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2023年10月24日 (火)

川中島の戦いへ~武田信玄VS村上義清の平瀬城の戦い

 

天文二十年(1551年)10月24日、味方の砦を落とされた武田信玄が、村上義清配下の平瀬城を落としました。

・・・・・・・・・

甲斐(かい=山梨県)統一(11月3日参照>>)を果たした父=武田信虎(のぶとら)を、天文十年(1541年)6月に追放して武田家の実権を握った武田信玄(たけだしんげん=当時は晴信ですが、ややこしいので信玄呼びで統一します)は、

まずは信濃(しなの=長野県)攻略に着手・・・
翌天文十一年(1542年)、桑原城(くわばらじょう=長野県諏訪市四賀桑原)を攻撃して諏訪頼重(すわよりしげ)を葬り去った(7月3日参照>>)3ヶ月後には、高遠頼継(たかとおよりつぐ)と宮川で戦って諏訪を掌握します(9月25日参照>>)

さらに伊那(いな=長野県南部・伊那市)に侵攻して(10月29日参照>>)、天文十四年(1545年)11月には福与城(ふくよじょう=長野県上伊那郡箕輪町:箕輪城とも)(11月4日参照>>)を陥落させ、

いよいよ信濃総仕上げとばかりに信濃守護(しゅご=県知事)林城(はやしじょう=長野県松本市)城主の小笠原長時(おがさわらながとき)小県(ちいさがた=長野県中東部・上田市)領主で葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡)城主の村上義清(むらかみよしきよ)らと敵対します。

天文十六年(1547年)8月には志賀城(しがじょう=長野県佐久市 )を落とし(8月17日参照>>)

翌天文十七年(1548年)は、2月に村上義清と上田原(うえだはら=長野県上田市上田原)で戦い(2月14日参照>>)、7月には小笠原長時と塩尻峠(しおじりとうげ=長野県塩尻市と岡谷市)でぶつかりました(7月19日参照>>)

天文十九年(1550年)7月に松本盆地(まつもとぼんち=長野県松本市街地周辺)に侵攻した信玄は、
「ヤバイ!」
と察して村上義清のもとへ逃走した小笠原長時が放棄した林城に入城し、城を破棄して、

その代わりとなる深志城(ふかしじょう=長野県松本市・後の松本城)を修築して、今後の筑摩(ちくま=長野県中西部)安曇(あずみ=長野県北西部)侵攻への拠点としたのです。

さらにこの勢いのまま、この年の9月には小県へ侵攻・・・村上義清傘下の戸石城(といしじょう=長野県上田市)を攻めるのです。

しかしこれが、後に砥石崩れ(といしくずれ)と呼ばれる負けっぷり(9月9日参照>>)・・・

ところが、その戸石城を翌天文二十年(1551年)に5月に、武田の配下となった真田幸隆(さなだゆきたか=真田幸綱とも)単独で攻略してくれた事で村上義清は葛尾城へと移ったのです。

これを受けた信玄は、佐久郡(さくぐん=長野県中東部・小諸市&佐久市など)平定を見せつけるように、
7月30日には桜井山城(さくらいやまじょう=長野県佐久市:稲荷山城とも)に入り、
8月28日には岩尾城(いわおじょう=同佐久市)にて自ら鍬立(くわたて=地鎮祭)を行い
9月14日には岩村田城(いわむらたじょう=同佐久市)修築に着手します。

さらに9月20日には内山城(うちやまじょう=同佐久市)城代だった大井貞清(おおいさだきよ)を更迭して、上原虎満(うえはらとらみつ)を入城させて城代とし、石田小山田氏(いしだおやまだし)を継承させるべく、その名を小山田虎満 (おやまだとらみつ=小山田昌辰)と改めさせた後、

すべての仕置きを終えた信玄は、9月23日に甲府(こうふ)への帰途についたのです。

Hirasezyounotatakaikankeizu
平瀬城の戦い~周辺位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの10月14日、村上義清が丹生子(にゆうのみ=長野県大町市)侵攻して仁科(にしな)氏の砦を落としたのです。

