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2023年10月 2日 (月)

鎌倉公方・足利持氏を襲った上杉禅秀の乱

 

応永二十三年(1416年)10月2日、関東管領を辞した上杉禅秀が、鎌倉公方足利持氏を鎌倉から追い出す上杉禅秀の乱が勃発しました。

・・・・・・・・・

ともに鎌倉幕府を倒しながらも(5月22日参照>>)建武の新政(6月6日参照>>)等々の不満から後醍醐天皇(ごだいごてんのう=第96代)と袂を分かつ事になった(8月19日参照>>)足利尊氏(あしかがたかうじ)は、

尊氏に対抗する後醍醐天皇が吉野(よしの=奈良県)で開いた南朝(なんちょう)(12月21日参照>>)との関係もあり、自身の領国が関東であるにも関わらず、京都にて室町幕府を開く事になりました(11月7日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

そのため、初代将軍となった尊氏は、自らの将軍職を三男の足利義詮(よしあきら=2代将軍)に、領国=関東の支配を四男の足利基氏(もとうじ=初代鎌倉公方)に任せ、それぞれの家系が将軍職&鎌倉公方職を継いでいく~という体制を整えたのです。

その鎌倉公方を補佐するべく生まれたのが関東執事(しつじ)関東管領(かんとうかんれい)で、初代管領となった上杉憲顕(うえすぎのりあき=山内上杉家)から代々上杉家が継いでいく事になります(9月19日参照>>)

こうして固まった
西の将軍と管領、東の鎌倉公方と関東管領という態勢。。。

やがて足利義持(よしもち=義詮の孫)が第4代将軍として政務をこなすようになる頃、鎌倉公方も第3代=足利満兼(みつかね=基氏の孫)の治世となり、京都との関係もそれなりに円満で、その力は陸奥(むつ=福島・宮城・岩手・青森)出羽(でわ=山形・秋田)にまで影響を及ぼすほどになっていました。

しかし、応永十六年(1409年)7月、足利満兼が32歳という若さで亡くなってしまいます。

わずか12歳の息子=足利持氏(もちうじ)が第4代鎌倉公方として後を継ぎ、先々代から10年に渡って公方を支えて来たベテランの上杉憲定(のりさだ=山内上杉家)関東管領として若き持氏をサポートする形としました。

ところが、そんな中で先代=満兼の弟=足利満隆(みつたか=つまり持氏の叔父)による謀反騒動が起こった事もあり、応永十八年(1411年)に関東管領職を犬懸上杉家(いぬがけうえすぎけ)上杉禅秀(ぜんしゅう=上杉氏憲)に譲り上杉憲定は引退・・・翌年に死去してしまいました。

Uesugikekeizu ←上杉家の系図
(クリックで大きくなります)

とは言え、山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)の家督は、息子の上杉憲基(のりもと)が、しっかりと継ぎ、
 .

公方=持氏&管領=禅秀のコンビも揺るぐことなく・・・

と行きたいところですが、どうやら持氏と禅秀はソリが合わなかったようで、持氏は何かにつけて禅秀より憲基を頼るのです。

やがて関係スタートから、わずか4年後の応永二十二年(1415年)、評定の席にて持氏に散々不満を述べた禅秀は、その勢いのまま関東管領職を返上してしまうのです。

こうして関東管領は上杉憲基に交代・・・

ま、この頃の持氏は、すでに19歳になってましたから、自らの意志で政務をこなしたいお年頃・・・古株管領にゴチャゴチャ言われたくなかったのかも知れませんが・・・

とは言え、持氏に不満を持っていた者は、今回の禅秀だけでは無かったのです。

ここしばらくは平和が保たれた良い時代ではあったものの、そんな平和の中でも守護職(しゅごしょく=県知事)を賜ったり、公方に後ろ盾になってもらったりして出世した関東武士もいれば、現状維持のまま押さえつけられていた者もいたわけで、

