応仁の乱の前に…畠山政長VS畠山義就~龍田城の戦い
長禄四年(1460年)10月10日、管領家=畠山氏の後継者を巡る戦いで畠山政長と畠山義就の龍田城の戦いがありました。
・・・・・・・
未だ後を継ぐべく息子がいなかった第8代室町幕府将軍の足利義政(あしかがよしまさ)が、将軍職を譲ろうと、坊さんになっていた弟の足利義視(よしみ)(1月7日参照>>)をわざわざ還俗(げんぞく=出家した人が俗世間の一般人に戻る事)させたにも関わらず、
このタイミングで正室の日野富子(ひのとみこ)との間に男の子=足利義尚(よしひさ)が誕生する。。。
そんな将軍家の後継者争いに有力武将である畠山(はたけやま)や斯波(しば)の後継者争いが絡み、それぞれに味方する全国の武将が東西真っ二つに分かれて争った応仁の乱。。。(5月20日参照>>)
これまでも何度か書かせていただいてますが、そんな応仁の乱の口火を切る直接の戦いとなったのが、
畠山政長(はたけやままさなが)と
畠山義就(よしひろ・よしなり)の
従兄弟同士が応仁元年(1467年)1月17日に争った御霊合戦(ごりょうかっせん)だったわけです(1月17日参照>>)。
そもそも、
そんな御霊合戦に至る最初の最初は・・・
室町幕府政権下において
河内(かわち=大阪府東部)
紀伊(きい=和歌山県&三重県南部)
山城(やましろ=京都府南部)
越中(えっちゅう=富山県)
大和(やまと=奈良県)の一部などなどの
広範囲の守護(しゅご=県知事)を任され、細川氏・斯波氏とともに、管領職を順番に務める三管領家(さんかんれいけ)の一つとされた名門の畠山氏の当主であった畠山持国(もちくに)が、
それまで弟の畠山持富(もちとみ)を後継者に指名していたにも関わらず、
「やっぱ、我が子がカワイイ」
と、文安五年(1448年)に持富を廃して、身分の低い愛妾が産んだ自身の子=畠山義就を後継者に指名した事に始まります。
身分の上下を重んじる守護代(しゅごだい=副知事)の遊佐長直(ゆさながなお)や神保長誠(じんぼうながのぶ)らが義就の擁立に反対して持豊を推し、
持富亡き(宝徳4年=1452年に死亡)後は、その息子の畠山政久(まさひさ:長禄3年=1459年に死去)、さらに政久亡き後は弟の畠山政長を推して対立したわけです。
その対立は御大=畠山持国が死去しても続き、やがて両者は誉田(こんだ=大阪府羽曳野市)付近にて合戦に至ります。
この合戦に政長の助っ人として参戦していたのが筒井順永(つついじゅんえい=筒井順慶の曾祖父)、
義就の助っ人だったのが越智(おち)氏でした。
そう・・・上記の通り、畠山は大和の守護でもあったため、未だ突出した武将がいなかった奈良の国衆(くにしゅう=地侍)たちも、この畠山氏の後継者争いに巻き込まれて行くのです。
この時の戦いが義就方の勝利に終わった事で、筒井順永は奈良を追われ越智氏が台頭する事になりましたが、それに助け船を出したのが、かねてより政長を推す、時の幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)の細川勝元(ほそかわかつもと)だったのです。
勝元が出張ってくれたおかげで、越智氏が力づくで奪った筒井氏や箸尾(はしお=大和国衆)氏の所領を、その権威をチラつかせてムリクリで返還させてくれて、なんとか助かる筒井順永・・・
しかし、常に味方してくれる越智氏を可愛がる義就としては、そんな横暴を見過ごせず、断固として勝元に「不当の申し立て」をするのですが、それが、かえって勝元を怒らせ、義就の所領を没収して、なんと!それを政長に与えたのです。
分が悪くなった義就は、同じ遊佐氏でも長直らと対立する遊佐国助(くにすけ)を頼って若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市若江南町)へと籠り、ここで勝元らに抵抗する事にしたのです。
こうして、好むと好まざるに関わらず、大和の国衆たちは、それぞれの系列に分断されて戦いに巻き込まれていく事になるのです。
★政長派=細川勝元・高田・布施・箸尾・十市・筒井など
★義就派=山名宗全(やまなそうぜん)・越智・曽我・楢原・古市など
勝元のおかげで、負けたけど復権した政長は、将軍=足利義政に謁見し、「政」の一字をもらって政長と名乗る事になりました。
