毛利輝元と宇喜多直家の狭間で…植木秀長&秀資父子と佐井田城攻防
元亀二年(1571年)9月4日、毛利輝元が備中に出兵し三村元親と共に植木秀資の佐井田城を攻めるも、守る宇喜多直家らに大敗しました。
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斉田城とも才田城とも表記される佐井田城(さいたじょう=岡山県真庭市下中津井)は、室町時代に細川京兆家(ほそかわけいちょうけ=近江源氏・佐々木道誉からの宗家・嫡流)に仕え、備中(びっちゅう=岡山県西部)守護代(しゅごだい=副知事)なども務めた庄(しょう)氏の流れを汲む植木秀長(うえきひでなが)によって永正十四年(1517年)頃に築城されたとする備中北東部に位置する標高340m程の山の尾根に沿った山城です。
とは言え、名門の血を受け継ぐ植木秀長とて、戦国も後半になると、出雲(いずも=島根県)の尼子(あまこ・あまご=京極氏の支族)氏からの進攻を受けてやむなく尼子の配下になったり、安芸(あき=広島県)で力をつけて来た毛利元就(もうりもとなり)の支援を受けた三村家親(みむらいえちか)が備中制覇に向けて動き出した事で三村の傘下になったり、と、戦国の覇権争いに翻弄されていく事になります。
そんなこんなの永禄九年(1566年)、猿掛城(さるかけじょう=岡山県小田郡矢掛町)の庄為資(しょうためすけ=荘為資) を倒して(2月15日参照>>)、事実上、備中(びっちゅう=岡山県西部)の覇者となったていた三村家親が、当時は天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)城主の浦上宗景(うらがみむねかげ)の被官(ひかん=配下の官僚)であった宇喜多直家(うきたなおいえ)が放った刺客の鉄砲にて暗殺されてしまいます。
激おこの家親息子の三村元親(もとちか)は、翌永禄十年(1567年)7月に宇喜多直家の明善寺城(みょうぜんじじょう=岡山県岡山市中区)を襲撃しますが、直家は、これをわずかな兵で撃退(7月4日参照>>)した事で、その勢いのまま、翌8月に、この、植木秀長の佐井田城に攻め寄せたのです。
城主=秀長は、すかさず大物の毛利元就に援軍を求めますが、残念ながら、この頃の元就の目は九州制覇に向いたっきり(5月3日参照>>)・・・援軍が期待できない事を知った植木秀長は、やむなく宇喜多軍に降伏し、以後は宇喜多の傘下として佐井田城に留まりました。
それから2年後の永禄十二年(1569年)秋、未だ宇喜多への恨みが晴れぬ三村元親は、毛利元就の四男=穂井田元清(ほいだもときよ)を誘い、ともに先手となって、宇喜多に寝返ったままになっている植木秀長が立て籠もる佐井田城へ押し寄せたのです。
しかし、もともと堅城なうえに宇喜多からの加勢もあり、城兵の士気も戦い佐井田城内は鉄壁の防戦を張り、なかなか崩れる気配を見せません。
そこで元清は、城を遠巻きに囲み兵糧攻めの長期作戦に切り替えます。
これを受けた城内の植木秀長は、直家の沼城(ぬまじょう=岡山県岡山市・亀山城)に密かに使者を送り、更なる援軍の派遣を要請します。
すぐさま1万の兵を率いて救援に駆け付けて城を囲む毛利軍を攻め立てる宇喜多軍でしたが、敵もさる者…宇喜多の援軍来週に備えて熊谷信直(くまがいのぶなお)ら新手の援軍を用意しており、毛利軍を攻撃する宇喜多軍をさらに外側から挟み撃ち・・・
「もはや!これまでか!」
と思ったところに宇喜多に味方する備中の国衆たちが駆け付けて毛利軍に相対します。
これを見ていた城兵たちが
「このまま城に籠っていても、あと2~3日で兵糧が尽きてしまう」
「それなら討死覚悟で撃って出よう!」
と一斉に城門を開いて撃って出た事から、毛利軍は耐え切れず総崩れとなり、やむなく穂井田元清&三村元親ともども退却をしていったのです。
勝利となった宇喜多軍は勝鬨(かちどき)を挙げ、直家は佐井田城に軍兵と兵糧を補給して本領へと戻って行ったのです。
ところが、なんと!この後、穂井田元清の調略によって植木秀長は毛利へと寝返ってしまうのです。