…というのも、どうやら上記の塩尻峠の戦いが終わった頃に、この仁科氏の仁科盛能(にしなもりよし)村上義清から武田信玄に乗り換えていたようで・・・

そりゃぁ裏切られた村上義清としては捨て置けません。

もちろん、新しく仲間になった信玄も・・・てな事で、仁科を救援すべき信玄は、この翌日の15日の未明に甲府を出陣し、その日のうちに深志城に入ります。

かくして天文二十年(1551年)10月24日、武田信玄は、村上義清方に属する平瀬城(ひらせじょう=長野県松本市)を攻撃したのです。

この日は終日、細雨が降る中で激戦に挑んだ武田勢は、平瀬八郎左衛門(ひらせはちろうざえもん)をはじめとする200余名を討ち取り、城は陥落・・・城主の平瀬義兼(よしかね)自刃に追い込んでいます。

28日には平瀬城の城割り(しろわり=城の破却)に着手し、一旦、この城を完全に破却した後、改めて鍬立てを行い、新たな城代として原虎胤(はらとらたね)を平瀬城に入れ、

さらに北へと向かって、27日には小岩嶽城(こいわたけじょう=長野県安曇野市)を攻撃すべく、周辺の支城に放火して回りますが、さすがに本城は堅固な山城で容易に落とす事ができず、

翌月=11月21日になって、ようやく矛を収め、甲府へと戻ったのでした。

この戦いの続きとなる更科八幡(さらしなはちまん=長野市八幡原)の戦いが勃発するのは、この2年後の天文二十二年(1553年)4月の事・・・

ここから5回に渡る、あの川中島(かわなかしま=長野市の犀川と千曲川の間)の戦いが始まる事になります。

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2023年10月17日 (火)

上野城の戦い~武田信虎と大井の方

 

永正十二年(1515年)10月17日、今川氏親の傘下となった上野城大井信達を武田信虎が攻める上野城の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

戦国時代に甲斐上野城(うえのじょう=山梨県南アルプス市)を居城としていた大井(おおい)は、河内源氏(かわちげんじ)源義光(みなもとのよしみつ=八幡太郎義家の弟)新羅三郎義光の流れを汲む武田(たけだ)の庶流。。。

平安末期の源平の合戦(【富士川の戦い】参照>>)や鎌倉初期の承久の乱(じょうきゅうのらん)(【木曽川の戦い】参照>>)で活躍する武田信義(たけだのぶよし)信光(のぶみつ)父子の孫にあたる武田信武(のぶたけ)の三男=信明(のぶあき)が、甲斐西部の大井荘(おおいそう=同南アルプス市)を領有し、南北朝時代の頃に「大井信明」と名乗ったのが始まりとされます。

つまり、甲斐守護(しゅご=県知事)武田氏宗家を継ぐ武田信虎(たけだのぶとら)とはお祖父ちゃんの時代に枝分かれした親戚…という事になるわけですが、信明は守護代(しゅごだい=副知事)を務めた事もあり、武田家を構成する有力な一員であり、甲斐西部における最も有力な豪族だったのです。

Takedanobutora500a とは言え、以前書かせていただいたように、10代当主の武田信満(のぶみつ)が応永二十三年(1416年)の上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)(10月2日参照>>)関わった事で失脚し、甲斐の国は一時的に守護不在の無法状態になって(7月22日参照>>)武田家同士でモメまくっていたのを、永正五年(1508年)に第15代当主の武田信虎が一つにまとめて(10月4日参照>>)何とか落ち着いていたわけです。

その翌年の永正六年(1509年)には、都留郡(つるぐん=山梨県大月市・上野原市・都留市・富士吉田市など)に侵攻して、小山田信有(おやまだのぶあり)を従属させた信虎でしたが、ここに来て、西の隣国=駿河(するが=静岡県東部)今川氏親(いまがわうじちか)甲斐へと侵攻して来たのです。

