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2023年9月12日 (火)

信長の上洛を阻む六角承禎~観音寺城の戦いの箕作城攻撃

 

永禄十一年(1568年)9月12日、足利義昭を奉じて上洛する織田信長に抵抗した六角承禎との観音寺城の戦いで箕作城への攻撃が開始されました。

・・・・・・・・・

永禄八年(1565年)5月、兄で第13代室町幕府将軍だった足利義輝(あしかがよしてる)を、次期将軍に足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を推す松永久通(まつながひさみち=松永久秀の息子)三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)らに殺害された(5月19日参照>>)弟の足利義昭(よしあき=当時は覚慶)は、

幕府被官であった細川藤孝(ほそかわふじたか=後の細川幽斎)近江(おうみ=滋賀県)の豪族=和田惟政(わだこれまさ)らの助けにより、幽閉場所から何とか逃れ(7月28日参照>>)将軍復権を目指す中、自らを奉じて上洛してくれる武将求めて、美濃(みの=岐阜県南部)を制した(8月15日参照>>)織田信長(おだのぶなが)を頼りました(10月4日参照>>)

美濃を制した3ヶ月後の永禄十年(1567年)11月に、時の正親町天皇(おおぎまちてんのう=第106代)から、美濃の平定を賞する賛美と、その地における皇室領の回復を願う綸旨(りんじ=天皇の命令書)を受け取っていた信長は、この同じタイミングで声をかけて来た足利義昭の依頼に応じ、上洛を決意したのでした。

翌永禄十一年(1568年)7月、義昭が滞在していた越前(えちぜん=福井県東部)に使者を遣わして、美濃の立政寺 (りゅうしょうじ=岐阜県岐阜市 )に義昭を招き入れた信長は、翌8月5日に配下の諸将に向けて出立の兵備を整えるよう通達し、7日には、馬廻り250騎を引き連れて北近江へ向かい、前年に妹(もしくは姪)お市の方を嫁がせて味方につけた佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)浅井長政(あざいながまさ)に会って、上洛への道筋を再確認します(6月28日前半部分参照>>)
(ちなみに信長と長政は、この時が初対面とされています)

そして信長は、この佐和山城滞在中に和田惟政に自身の家臣3名を付き添わせ観音寺城 (かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)にて南近江を支配していた六角氏(ろっかくし)の下へ派遣し、足利義昭の入京を助けるよう求めたのです。

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観音寺城跡に残る石垣

しかし六角承禎(ろっかくじょうてい=義賢)は、これを拒否・・・

室町幕府開幕の一員だった佐々木道誉(ささきどうよ)(参照>>)の流れを汲む源氏のプライドなのか?否か?

心の中は読み取れませんが、とにもかくにも信長は、何度も使者を派遣しますが、病気を理由に使者に会う事もせず、六角承禎は信長の要請を断り続けます。

おかげで信長は、この佐和山城に7日間も滞在する事になってしまいました。

「応じぬならば…潰すしかない」
との決意を胸に岐阜に戻った信長は、いよいよ9月7日、1万5千の軍勢を従えて岐阜を発ったのです(9月7日参照>>)

尾張(おわり=愛知県西部)からは、三河(みかわ=愛知県東部)勢千人を率いた徳川家康(とくがわいえやす)が加わり、浅井長政も江北(こうほく=滋賀県北部)の軍勢3千を出し、9月8日には近江高宮(たかみや=滋賀県彦根市高宮町)に着陣しました。

翌9日と10日は人馬を休息させた後の9月11日、愛知川(えちがわ=鈴鹿山脈から琵琶湖に流れる川)の北岸にて野営し、六角氏の出方を伺います。

一方の六角承禎は、長男の六角義治(よしはる)や次男の六角義定(よしさだ=佐々木義定)らが居城の観音寺城を本陣とし約千の馬廻衆を守備要員として配置し、和田山城(わだやまじょう=滋賀県東近江市五個荘)田中治部大輔(たなかじぶのだゆう)を大将にした主力部隊6千で守らせ、箕作城(みつくりじょう=同東近江市五個荘)吉田出雲守(よしだいずものかみ)3千を籠らせ、さらに周辺の支城18城に被官衆らを配備して守りを固めたのです。

六角氏としては、主力のいる和田山城に信長勢を引き付けておいて、観音寺城と箕作城から出撃したせん滅部隊によって徹底抗戦する作戦でした。

かくして永禄十一年(1568年)9月12日、白々と夜が明ける頃、織田軍は一斉に愛知川を渡り、進撃を開始したのです。

まずは、稲葉一鉄(いなばいってつ)氏家卜全(うじいえぼくぜん)安藤守就(あんどうもりなり)美濃三人衆の部隊を和田山城に向かわせ

柴田勝家(しばたかついえ)池田恒興(いけだつねおき)森可成(もりよしなり)らの部隊を観音寺城に備えさせ

信長自らは佐久間信盛(さくまのぶもり)滝川一益(たきがわかずます)丹羽長秀(にわながひで)木下秀吉(きのしたひでよし=豊臣秀吉)らの率いる部隊を指揮しつつ箕作城へと向かい、すかさず攻撃を仕掛けます。

北からの木下勢、東からの丹羽勢を先頭に、急坂の険しい山肌に喰らい付き、激しく攻め立てましたが、堅固な城壁は容易に崩す事ができず、その日の夕方5時頃=夕暮れ時になっても、城はビクともしませんでした。

