当時は天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)城主の浦上宗景(うらがみむねかげ)被官(ひかん=配下の官僚)であった宇喜多直家(うきたなおいえ)が放った刺客の鉄砲にて暗殺されてしまいます。

激おこの家親息子の三村元親(もとちか)は、翌永禄十年(1567年)7月に宇喜多直家の明善寺城(みょうぜんじじょう=岡山県岡山市中区)を襲撃しますが、直家は、これをわずかな兵で撃退(7月4日参照>>)した事で、その勢いのまま、翌8月に、この、植木秀長の佐井田城に攻め寄せたのです。

城主=秀長は、すかさず大物の毛利元就に援軍を求めますが、残念ながら、この頃の元就の目は九州制覇に向いたっきり(5月3日参照>>)・・・援軍が期待できない事を知った植木秀長は、やむなく宇喜多軍に降伏し、以後は宇喜多の傘下として佐井田城に留まりました。

それから2年後の永禄十二年(1569年)秋、未だ宇喜多への恨みが晴れぬ三村元親は、毛利元就の四男=穂井田元清(ほいだもときよ)を誘い、ともに先手となって、宇喜多に寝返ったままになっている植木秀長が立て籠もる佐井田城へ押し寄せたのです。

しかし、もともと堅城なうえに宇喜多からの加勢もあり、城兵の士気も戦い佐井田城内は鉄壁の防戦を張り、なかなか崩れる気配を見せません。

そこで元清は、城を遠巻きに囲み兵糧攻めの長期作戦に切り替えます。

これを受けた城内の植木秀長は、直家の沼城(ぬまじょう=岡山県岡山市・亀山城)に密かに使者を送り、更なる援軍の派遣を要請します。

すぐさま1万の兵を率いて救援に駆け付けて城を囲む毛利軍を攻め立てる宇喜多軍でしたが、敵もさる者…宇喜多の援軍来週に備えて熊谷信直(くまがいのぶなお)新手の援軍を用意しており、毛利軍を攻撃する宇喜多軍をさらに外側から挟み撃ち・・・

「もはや!これまでか!」
と思ったところに宇喜多に味方する備中の国衆たちが駆け付けて毛利軍に相対します。

これを見ていた城兵たちが
「このまま城に籠っていても、あと2~3日で兵糧が尽きてしまう」
「それなら討死覚悟で撃って出よう!」
一斉に城門を開いて撃って出た事から、毛利軍は耐え切れず総崩れとなり、やむなく穂井田元清&三村元親ともども退却をしていったのです。

勝利となった宇喜多軍は勝鬨(かちどき)を挙げ、直家は佐井田城に軍兵と兵糧を補給して本領へと戻って行ったのです。

ところが、なんと!この後、穂井田元清の調略によって植木秀長は毛利へと寝返ってしまうのです。

…というのも、ハッキリした記録が無いので曖昧ではありますが、ここらあたりで植木秀長が死去したらしく、佐井田城は嫡男の植木秀資(ひですけ)が継いだものとみられ、その世代交代の混乱を突かれて毛利に寝返ったとも考えられます。

とは言え、
「何してくれとんじゃ!植木のボケ!」
怒り心頭の宇喜多直家は、

毛利に敗れて事実上滅亡していた(11月28日参照>>)尼子氏の再興を願って、この年の春頃から各地を転戦していた尼子勝久(かつひさ・前当主=尼子義久の再従兄弟=はとこ)(7月17日参照>>)と結び、その援軍を得て元亀元年(1570年)正月に備中に向けて出陣し、佐井田城に迫ったのです。

この時、猿掛城からの援軍2000とともに防戦に努めた植木秀資ではありましたが、10ヶ月過ぎても宇喜多勢の攻撃が止むことなく続いたため、この年の11月になって降伏・・・直家は奪い取った佐井田城に大賀駿河守(おおがするがのかみ)以下1千余騎を常駐させる事にし、自身は備前へと戻ったのでした。

そんなこんなの元亀二年(1571年)秋、この年の6月に毛利元就が死去した事で、名実ともに毛利の家督を継承した嫡孫の毛利輝元(てるもと=毛利隆元の息子)備中に兵を出し、三村元親と共に佐井田城を攻めて来たのです。

この時、佐井田城を守っていたのは浦上宗景配下の岡本秀広(おかもとひでひろ)や宇喜多直家配下の伊賀久隆(いがひさたか)らは、三村元親からの攻撃が始まると、すぐさま備前(びぜん=岡山県南東部)美作(みまさか=岡山県東北部)播磨(はりま=兵庫県南西部)の三国から多くの援軍を得る事に成功し、それらを交えて頑固に抵抗します。

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佐井田城攻防の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな中で訪れた元亀二年(1571年)9月4日佐井田城外での合戦で大敗して毛利の部将=長井越前守(ながいえちぜんのかみ)を失った三村元親は、やむなく一旦は全軍を退却させるしかありませんでした。

それでも、毛利が手を緩めず、猿掛城や松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市内山下)を拠点にして何度も新手の援軍を繰り出し、執拗に佐井田城に迫り続け、攻撃が長期に渡った事から、

やがては、浦上&宇喜多の両氏が佐井田城から手を退く事となってしまい、両氏からの援軍が望めなくなった植木秀資は、やむなく城を捨てて出雲へと逃走したのでした。

こうして佐井田城は三村元親の物となりますが、

それから3年後の天正二年(1574年)、長年、毛利のお世話になっていた三村元親が、永禄十一年(1568年)に足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛し(9月7日参照>>)、事実上畿内を制した形になっていた織田信長(おだのぶなが)に降った事から、毛利は「三村せん滅作戦」を開始する事になるのです。

この頃、浦上からの独立を模索して、すでに主君の浦上宗景と敵対していた宇喜多直家は、敵の敵は味方とばかりに毛利に近づいて小早川隆景(こばやかわたかかげ=毛利元就の三男)に援軍を要請・・・ここぞとばかりに出雲からもどって来た植木秀資も加わって、総勢8000の兵力で以って佐井田城を攻め立てたのです。

この時の三村方の城兵は、わずかに300騎余り・・・やむなく三村方は佐井田城を明け渡す事になりました。

これはまさしく、備中兵乱(びっちゅうひょうらん)と呼ばれる備中における大乱の始まりでした。

この後、戦いは
天正三年(1575年)…
1月の高田城攻防戦>>
4月の天神山城の戦い>>
6月の松山合戦>>
へと続く事になります。

ちなみに、これらの複数の戦いで功績を挙げた植木秀資は、天正八年(1580年)に、無事、佐井田城の城主に返り咲いています
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