しかも、先の守護家内の争いゴタゴタ時代に、西部を守る上野城の大井信達(おおいのぶさと)は、すでに今川の傘下になってしまっていましたから、さぁ大変・・・

かくして永正十二年(1515年)10月17日武田信虎は大軍で以って大井信達の居城=上野城を攻めたのです。

しかし、周辺の地形に不慣れだった武田軍は、深田に馬を乗り入れてしまい身動きが取れず・・・そこを敵に襲撃されて、武田勢には多くの戦死者が出てしまいます。

大将クラスで20騎、歩兵は100とも200とも言われ、武田信虎側の完敗となってしまいました。

両者の戦いは、翌永正十三年(1516年)になっても続き、ここに大井信達からの救援要請を受けた今川氏親が加わって

永正十三年(1516年)9月の万力(まんりき=山梨県山梨市万力)の戦い(9月28日参照>>)、
永正十四年(1517年)1月の吉田城(よしだじょう=山梨県富士吉田市:吉田山城)の戦い(1月12日参照>>)と続き、

永正十五年(1518年)の5月にようやく、武田信虎と今川氏親の間に和睦が成立。。。

これを受けて大井信達も武田信虎と和議を結び、大井信達は隠居・・・さらに大井信業(のぶなり)をはじめとする大井信達の息子たちは、これを機に一門・親族衆として武田家臣団に加わります。

また、この同盟の証として大井信達の長女が武田信虎と結婚・・・これが大井の方(おおいのかた=大井夫人)と呼ばれる女性です。

Ooinokata300as 彼女は、このあと
今川氏親の息子である今川義元(よしもと)に嫁ぐ事になる長女=定恵院(じょうけいいん)、
武田家を継ぐ嫡男=晴信(はるのぶ=武田信玄)(11月3日参照>>)
兄を支える副将=信繁(のぶしげ)
←の絵を描いた弟=信廉(のぶかど)という武田を支える子供たちを産むことになります。

後に、嫡男の信玄によって、父の信虎が追放された時も(6月14日参照>>)大井の方は夫に従う事無く甲斐に留まったり

天文十七年(1548年)の村上義清 (むらかみよしきよ)との上田原(うえだはら=長野県上田市)戦い(6月14日参照>>)での結果に納得がいかず、いつまでも兵を撤退させない信玄に対して、母として活を入れ、

その説得に応じて信玄が兵を納めるという場面もあった事を踏まえると、、、

この大井の方という女性は、意外に根性のある怖い母ちゃんだったのかも知れませんね。

★お詫び=この上野城の戦いは、このあとの万力の戦いや吉田城攻防と流れが同じであるため、以前のページと、かなり内容がカブッておりますがご了承くださいませm(_ _)m
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2023年10月10日 (火)

応仁の乱の前に…畠山政長VS畠山義就~龍田城の戦い

 

長禄四年(1460年)10月10日、管領家=畠山氏の後継者を巡る戦いで畠山政長と畠山義就の龍田城の戦いがありました。

・・・・・・・

未だ後を継ぐべく息子がいなかった第8代室町幕府将軍の足利義政(あしかがよしまさ)が、将軍職を譲ろうと、坊さんになっていた弟の足利義視(よしみ)(1月7日参照>>)をわざわざ還俗(げんぞく=出家した人が俗世間の一般人に戻る事)させたにも関わらず、

Ouninnoransoukanzucc このタイミングで正室の日野富子(ひのとみこ)との間に男の子=足利義尚(よしひさ)が誕生する。。。

そんな将軍家の後継者争いに有力武将である畠山(はたけやま)斯波(しば)の後継者争いが絡み、それぞれに味方する全国の武将が東西真っ二つに分かれて争った応仁の乱。。。(5月20日参照>>)

これまでも何度か書かせていただいてますが、そんな応仁の乱の口火を切る直接の戦いとなったのが、
畠山政長(はたけやままさなが)
畠山義就(よしひろ・よしなり)
従兄弟同士が応仁元年(1467年)1月17日に争った御霊合戦(ごりょうかっせん)だったわけです(1月17日参照>>)

