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2023年10月24日 (火)

川中島の戦いへ~武田信玄VS村上義清の平瀬城の戦い

 

天文二十年(1551年)10月24日、味方の砦を落とされた武田信玄が、村上義清配下の平瀬城を落としました。

・・・・・・・・・

甲斐(かい=山梨県)統一(11月3日参照>>)を果たした父=武田信虎(のぶとら)を、天文十年(1541年)6月に追放して武田家の実権を握った武田信玄(たけだしんげん=当時は晴信ですが、ややこしいので信玄呼びで統一します)は、

まずは信濃(しなの=長野県)攻略に着手・・・
翌天文十一年(1542年)、桑原城(くわばらじょう=長野県諏訪市四賀桑原)を攻撃して諏訪頼重(すわよりしげ)を葬り去った(7月3日参照>>)3ヶ月後には、高遠頼継(たかとおよりつぐ)と宮川で戦って諏訪を掌握します

さらに伊那(いな=長野県南部・伊那市)に侵攻して(10月29日参照>>)、天文十四年(1545年)11月には福与城(ふくよじょう=長野県上伊那郡箕輪町:箕輪城とも)(11月4日参照>>)を陥落させ、

いよいよ信濃総仕上げとばかりに信濃守護(しゅご=県知事)林城(はやしじょう=長野県松本市)城主の小笠原長時(おがさわらながとき)小県(ちいさがた=長野県中東部・上田市)領主で葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡)城主の村上義清(むらかみよしきよ)らと敵対します。

天文十六年(1547年)8月には志賀城(しがじょう=長野県佐久市 )を落とし(8月17日参照>>)

翌天文十七年(1548年)は、2月に村上義清と上田原(うえだはら=長野県上田市上田原)で戦い(2月14日参照>>)、7月には小笠原長時と塩尻峠(しおじりとうげ=長野県塩尻市と岡谷市)でぶつかりました(7月19日参照>>)

天文十九年(1550年)7月に松本盆地(まつもとぼんち=長野県松本市街地周辺)に侵攻した信玄は、
「ヤバイ!」
と察して村上義清のもとへ逃走した小笠原長時が放棄した林城に入城し、城を破棄して、

その代わりとなる深志城(ふかしじょう=長野県松本市・後の松本城)を修築して、今後の筑摩(ちくま=長野県中西部)安曇(あずみ=長野県北西部)侵攻への拠点としたのです。

さらにこの勢いのまま、この年の9月には小県へ侵攻・・・村上義清傘下の戸石城(といしじょう=長野県上田市)を攻めるのです。

しかしこれが、後に砥石崩れ(といしくずれ)と呼ばれる負けっぷり(9月9日参照>>)・・・

ところが、その戸石城を翌天文二十年(1551年)に5月に、武田の配下となった真田幸隆(さなだゆきたか=真田幸綱とも)単独で攻略してくれた事で村上義清は葛尾城へと移ったのです。

これを受けた信玄は、佐久郡(さくぐん=長野県中東部・小諸市&佐久市など)平定を見せつけるように、
7月30日には桜井山城(さくらいやまじょう=長野県佐久市:稲荷山城とも)に入り、
8月28日には岩尾城(いわおじょう=同佐久市)にて自ら鍬立(くわたて=地鎮祭)を行い
9月14日には岩村田城(いわむらたじょう=同佐久市)修築に着手します。

さらに9月20日には内山城(うちやまじょう=同佐久市)城代だった大井貞清(おおいさだきよ)を更迭して、上原虎満(うえはらとらみつ)を入城させて城代とし、石田小山田氏(いしだおやまだし)を継承させるべく、その名を小山田虎満 (おやまだとらみつ=小山田昌辰)と改めさせた後、

すべての仕置きを終えた信玄は、9月23日に甲府(こうふ)への帰途についたのです。

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平瀬城の戦い~周辺位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの10月14日、村上義清が丹生子(にゆうのみ=長野県大町市)侵攻して仁科(にしな)氏の砦を落としたのです。

…というのも、どうやら上記の塩尻峠の戦いが終わった頃に、この仁科氏の仁科盛能(にしなもりよし)村上義清から武田信玄に乗り換えていたようで・・・

そりゃぁ裏切られた村上義清としては捨て置けません。

もちろん、新しく仲間になった信玄も・・・てな事で、仁科を救援すべき信玄は、この翌日の15日の未明に甲府を出陣し、その日のうちに深志城に入ります。

かくして天文二十年(1551年)10月24日、武田信玄は、村上義清方に属する平瀬城(ひらせじょう=長野県松本市)を攻撃したのです。

この日は終日、細雨が降る中で激戦に挑んだ武田勢は、平瀬八郎左衛門(ひらせはちろうざえもん)をはじめとする200余名を討ち取り、城は陥落・・・城主の平瀬義兼(よしかね)自刃に追い込んでいます。

28日には平瀬城の城割り(しろわり=城の破却)に着手し、一旦、この城を完全に破却した後、改めて鍬立てを行い、新たな城代として原虎胤(はらとらたね)を平瀬城に入れ、

さらに北へと向かって、27日には小岩嶽城(こいわたけじょう=長野県安曇野市)を攻撃すべく、周辺の支城に放火して回りますが、さすがに本城は堅固な山城で容易に落とす事ができず、

翌月=11月21日になって、ようやく矛を収め、甲府へと戻ったのでした。

この戦いの続きとなる更科八幡(さらしなはちまん=長野市八幡原)の戦いが勃発するのは、この2年後の天文二十二年(1553年)4月の事・・・

ここから5回に渡る、あの川中島(かわなかしま=長野市の犀川と千曲川の間)の戦いが始まる事になります。

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