一条天皇の後宮へ~波乱含みの藤原彰子の入内
長保元年(999年)11月1日、 藤原道長の長女=藤原彰子が一条天皇の後宮に入内しました。
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関白(かんぱく=成人した天皇の補佐役)に就任し、政権トップの座に躍り出た父=藤原兼家(かねいえ)と、円融天皇(えんゆうてんのう=第64代)の女御(にょうご=後宮のNo.3くらい)となって一条天皇(いちじょうてんのう=第66代・986年に即位)を産んだ姉=藤原詮子(せんし・あきこ=兼家の次女)の後ろ盾によって、ここまで順調に出世して来た藤原道長(ふじわらのみちなが=兼家の五男?)ではありましたが、
父亡き後に後を継いで関白となった長兄の藤原道隆(みちたか=兼家の長男)とはソリが合わず、何かと対立する関係にあり、その道隆が亡くなった 長徳元年〈995年)からは、その嫡男(ちゃくなん=後継者)である藤原伊周(これちか)とも対立しておりました(7月24日参照>>)。
そんなこんなの長徳四年(998年)3月、33歳となっていた道長は重い病を得ます。
それは時の一条天皇に官職の辞任を願い出るほどに重かったようですが、一条天皇はそれを許さず・・・
また、この年は疫病の流行もあって藤原詮子が憂鬱になったりして、朝廷では大赦(たいしゃ=徳を積むべく罪を許す)や疫病退散の大祓(おおはらえ=ケガレをを祓う)などが行われ、道長は、その儀式の運営に骨を折らねばなりませんでした。
そう・・・ユネスコの記憶遺産にもなった道長の日記『御堂関白記(みどうかんぱくき)』は、実は、この盛大な疫病退散祭のあれやこれやの「俺は病気でシンドイのに大変やったんやで~」の記述からは始まるのです。
とは言え、この年の冬には、道長の病も何とか快方に向かい、12月には、一条天皇の中宮(ちゅうぐう=一般的には後宮のNo.2ですが定子場合はNo.1の皇后並み)となっていた藤原定子(さだこ・ていし=道隆の長女で伊周の妹)が産んだ第一子(長女)=脩子内親王(しゅうしないしんのう)の3歳を祝う袴着(はかまぎ)の儀式に出席し、嬉しそうに、その袴を履かせる役を全うしています。
このように、この頃、一条天皇の寵愛を受けていたのは藤原定子・・・
2年前の長徳二年(996年)に兄の伊周が調子に乗り過ぎて事件(【長徳の変】参照>>)を起こした事で、一旦、定子は出家するのですが、一条天皇がどうしても彼女を放さず、しかも長女が生まれた・・・それがキッカケで呼び戻され、相変わらずの寵愛を受けていたのです。
もちろん、この時点では道長にも邪心はなく、純粋に定子の皇女を祝福していたわけですが、人間、元気を取り戻すと野心がムクムク湧き上がるものでして。。。
明けて長保元年(999年)と改元されたこの年、完全快復した道長は、12歳になった長女=藤原彰子(あきこ・しょうし)の入内(じゅだい=皇后・中宮・女御になる女性が正式に内裏に入る事)を急ぐようになるのです。
2月9日には裳着(もぎ=大人の女性の証として十二単の後ろに飾り布→を着ける)の儀式を行いますが、
この時、詮子や中宮定子らから祝福の贈物など受け取ったうえに、11日には天皇の勅使(ちょくし=正式な使者)から「彰子を従三位(じゅさんみ=正三位の下で正四位より上の官位)に叙する」との知らせも入った事で道長は大喜び。
それは、あまりの浮かれっぷりに、少々眉をひそめる公家もいたほどでした。
そんな一方で、この頃でも、未だ一条天皇の「定子LOVE」は根強く、何なら、
「今、君がいてるとこはちょっと遠いから(1回出家してるのでね)、近くの殿舎に引っ越しぃな…僕がソコに通うさかいに~」
てな事を言って、引越の手配もやっちゃうくらいのゾッコンぶり、
しかも、この頃は彼女の他にも一条天皇の内裏(だいり=天皇の住まい)には女御として藤原義子(ぎし・よしこ=藤原公季の長女)・藤原元子(げんし・もとこ=藤原顕光の長女)・藤原尊子(そんし・たかこ=藤原道兼の長女)という女性たちが、すでに入内していたのです。(恋のライバル多し)