そもそも、
そんな御霊合戦に至る最初の最初は・・・

室町幕府政権下において
河内(かわち=大阪府東部)
紀伊(きい=和歌山県&三重県南部)
山城(やましろ=京都府南部)
越中(えっちゅう=富山県)
大和(やまと=奈良県)の一部などなどの
広範囲の守護(しゅご=県知事)を任され、細川氏・斯波氏とともに、管領職を順番に務める三管領家(さんかんれいけ)の一つとされた名門の畠山氏の当主であった畠山持国(もちくに)が、

それまで弟の畠山持富(もちとみ)後継者に指名していたにも関わらず、
「やっぱ、我が子がカワイイ」
と、文安五年(1448年)に持富を廃して、身分の低い愛妾が産んだ自身の子=畠山義就を後継者に指名した事に始まります。

身分の上下を重んじる守護代(しゅごだい=副知事)遊佐長直(ゆさながなお)神保長誠(じんぼうながのぶ)らが義就の擁立に反対して持豊を推し、

持富亡き(宝徳4年=1452年に死亡)後は、その息子の畠山政久(まさひさ:長禄3年=1459年に死去)、さらに政久亡き後は弟の畠山政長を推して対立したわけです。

その対立は御大=畠山持国が死去しても続き、やがて両者は誉田(こんだ=大阪府羽曳野市)付近にて合戦に至ります。

この合戦に政長の助っ人として参戦していたのが筒井順永(つついじゅんえい=筒井順慶の曾祖父)
義就の助っ人だったのが越智(おち)でした。

そう・・・上記の通り、畠山は大和の守護でもあったため、未だ突出した武将がいなかった奈良の国衆(くにしゅう=地侍)たちも、この畠山氏の後継者争いに巻き込まれて行くのです。

この時の戦いが義就方の勝利に終わった事で、筒井順永は奈良を追われ越智氏が台頭する事になりましたが、それに助け船を出したのが、かねてより政長を推す、時の幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)細川勝元(ほそかわかつもと)だったのです。

勝元が出張ってくれたおかげで、越智氏が力づくで奪った筒井氏や箸尾(はしお=大和国衆)の所領を、その権威をチラつかせてムリクリで返還させてくれて、なんとか助かる筒井順永・・・

しかし、常に味方してくれる越智氏を可愛がる義就としては、そんな横暴を見過ごせず、断固として勝元に「不当の申し立て」をするのですが、それが、かえって勝元を怒らせ、義就の所領を没収して、なんと!それを政長に与えたのです。

分が悪くなった義就は、同じ遊佐氏でも長直らと対立する遊佐国助(くにすけ)を頼って若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市若江南町)へと籠り、ここで勝元らに抵抗する事にしたのです。

こうして、好むと好まざるに関わらず、大和の国衆たちは、それぞれの系列に分断されて戦いに巻き込まれていく事になるのです。

★政長派=細川勝元・高田・布施・箸尾・十市・筒井など
★義就派=山名宗全(やまなそうぜん)・越智・曽我・楢原・古市など

勝元のおかげで、負けたけど復権した政長は、将軍=足利義政に謁見し、「政」の一字をもらって政長と名乗る事になりました。
(ややこしいので冒頭から「政長」呼びでしたが、実際には、ここで名乗ります)

Tatutazyounotatakaihatakeyama
龍田城の戦い~位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして長禄四年(1460年)10月、幕府からの「義就追討」の御教書 (みぎょうしょ=地位のある人が発する意思表示文書)を拝した政長は、筒井や箸尾などの軍勢を擁して若江城の義就を潰すべく龍田城(たつたじょう=奈良県生駒郡斑鳩町)に入り、そこを本陣としたのです。

ここは生駒山の南端の丘陵を越えて高井田(たかいだ=大阪府東大阪市)に至る竜田越え(たつたごえ)と呼ばれる道で、大和と河内(かわち=大阪府東部)を結ぶ重要な場所だったのです。