(ややこしいので冒頭から「政長」呼びでしたが、実際には、ここで名乗ります)
龍田城の戦い~位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
かくして長禄四年(1460年)10月、幕府からの「義就追討」の御教書 (みぎょうしょ=地位のある人が発する意思表示文書)を拝した政長は、筒井や箸尾などの軍勢を擁して若江城の義就を潰すべく、龍田城(たつたじょう=奈良県生駒郡斑鳩町)に入り、そこを本陣としたのです。
ここは生駒山の南端の丘陵を越えて高井田(たかいだ=大阪府東大阪市)に至る竜田越え(たつたごえ)と呼ばれる道で、大和と河内(かわち=大阪府東部)を結ぶ重要な場所だったのです。
一方の義就方・・・
政長の動きを知った義就も、すぐさま軍勢を用意して出陣・・・龍田神社(たつたじんじゃ=同生駒郡斑鳩町)の南西に位置する神南山(じんなんやま=同生駒郡斑鳩町神南:現在の三室山)に布陣します。
やがて10月9日夜・・・まだ、義就の動きを知らぬ政長方では、敵に忍ばせておいた密偵から、
「10日の夜明け前に夜襲をかけるようだ」
との一報が入り、
政長は早速、軍議を開くのですが、諸将からは
「いやいや、若江からここまでどんだけ距離あると思てんねん」
「夜討ちなんか、できるわけないやん」
と一笑に付す声ばかり、
しかし、用心深い政長は、
「そうは言っても…」
と一応の警戒を敷き、用心するのでした。
そんな中、やはり!
長禄四年(1460年)10月10日、未だ夜が明けきらぬ頃、近隣の寺々から急を知らせる早鐘が鳴り響きます。
「やっぱ、来たやん!」
と緊張する政長勢。。。
実は、
本陣を出た後、二手に分かれた義就軍は、遊佐軍1500が福貴(ふき=奈良県生駒郡平群町)に進み、越智を中心とした別動隊は龍田川と法隆寺(ほうりゅうじ)の間に布陣し、北東から龍田城を伺います。
両者が最初にぶつかったのは辰の刻(午前8時頃)。
開戦時には、のんびり政長軍に対して、ピリリ感が強い義就軍ですが、実は兵の数に差があり、政長の多勢に対し義就は無勢・・・
その数の少なさは埋める事が出来ず、義就軍の先鋒を預かった越智軍は、瞬く間に押され気味になり、越智家国(いえくに)をはじめとする大物武将たちが次々と討死する中、激戦の末に5分の2の自軍を失い、やむなく撤退・・・何とか危地を脱出しました。
2度目の合戦は巳の刻(午前10時頃)。
この時も義就軍は奮戦するも政長軍に押され神南山まで戻されてしまいます。
勢いに乗る政長軍は、神南山の山頂めがけて突進・・・大手を行くのは筒井順永、南面は神保長誠、北は遊佐長直、西はわざと開けておいて逃げる敵を落とす作戦です。
義就軍も決死の覚悟で奮戦しますが、『新撰長禄寛正記』によれば、
「一人もあまさず討たれ…」
と表現されるほどの完敗となってしまったようです。
…と、ここまで散々「義就軍」「義就軍」と書いてて何ですが、実は総大将の畠山義就は、この時点では未だ若江城にいました。
(兵が少ないなら出ろよ!て思いますが、なんせ総大将なんで…(^o^;))
ただ義就は、戦いを配下に任せて逃げてたわけではありません。
「もし郎党がすべて討死したならば、ワシも討死して、ともに三途の川を渡る!」
と誓い、午後になってから後詰として出陣するつもりでいたのです。
と、そこへ遊佐の配下の伝令がやって来て
「神南山が苦戦しておりますが、総大将の援軍あれば味方は皆無事に退けましょう」
と言うので、
義就は300騎ほどを用意して、自ら出陣・・・
しかし、上記の通り、時すでに遅し。。。
戦場近くに着いた頃には、もはや味方のほとんどが討たれて、回復の余地無し。
やむなく義就は、河内方面へと落ちて行ったのでした。
しかしご存知の通り、
政長VS義就の戦いはまだまだ終わりません…なんせ応仁の乱の口火を切るわけですから。。。
まだ応仁の乱ではない、今回の続きのお話は文正元年(1466年)10月の【高田城の戦い】>>でどうぞm(_ _)m
(戦いの原因をお話するため、前半部分の内容がカブってますが、お許しを…)
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