とは言え、道長に、そんな事を気にする余裕はありません。
なんせ、この時代の入内のアレコレは、すべて実家が差配するもの・・・9月25日から開始された入内準備は、式次第の決定や会場のしつらえなどなど、やる事山積みです。
式も近くなった10月21日には会場を飾る金屏風に、有名人の新作和歌を載せようと、そのお願いに奔走する道長パパ。
一方、この頃の定子は、上記の通りの引越を完了したものの、邸宅には、あまり訪れる人もなく寂しい日々が続いていたようですが、そんな中でも8月9日に第2子の妊娠が発覚し(寂しくでもヤル事はヤッてんねんなww)、定子は気心の知れた平生昌(たいらのなりまさ=かつて仕えていた縁)の邸宅に移る事になりました。
しかし、そのお引越の日と、まさに同じ日、
(偶然なのか?わざとのイケズなのか?は知らんけど)
道長は、宇治(うじ=京都府宇治市)の別荘にてドンチャン騒ぎ
(準備忙しいんちゃうんかい!と突っ込んでおこう)
そのため、多くの公卿が道長の宴会の方に駆けつけ、定子のお引越には病欠の申し出が相次いで、あまり人が来なかったらしい・・・気の毒に
この日、定子に従っていた清少納言(せいしょうなごん=定子の家庭教師)は、その著書『枕草子(まくらのそうし)』の中で、
「ウチらは北の門から寂しく邸宅に入らされて、なんか哀れな感じでメッチャ腹立つやん」
と、せっかくの引越を台無しにされた不満をブチまけています。
そんなこんなありながらも、いよいよ準備が整った長保元年(999年)11月1日、藤原彰子が入内するのです。
入内の行列には10人ほどの公卿が参加するばかりか、当時は検非違使(けびいし=警察)の別当(べっとう=長官)を務めていた藤原公任(きんとう)が公務そっちのけで彰子につきっきりの世話をやき、市中の治安もクソも無い状態だったとか。。。
そんな彰子に突き従うのは、女房=40人、童(わらわ=雑用係の少年)=6人、下仕(しもづかえ)=6人、いずれも、道長自らが厳選した側近たちでした。
この時の彰子さんは、未だ幼いワリには幼稚な部分はほとんどなく、長い髪がいかにも美しい、見事な見た目だったとか。。。
その6日後、彰子は女御の宣旨(せんじ=天皇の命令文書)を受けますが、まさに、この同日、定子は、一条天皇にとって初めての男の子=敦康親王(あつやすしんのう)を出産するのです。
そして・・・
翌長保二年(1000年)の2月25日、彰子は、いよいよ立后(りっこう)するのです。
立后とは、すなわち皇后(こうごう)になる事。。。
えぇ?皇后は定子さんだったんじゃ?
そう、、、天皇に愛され、未だ皇后並みの扱いをされている定子さんがいるので、これは史上初の一帝二后という事になるのです。
父ちゃんは死に、兄ちゃんがヘタこいて、もはや一条天皇の愛しか頼る物がない定子さんと、
飛ぶ鳥を落とす勢いの父ちゃんが後ろ盾の彰子はん。。。
もはや、波乱の臭いしかしませんがなw(@o@;)w
てな事で、このお話の続きとしては、寛弘四年(1007年)8月の【藤原伊周の藤原道長暗殺計画】>>をどうぞ
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コメント
来年の大河ドラマでも触れるところですね。
阪神日本一おめでとうございます。
投稿: えびすこ | 2023年11月 6日 (月) 09時37分
えびすこさん、こんばんは~
来年、楽しみですね。
私は、大阪城の近くで生まれ育ったので、かつては近鉄ファンでしたww
バファローズが近鉄ではなくなってから、ほぼ野球は見なくなりましたが、
そういう意味では、ややオリックス寄りかも知れませんね
昔は、近鉄以外に阪急や南海もあったので、意外に阪神ファンじゃない方もいてはりましたよv(^o^)v
まぁ、どこにせよ日本一はめでたいのでお祝い申し上げます
投稿: 茶々 | 2023年11月 7日 (火) 03時59分