一方の義就方・・・

政長の動きを知った義就も、すぐさま軍勢を用意して出陣・・・龍田神社(たつたじんじゃ=同生駒郡斑鳩町)の南西に位置する神南山(じんなんやま=同生駒郡斑鳩町神南:現在の三室山)に布陣します。

やがて10月9日夜・・・まだ、義就の動きを知らぬ政長方では、敵に忍ばせておいた密偵から、
「10日の夜明け前に夜襲をかけるようだ」
との一報が入り、

政長は早速、軍議を開くのですが、諸将からは
「いやいや、若江からここまでどんだけ距離あると思てんねん」
「夜討ちなんか、できるわけないやん」
と一笑に付す声ばかり、

しかし、用心深い政長は、
「そうは言っても…」
一応の警戒を敷き、用心するのでした。

そんな中、やはり!
長禄四年(1460年)10月10日、未だ夜が明けきらぬ頃、近隣の寺々から急を知らせる早鐘が鳴り響きます。

「やっぱ、来たやん!」
と緊張する政長勢。。。

実は、
本陣を出た後、二手に分かれた義就軍は、遊佐軍1500が福貴(ふき=奈良県生駒郡平群町)に進み、越智を中心とした別動隊は龍田川と法隆寺(ほうりゅうじ)の間に布陣し、北東から龍田城を伺います。

両者が最初にぶつかったのは辰の刻(午前8時頃)

開戦時には、のんびり政長軍に対して、ピリリ感が強い義就軍ですが、実は兵の数に差があり、政長の多勢に対し義就は無勢・・・

その数の少なさは埋める事が出来ず、義就軍の先鋒を預かった越智軍は、瞬く間に押され気味になり、越智家国(いえくに)をはじめとする大物武将たちが次々と討死する中、激戦の末に5分の2の自軍を失い、やむなく撤退・・・何とか危地を脱出しました。

2度目の合戦は巳の刻(午前10時頃)

この時も義就軍は奮戦するも政長軍に押され神南山まで戻されてしまいます。

勢いに乗る政長軍は、神南山の山頂めがけて突進・・・大手を行くのは筒井順永、南面は神保長誠、北は遊佐長直、西はわざと開けておいて逃げる敵を落とす作戦です。

義就軍も決死の覚悟で奮戦しますが、『新撰長禄寛正記』によれば、
「一人もあまさず討たれ…」
と表現されるほどの完敗となってしまったようです。

…と、ここまで散々「義就軍」「義就軍」と書いてて何ですが、実は総大将の畠山義就は、この時点では未だ若江城にいました。
(兵が少ないなら出ろよ!て思いますが、なんせ総大将なんで…(^o^;))

ただ義就は、戦いを配下に任せて逃げてたわけではありません。

「もし郎党がすべて討死したならば、ワシも討死して、ともに三途の川を渡る!」
と誓い、午後になってから後詰として出陣するつもりでいたのです。

と、そこへ遊佐の配下の伝令がやって来て
「神南山が苦戦しておりますが、総大将の援軍あれば味方は皆無事に退けましょう」
と言うので、

義就は300騎ほどを用意して、自ら出陣・・・

しかし、上記の通り、時すでに遅し。。。

戦場近くに着いた頃には、もはや味方のほとんどが討たれて、回復の余地無し。

やむなく義就は、河内方面へと落ちて行ったのでした。

しかしご存知の通り、
政長VS義就の戦いはまだまだ終わりません…なんせ応仁の乱の口火を切るわけですから。。。

まだ応仁の乱ではない、今回の続きのお話は文正元年(1466年)10月の【高田城の戦い】>>でどうぞm(_ _)m
(戦いの原因をお話するため、前半部分の内容がカブってますが、お許しを…)
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2023年10月 2日 (月)

鎌倉公方・足利持氏を襲った上杉禅秀の乱

 