…というのも、ハッキリした記録が無いので曖昧ではありますが、ここらあたりで植木秀長が死去したらしく、佐井田城は嫡男の植木秀資(ひですけ)が継いだものとみられ、その世代交代の混乱を突かれて毛利に寝返ったとも考えられます。
とは言え、
「何してくれとんじゃ!植木のボケ!」
と怒り心頭の宇喜多直家は、
毛利に敗れて事実上滅亡していた(11月28日参照>>)尼子氏の再興を願って、この年の春頃から各地を転戦していた尼子勝久(かつひさ・前当主=尼子義久の再従兄弟=はとこ)(7月17日参照>>)と結び、その援軍を得て元亀元年(1570年)正月に備中に向けて出陣し、佐井田城に迫ったのです。
この時、猿掛城からの援軍2000とともに防戦に努めた植木秀資ではありましたが、10ヶ月過ぎても宇喜多勢の攻撃が止むことなく続いたため、この年の11月になって降伏・・・直家は奪い取った佐井田城に大賀駿河守(おおがするがのかみ)以下1千余騎を常駐させる事にし、自身は備前へと戻ったのでした。
そんなこんなの元亀二年(1571年)秋、この年の6月に毛利元就が死去した事で、名実ともに毛利の家督を継承した嫡孫の毛利輝元(てるもと=毛利隆元の息子)が備中に兵を出し、三村元親と共に佐井田城を攻めて来たのです。
この時、佐井田城を守っていたのは浦上宗景配下の岡本秀広(おかもとひでひろ)や宇喜多直家配下の伊賀久隆(いがひさたか)らは、三村元親からの攻撃が始まると、すぐさま備前(びぜん=岡山県南東部)&美作(みまさか=岡山県東北部)&播磨(はりま=兵庫県南西部)の三国から多くの援軍を得る事に成功し、それらを交えて頑固に抵抗します。
佐井田城攻防の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
そんな中で訪れた元亀二年(1571年)9月4日の佐井田城外での合戦で大敗して毛利の部将=長井越前守(ながいえちぜんのかみ)を失った三村元親は、やむなく一旦は全軍を退却させるしかありませんでした。
それでも、毛利が手を緩めず、猿掛城や松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市内山下)を拠点にして何度も新手の援軍を繰り出し、執拗に佐井田城に迫り続け、攻撃が長期に渡った事から、
やがては、浦上&宇喜多の両氏が佐井田城から手を退く事となってしまい、両氏からの援軍が望めなくなった植木秀資は、やむなく城を捨てて出雲へと逃走したのでした。
こうして佐井田城は三村元親の物となりますが、
それから3年後の天正二年(1574年)、長年、毛利のお世話になっていた三村元親が、永禄十一年(1568年)に足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛し(9月7日参照>>)、事実上畿内を制した形になっていた織田信長(おだのぶなが)に降った事から、毛利は「三村せん滅作戦」を開始する事になるのです。
この頃、浦上からの独立を模索して、すでに主君の浦上宗景と敵対していた宇喜多直家は、敵の敵は味方とばかりに毛利に近づいて小早川隆景(こばやかわたかかげ=毛利元就の三男)に援軍を要請・・・ここぞとばかりに出雲からもどって来た植木秀資も加わって、総勢8000の兵力で以って佐井田城を攻め立てたのです。
この時の三村方の城兵は、わずかに300騎余り・・・やむなく三村方は佐井田城を明け渡す事になりました。
これはまさしく、備中兵乱(びっちゅうひょうらん)と呼ばれる備中における大乱の始まりでした。
この後、戦いは
天正三年(1575年)…
1月の高田城攻防戦>>
4月の天神山城の戦い>>
6月の松山合戦>>
へと続く事になります。
ちなみに、これらの複数の戦いで功績を挙げた植木秀資は、天正八年(1580年)に、無事、佐井田城の城主に返り咲いています。
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