鎌倉公方と関東管領~足利基氏と上杉憲顕
正平23年・応安元年(1368年)9月19日、鎌倉公方を支えた初代関東管領の上杉憲顕が、乱鎮圧の陣中で亡くなりました。
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上杉憲顕(うえすぎのりあき)は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう=第96代)や足利尊氏(あしかがたかうじ)らとともに鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)功労者の一人である上杉憲房(のりふさ=南北朝時代)の息子で、
元弘三年(1333年)の、あの建武の新政(6月6日参照>>)の一環で後醍醐天皇の皇子である成良親王(なりよししんのう)が鎌倉府(関東支配機関)に下った際の護衛の一人として仕えました。
しかし、その後、ご存知のように後醍醐天皇と足利尊氏の間に亀裂が入る(8月19日参照>>)事になるわけですが、そうなっても上杉憲房・憲顕父子は足利尊氏のもとを離れる事は無かったのです。
そのため父の上杉憲房は、後醍醐派の新田義貞(にったよしさだ)が京都を制圧した延元元年・建武三年(1336年)1月の戦い(1月27日参照>>)で、敗戦の色濃くなった足利尊氏を逃がすために壮絶な戦死を遂げています。
こうして父の後を継ぐ事になった上杉憲顕は、5ヶ月後=6月の京都合戦にて京都を奪回して(6月30日参照>>)、その京都で幕府を開く事になった足利家の、地元関東における出張所の役割となった鎌倉府の首長となった足利義詮(よしあきら=尊氏の三男)のもとで執事(しつじ=補佐役)を務める事になりました。
ところが、その後すぐに、突然執事の職を高師冬(こうのもろふゆ=高師直の従兄弟)に交代するよう命じられて上杉憲顕は京都へ・・・2年後に復帰するも、執事の職は高師冬との二人体制になりました。
…と、このあたり=正平五年・観応元年(1350年)で起こるのが、尊氏と弟の足利直義(ただよし)による、あの壮大な兄弟ゲンカ=観応の擾乱(じょうらん)です(10月26日参照>>)。
それまで尊氏の右腕として働いて来た弟と不仲になった事で、尊氏は、関東にいた三男の足利義詮を、その右腕後継者(後に将軍後継者)とすべく京都へ呼び寄せ、代わりに四男の足利基氏(もとうじ)を鎌倉公方(かまくらくぼう=鎌倉を拠点に関東を支配する役)として関東に下向させたのです。
こうして上杉憲顕は、高師冬とともに足利基氏の執事となったわけですが、ややこしい事に、この二人の執事は高師冬が尊氏派で上杉憲顕が直義派・・・
両執事の力関係が拮抗する中で、例の兄弟ゲンカも激しくなり、正平四年・貞和五年(1350年)12月に直義派の上杉重能(しげよし=上杉憲顕&尊氏&直義の従兄弟)が、尊氏派の高師直(こうのもろなお=尊氏の側近・執事)の配下に殺されると、翌正平六年・観応二年(1351年)2月には、その高師直も戦いで命を落とします(2月26日参照>>)。
結局、この泥沼の兄弟ゲンカは正平七年・文和元年(1352年)の足利直義の死を以って終結する事になりますが、この間、直義派として動いていた上杉憲顕は、当然、尊氏の怒りを買い、周囲の諸将にも離反され、上野(こうずけ=群馬県)&越後(えちご=新潟県)の守護職(しゅごしょく=県知事)をはく奪・・・自ら剃髪(ていはつ=坊主)するも信濃(しなの=長野県)へ追放される事になってしまいました。
ところが正平十三年・延文三年(1358年)4月、初代将軍の足利尊氏がこの世を去った(2012年4月30日参照>>)事で上杉憲顕の運命は変わります。
父の死を受けて第2代室町幕府将軍となった足利義詮と鎌倉公方の足利基氏・・・
この時、兄=義詮は29歳、弟=基氏は19歳・・・ともに、自身の生き方&考え方&やり方が定まって来るお年頃。
兄の義詮が未だ続く南北朝の動乱の中で将軍の力を確固たる物に押し上げる事にまい進する(2023年4月30日参照>>)一方で、
弟の基氏は政権運営に自らの手腕を発揮したいと願い、これまで執事を務めていた畠山国清(はたけやまくにきよ)の追い落としに取り掛かり、正平十六年/康安元年(1361年)に国清を罷免します。
畠山国清は、わずか10歳で鎌倉公方となった基氏を良く支えてくれてはいましたが、幼き公方を支える執事という者は、考えようによっちゃぁ公方が幼いのを良い事に自身の好き勝手にやって来ていたとも言えるわけで、大人になった基氏から見れば、うっとぉしいご意見番を排除して自身の思う通りに~って思うのも無理はありません。
とは言え、政治の実務を担当する人物は必要なわけで・・・そこで、経験者の上杉憲顕を呼び戻す事にしたのです。
上杉憲顕宛て…政界に復帰するよう要請する足利基氏書状(米沢市立上杉博物館蔵)
書状には「京都も度々仰せ…」とあり、将軍の足利義詮も憲顕の復帰を願っている事がうかがえます。
とは言え、かつて上杉憲顕がはく奪された上野と越後の守護職を守護代(しゅごだい=副知事)として引き継いでいた宇都宮氏綱(うつのみやうじつな)は上杉憲顕をすんなり受け入れる事ができずに反発!