応永二十三年(1416年)10月2日、関東管領を辞した上杉禅秀が、鎌倉公方足利持氏を鎌倉から追い出す上杉禅秀の乱が勃発しました。

・・・・・・・・・

ともに鎌倉幕府を倒しながらも(5月22日参照>>)建武の新政(6月6日参照>>)等々の不満から後醍醐天皇(ごだいごてんのう=第96代)と袂を分かつ事になった(8月19日参照>>)足利尊氏(あしかがたかうじ)は、

尊氏に対抗する後醍醐天皇が吉野(よしの=奈良県)で開いた南朝(なんちょう)(12月21日参照>>)との関係もあり、自身の領国が関東であるにも関わらず、京都にて室町幕府を開く事になりました(11月7日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

そのため、初代将軍となった尊氏は、自らの将軍職を三男の足利義詮(よしあきら=2代将軍)に、領国=関東の支配を四男の足利基氏(もとうじ=初代鎌倉公方)に任せ、それぞれの家系が将軍職&鎌倉公方職を継いでいく~という体制を整えたのです。

その鎌倉公方を補佐するべく生まれたのが関東執事(しつじ)関東管領(かんとうかんれい)で、初代管領となった上杉憲顕(うえすぎのりあき=山内上杉家)から代々上杉家が継いでいく事になります(9月19日参照>>)

こうして固まった
西の将軍と管領、東の鎌倉公方と関東管領という態勢。。。

やがて足利義持(よしもち=義詮の孫)が第4代将軍として政務をこなすようになる頃、鎌倉公方も第3代=足利満兼(みつかね=基氏の孫)の治世となり、京都との関係もそれなりに円満で、その力は陸奥(むつ=福島・宮城・岩手・青森)出羽(でわ=山形・秋田)にまで影響を及ぼすほどになっていました。

しかし、応永十六年(1409年)7月、足利満兼が32歳という若さで亡くなってしまいます。

わずか12歳の息子=足利持氏(もちうじ)が第4代鎌倉公方として後を継ぎ、先々代から10年に渡って公方を支えて来たベテランの上杉憲定(のりさだ=山内上杉家)関東管領として若き持氏をサポートする形としました。

ところが、そんな中で先代=満兼の弟=足利満隆(みつたか=つまり持氏の叔父)による謀反騒動が起こった事もあり、応永十八年(1411年)に関東管領職を犬懸上杉家(いぬがけうえすぎけ)上杉禅秀(ぜんしゅう=上杉氏憲)に譲り上杉憲定は引退・・・翌年に死去してしまいました。

Uesugikekeizu ←上杉家の系図
(クリックで大きくなります)

とは言え、山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)の家督は、息子の上杉憲基(のりもと)が、しっかりと継ぎ、
 .

公方=持氏&管領=禅秀のコンビも揺るぐことなく・・・

と行きたいところですが、どうやら持氏と禅秀はソリが合わなかったようで、持氏は何かにつけて禅秀より憲基を頼るのです。

やがて関係スタートから、わずか4年後の応永二十二年(1415年)、評定の席にて持氏に散々不満を述べた禅秀は、その勢いのまま関東管領職を返上してしまうのです。

こうして関東管領は上杉憲基に交代・・・

ま、この頃の持氏は、すでに19歳になってましたから、自らの意志で政務をこなしたいお年頃・・・古株管領にゴチャゴチャ言われたくなかったのかも知れませんが・・・

とは言え、持氏に不満を持っていた者は、今回の禅秀だけでは無かったのです。

ここしばらくは平和が保たれた良い時代ではあったものの、そんな平和の中でも守護職(しゅごしょく=県知事)を賜ったり、公方に後ろ盾になってもらったりして出世した関東武士もいれば、現状維持のまま押さえつけられていた者もいたわけで、