さらに、
かつて謀反騒動を起こした足利満隆なんかも、このまま甥っ子の権力だけが拡大すると自身の立場が、どんどん狭くなっていくわけで・・・

そんな彼らが上杉禅秀のもとに集まって来るには、さほどの時間はかかりませんでした。

かくして応永二十三年(1416年)10月2日の夜、足利満隆と養子の足利持仲(もちなか=持氏の弟)が密かに西御門(にしみかど=神奈川県鎌倉市)宝寿院(ほうじゅいん)に入って決起の旗を揚げ、

同時に上杉禅秀側でも同心する郎党らが塔辻(とうのつじ=鎌倉市内)即席の櫓(やぐら)を組んで決起しました。

世に上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)と呼ばれる反乱の勃発です。

一方、持氏方では、様子の異変に気づいた近臣の木戸満範(きどみつのり)が、寝ていた持氏を叩き起こし、警備の者たちとともに御所の裏山から海に出て上杉憲基の館へと、無事避難しました。

2日後の10月4日には足利満隆らの軍勢が動き出し、大鳥居から極楽寺口にかけて布陣すると、一方の持氏側の佐竹義人(さたけよしひと)結城基光(ゆうきもとみつ)らも、それぞれの持ち場を固めます。

互いが衝突したのは10月6日・・・激戦が展開されるも、おそらく、かなり前から準備していたであろう上杉禅秀&足利満隆らに対し、公方側は未だ準備も整っておらず、

やむなく持氏は駿河(するが=静岡県東部)今川範政(いまがわのりまさ)を頼って瀬名(せな=静岡県静岡市葵区)へと逃れ、鎌倉は上杉禅秀&足利満隆らが占拠する事になってしまいました。

こうして一旦は成功した上杉禅秀の乱。。。思えば、あの和田義盛の乱(わだよしもりのらん)(5月3日参照>>)以来の鎌倉市街戦でした。

しかし、当然、この知らせは京都の幕府にももたらされるわけで。。。

はじめは
「持氏が切腹した」
との誤報も飛び交い、

ならば、勝った側を後継として受け入れるべきか?
いや、反乱ならば鎮圧に向かわねば!

と京都での将軍の立ち位置が揺らぐ事もありましたが、やがて
「持氏、健在」
の一報がもたらされると

「将軍は持氏の烏帽子親(えぼしおや=元服の時烏帽子をかぶせる役)なのだから見逃しはいけません」
「今、反乱軍を抑えねば、京都にも謀反を企てるかも…」
との意見が飛び、幕府では持氏に合力し反乱軍を討伐する選択が成されます。

この幕府の決断を後押ししたのが将軍=義持の弟である足利義嗣(よしつぐ)の失踪でした。

幕府内が、反乱軍の討伐か否かで揺れていた時、姿をくらました義嗣は、ほどなく高雄(たかお=京都市右京区)にいる所を発見され仁和寺(にんなじ=京都市右京区御室)に幽閉される事になるのですが、実は、この義嗣の側室は上杉禅秀の娘。。。

その出奔の理由や態度から、どうやら義嗣は禅秀は協力関係にあったとみられ、そうなると、事は関東だけの権力争い問題ではなく、幕府転覆も視野に入れた謀反という事になります(1月24日参照>>)

その情報が全国を駆け巡ったおかげで、はなから持氏に味方していた者だけでなく、静観していた武将らまでもが反乱軍に鎮圧に力を貸す事となり、今川範政らをはじめとする幕府の討伐軍が出陣する頃には、情勢を見ていた彼らも討伐軍に加わります。

こうして、徐々に追い込まれていった上杉禅秀&足利満隆らは、応永二十四年(1417年)1月10日鎌倉雪ノ下(ゆきのした=神奈川県鎌倉市)にて自害し、3ヶ月に渡った反乱は終結したのです。

これにより、敗北した犬懸上杉家は、関東での勢力を失う事になります。

しかも、今回の事で幕府側は、この先の関東の情勢を警戒するようになり、なんとなく、幕府と鎌倉公方の間に溝ができてしまった感じ??

それは、やがて永享の乱(えいきょうのらん)となって燃え上がるのですが、そのお話は2月10日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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