やむなく、その日の攻撃を終えた織田軍・・・

しかし、ここで諦めない秀吉の陣では、蜂須賀正勝(はちすかまさかつ=小六)をはじめ前野長康(まえのながやす)生駒親重(いこまちかしげ=土田甚助)らを交えて評議します。

なんせ、朝早くから夕方まで=約7時間ほどに渡って攻撃を続けたにも関わらず、ラチが明かなかったわけですから、
「このまま明日朝から攻撃を再開したとて同じ事のくり返しになるんちゃうん?」
「そうなったら、崩すのは、さらに困難になるのでは?」
「そうこうしているうちに、他の城々と連携して盛り返して来たら?」
「なんなら、今日の合戦は終わった…と思ってる今夜に奇襲をかけてみては?」
の流れとなり、秀吉は、
「ならば…」
と、三尺(約90cm)の大松明(たいまつ)を数百本用意させ、山の麓から中腹にかけて約50か所に分けて積んで置かせた後、

寝静まった真夜中の頃合いを見計らって一斉に火をつけた後、それを1本ずつ持った将兵たちが、銘々松明を振りかざしながら城に攻め上って行ったのです。

秀吉らの予想通り、
「今日の戦いは終わった」
と思っていた箕作城の城兵は慌てふためき、暗闇に浮かぶ松明の炎に兵の数も見誤り、
「やれ!大軍が攻めて来た」
とばかりに、ほとんど抵抗せずに逃げ出してしまったのです。

おかげで、箕作城は翌日の夜明けを待たず落城してしまいました。

また、この状況を目の当たりにした和田山城も、驚いた城兵が次々と逃げ出してしまい、コチラの城も夜のうちに捨てられる事になったのです。

和田山城の本隊が織田勢をくぎ付けにして、箕作城と観音寺城の精鋭部隊で追い込んみながら、京都にいる三好三人衆や松永らの救援を待つつもりでいた六角承禎以下観音寺城の大物らも、

アテが外れたうえに、あまりにもアッサリと二城が陥落した事に驚き、やむなく観音寺城を捨て、夜陰にまぎれて甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)へと落ちて行ったのでした。

この様子を見た18の支城の面々も、本城が明けた以上、これ以上の抵抗はムダ…とばかりに次々と投降して来ます。

一方で、まさに籠城して徹底抗戦を構える者もいました。

六角氏の重臣で日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町)の城主だった蒲生賢秀(がもうかたひで)です。

この時、日野城は織田方の柴田勝家や蜂屋頼隆(はちやよりたか)らに攻撃されていましたが、見事に守り抜き、本城の観音寺城が崩れてもビクともせず、ただ一人になっても信長に抵抗する気満々でいたのです。

しかし、そんな勇将=蒲生賢秀を憂う武将が織田方に一人・・・

それは蒲生賢秀の妹を妻に娶っている伊勢神戸城(かんべじょう=三重県鈴鹿市)神戸具盛(かんべとももり=神戸友盛)

実は、彼も以前は信長に敵対する勢力でしたが、半年ほど前に、娘の婿養子に織田信孝(のぶたか=信長の三男)を迎えて神戸氏の後継者とする事で和睦したばかりだったのです。

信長に蒲生賢秀の説得を申し出た神戸具盛・・・妹婿の説得が効いたのか?蒲生賢秀は、神戸具盛に連れられて観音寺城に入っていた信長のもとへと参上し、嫡子を人質に出す条件で投稿したのでした。

かくして近江を平定した信長は、滞在中の観音寺城から、9月14日、立政寺にて待機していた足利義昭に向けて岐阜を発つよう促し、自らは守山(もりやま=滋賀県守山市)から琵琶湖を渡って三井寺(みいでら=滋賀県大津市:園城寺)に入って、そこを本陣としつつ義昭を待ち、

義昭と合流した翌日の9月28日、ともに京都に入ったのでした。

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信長上洛の道のり
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

ところで、今回、チャッチャと城を放棄して逃げちゃう六角父子と、踏ん張って籠城する蒲生父子・・・

しかも、今回の一件で織田家に人質に出される蒲生賢秀の嫡子というのが、ご存知!蒲生氏郷(うじさと)

ほんで、
この父子は、後々の本能寺の変(2015年6月2日参照>>)の時、見事な連携プレーで安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市安土町)にとり残された人々を救う事になります(2017年6月2日参照>>)

そりゃぁ、あーた…ドラマで描くなら蒲生父子の方がステキに決まってますが、

実際には、
徹底的に籠城して城を枕に討死するのも戦国武将なら、
できる限り
命守りながら何度もチャンスを伺うのも戦国武将。。。

人間、生き残ってこそ再起が図れるという物・・・

チャッチャと逃げちゃう…これこそが六角承禎のやり方!です。
(今回は神戸君がいたから蒲生も大丈夫やったけどね)

なんせ、この後も信長と戦う三好三人衆の後援したり、なんやかんやと六角父子はしつこく邪魔して来ますから、ただ逃げるだけじゃなく、やはりしぶといのです。
 ●金ヶ崎の退き口から姉川までの2ヶ月~>>
 ●まさに背水の陣~瓶割柴田の野洲川の戦い>>
(結局、末裔は加賀前田家の家臣として明治維新まで生き残りますしね)

てな事で、信長上洛の際の六角氏との合戦・・・一般的には観音寺城の戦いと呼ばれますが、実は主戦場は箕作城だったというお話でした。

なにげに秀吉一派がカッコイイ…(#^o^#)
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