「 宇都宮氏綱が鎌倉へとやって来る上杉憲顕を待ち伏せしている」との情報を掴んだ足利基氏は、自ら兵を率いて岩殿山(いわどのやま=埼玉県東松山市)にて宇都宮軍を撃退し、無事、上杉憲顕を鎌倉に迎え入れたのでした。
この時から、関東執事は関東管領(かんとうかんれい)と呼ばれるようになり、関東管領が鎌倉公方を支えながら政治を行う体制ができあがったのです。
そう・・・この上杉憲顕さんが代々関東管領を受け継ぐ山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)の始祖となり、
それはやがて、北条(ほうじょう)に追われた上杉憲政(のりまさ)が、頼った越後の守護代=長尾景虎(ながおかげとら)に関東管領職を譲り(6月26日参照>>)、その長尾景虎が上杉謙信(けんしん)と名乗るに至るまでの最初の最初という事です。
時に正平十八年/貞治二年(1363年)、足利基氏が24歳、上杉憲顕は57歳でした。
しかし、この二人のタッグは長くは続きませんでした。
正平二十二年・貞治六年(1367年)4月26日、1ヶ月前までは、まだ「軽い病気」との事だった足利基氏が、4月下旬に重篤となり、未だ28歳の若さで亡くなってしまうのです。
唯一の救いは、病床の基氏が我が子=金王丸(こんおうまる=後の足利氏満)を後継者に指名し、それを足利義詮がOKしていた事で、
わずか9歳の後継者にも関わらず、何のモメ事も無く、すんなりと家督継承が進み、関東十ヶ国を束ねる鎌倉公方の役目も、そっくりそのまま金王丸に受け継がれた事でした。
しかし、そのわずか半年後の11月8日・・・はじめは単なる風邪のような症状だった足利義詮の病が、みるみる悪化し、やがて食事もとれない状態となって、そのまま亡くなってしまったのです。
幸いなことにコチラも、生前の義詮が、領国の阿波(あわ=徳島県)に戻っていた細川頼之(ほそかわよりゆき)を都に呼び寄せて、次期将軍に息子の足利義満(よしみつ)を指名し、ベテランの彼に、そのサポート(執事=管領)をしてくれるようしっかりと頼んでいたのでした。
こうして、鎌倉公方はわずか9歳、将軍は11歳という、ともに少年の域を出ない幼君が務める事になったのですが、上記の通り、どちらもしっかりとしたベテランがサポートする形となった事で、特筆すべき混乱は起こらなかったのです。
ただ・・・このあとほどなく、
義満の家督相続を祝賀するため京都に向かった上杉憲顕の留守を狙って、河越直重(かわごえただしげ)らを中心に武蔵(むさし=東京都と埼玉&神奈川の一部)の武士たちによる反乱=武蔵平一揆の乱(むさしへいいっきのらん)が勃発し、
これに乗じた宇都宮氏綱や、未だ蠢く南朝の新田義宗(にったよしむね=新田義貞の三男)&脇屋義治(わきやよしはる)らが越後にて挙兵します。
しかし、さすがはベテラン上杉憲顕・・・
自身が京都に滞在していた事を幸いに幕府を味方につけ、関東には甥っ子の上杉朝房(ともふさ=犬懸上杉家)に幼き足利氏満を看板に据えて河越(かわごえ=埼玉県川越市)に出陣するよう手配。。。
つまり、完全に「コチラが官軍⇔アチラは賊軍」の構図を見せつけて、周辺の諸将がコチラに味方するよう仕向けたわけです。
おかげで河越における乱は鎮圧され、その勢いのまま北上して新田義宗を討ち取り、脇屋義治を敗走させる事に成功しました。
負け組となった者たちの領地は鎌倉公方の直轄地となり、この功績にて、管領=上杉氏は関東における揺るぎない地位を獲得する事になり、関東での南朝勢力はほぼ壊滅されました。
こうして何とか乱は鎮圧できたものの、上杉憲顕自身は、正平23年・応安元年(1368年)9月19日、この乱の陣中にて帰らぬ人となってしまいました。
死因は「老齢のため」という事なので、合戦での討死ではないようですが、享年62…
て、この時代は、62歳で老齢なんですかね?
とは言え、上杉憲顕が敷いたレールはバッチリ!
次期関東管領職は、先ほどの甥っ子=上杉朝房と憲顕息子の上杉能憲(よしのり)の二人がしっかり継ぐ事となります。
ただし…時代はくりかえす・・・と言うのでしょうか?
大人になった足利氏満くんが…ねぇ~
と、そのお話は【鎌倉公方・足利氏満の関東支配~小山義政の乱】>>でどうぞm(_ _)m
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