さらに、
かつて謀反騒動を起こした足利満隆なんかも、このまま甥っ子の権力だけが拡大すると自身の立場が、どんどん狭くなっていくわけで・・・

そんな彼らが上杉禅秀のもとに集まって来るには、さほどの時間はかかりませんでした。

かくして応永二十三年(1416年)10月2日の夜、足利満隆と養子の足利持仲(もちなか=持氏の弟)が密かに西御門(にしみかど=神奈川県鎌倉市)宝寿院(ほうじゅいん)に入って決起の旗を揚げ、

同時に上杉禅秀側でも同心する郎党らが塔辻(とうのつじ=鎌倉市内)即席の櫓(やぐら)を組んで決起しました。

世に上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)と呼ばれる反乱の勃発です。

一方、持氏方では、様子の異変に気づいた近臣の木戸満範(きどみつのり)が、寝ていた持氏を叩き起こし、警備の者たちとともに御所の裏山から海に出て上杉憲基の館へと、無事避難しました。

2日後の10月4日には足利満隆らの軍勢が動き出し、大鳥居から極楽寺口にかけて布陣すると、一方の持氏側の佐竹義人(さたけよしひと)結城基光(ゆうきもとみつ)らも、それぞれの持ち場を固めます。

互いが衝突したのは10月6日・・・激戦が展開されるも、おそらく、かなり前から準備していたであろう上杉禅秀&足利満隆らに対し、公方側は未だ準備も整っておらず、

やむなく持氏は駿河(するが=静岡県東部)今川範政(いまがわのりまさ)を頼って瀬名(せな=静岡県静岡市葵区)へと逃れ、鎌倉は上杉禅秀&足利満隆らが占拠する事になってしまいました。

こうして一旦は成功した上杉禅秀の乱。。。思えば、あの和田義盛の乱(わだよしもりのらん)(5月3日参照>>)以来の鎌倉市街戦でした。

しかし、当然、この知らせは京都の幕府にももたらされるわけで。。。

はじめは
「持氏が切腹した」
との誤報も飛び交い、

ならば、勝った側を後継として受け入れるべきか?
いや、反乱ならば鎮圧に向かわねば!

と京都での将軍の立ち位置が揺らぐ事もありましたが、やがて
「持氏、健在」
の一報がもたらされると

「将軍は持氏の烏帽子親(えぼしおや=元服の時烏帽子をかぶせる役)なのだから見逃しはいけません」
「今、反乱軍を抑えねば、京都にも謀反を企てるかも…」
との意見が飛び、幕府では持氏に合力し反乱軍を討伐する選択が成されます。

この幕府の決断を後押ししたのが将軍=義持の弟である足利義嗣(よしつぐ)の失踪でした。

幕府内が、反乱軍の討伐か否かで揺れていた時、姿をくらました義嗣は、ほどなく高雄(たかお=京都市右京区)にいる所を発見され仁和寺(にんなじ=京都市右京区御室)に幽閉される事になるのですが、実は、この義嗣の側室は上杉禅秀の娘。。。

その出奔の理由や態度から、どうやら義嗣は禅秀は協力関係にあったとみられ、そうなると、事は関東だけの権力争い問題ではなく、幕府転覆も視野に入れた謀反という事になります(1月24日参照>>)

その情報が全国を駆け巡ったおかげで、はなから持氏に味方していた者だけでなく、静観していた武将らまでもが反乱軍に鎮圧に力を貸す事となり、今川範政らをはじめとする幕府の討伐軍が出陣する頃には、情勢を見ていた彼らも討伐軍に加わります。

こうして、徐々に追い込まれていった上杉禅秀&足利満隆らは、応永二十四年(1417年)1月10日鎌倉雪ノ下(ゆきのした=神奈川県鎌倉市)にて自害し、3ヶ月に渡った反乱は終結したのです。

これにより、敗北した犬懸上杉家は、関東での勢力を失う事になります。

しかも、今回の事で幕府側は、この先の関東の情勢を警戒するようになり、なんとなく、幕府と鎌倉公方の間に溝ができてしまった感じ??

それは、やがて永享の乱(えいきょうのらん)となって燃え上がるのですが、そのお話は2月10日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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