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2023年11月25日 (土)

逆風の中で信仰を貫いた戦国の女~松東院メンシア

 

明暦二年(1657年)11月25日、初のキリシタン大名として長崎港を開いた事で知られる大村純忠の娘で松浦久信に嫁いだ松東院メンシアが死去しました。

・・・・・・・

夫亡き後に出家した法号が松東院(しょうとういん)キリシタンの洗礼名がメンシア、実名は大村その(おおむらその)とされるこの女性は、天正三年(1575年)に三城城(さんじょうじょう=長崎県大村市)の城主=大村純忠(おおむらすみただ)五女として生まれます。

この大村純忠は、島原(しまばら=長崎県島原市)有馬晴純(ありまはるずみ)の次男として生まれながらも、母方の大村氏を継ぐべく養子に入った人で、永禄六年(1563年)に日本初のキリシタン大名となって後、元亀元年(1570年)には長崎港を開港した事で有名です(4月27日参照>>)

とは言え、一方で、この頃の大村純忠は「肥前の熊」と呼ばれた大物=龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)(8月8日参照>>)脅かされる日々でもありました。

小領主の大村純忠にとって大物との争いは
「何とか避けたい」
とばかりに、天正八年(1580年)には龍造寺隆信の次男=江上家種(えがみいえたね)次女を嫁がせたばかりか、長男の大村喜前(よしあき=サンチョ)をはじめ次男の純宣(すみのぶ=リノ)、三男の純直(すみなお=セバスチャン)と、次々に龍造寺への人質に出すという涙ぐましい努力。。。

ちなみに、さらに弟の四男の純栄(すみえい=ルイス)実家の有馬氏へ人質として差し出しています。

これだけ周囲に気を使うそもそもは、
貿易を求めるポルトガル船が最初に入港したのは平戸(ひらど=長崎県平戸市)・・・

しかし、この平戸を領する松浦鎮信(まつらしげのぶ)宣教師の布教活動を認めなかった事から、その交易権が大村純忠に回って来た事で横瀬浦(よこせうら=長崎県西海市西海町)を開港したものの、

それに反発する武雄(たけお=佐賀県武雄市)後藤(ごとう)諫早(いさはや=長崎県諫早市)西郷(さいごう)や長崎の深堀(ふかぼり)などに睨まれて港を焼き討ちされ、その後継となる良港を目指して開港したのが、元亀元年(1570年)の長崎港であったわけで・・・

つまり大村純忠は、これだけの周辺とのなんやかんやを抑えつつ、何とか経済力で以って領国を強くしようと港を開き、日夜心血を注いでいたわけです。

そんなこんなの天正十二年(1584年)3月、かの龍造寺隆信が薩摩(さつま=鹿児島県)島津(しまづ)との沖田畷(おきたなわて)の戦いで戦死します(3月24日参照>>)

やれ!一安心~と思いきや、それは、単に大村純忠を悩ます九州の大物が龍造寺から島津に代っただけ・・・

もちろん、その勢いのまま北上し領地を広げようとする島津の脅威は、大村だけでなく他の九州の武将たちも同じなわけです【阿蘇の軍師:甲斐宗運】参照>>)

…で天正十四年(1586年)、同じく島津に脅威を抱く豊後(ぶんご=大分県)大友宗麟(おおともそうりん)が頼ったのが、今や天下を統べらんとする勢いの豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴:同年の12月に豊臣姓を賜る)だったのです(4月6日参照>>)

この時、いち早く豊臣傘下となっていた松浦鎮信と、少々の小競り合いの後に境界協定を結んだ大村純忠は、その同盟の証として松浦鎮信の嫡子(ちゃくし=後継者)松浦久信(ひさのぶ)と、自身の娘との縁組を約束します。

Syoutouin700a その娘が本日の主役=五女のメンシアでした。
(長い前置きスマンですm(_ _)m))

先に書いたように父の大村純忠は日本初のキリシタン大名・・・そしてメンシアという名前でお察しの通り、彼女も敬虔なクリスチャンです。

しかし、これまた先に書いた通り、松浦さんちは完全なる反キリシタン(布教活動断ってますから)

婚姻にあたっては、大村側から松浦側へ
「信仰は容認する」
との約束を取り付けて、何とか実現に漕ぎつけたのでした。

この婚姻承諾の時、島津を攻める豊臣軍(4月17日参照>>)に従軍していた松浦鎮信は、島津攻め終了の帰路に三城城に寄って、大村純忠に面会した後、13歳だったメンシアを伴って17歳の息子の待つ平戸に戻ったと言います。

この翌年の天正十五年(1587年)5月、以前から肺結核を患っていた大村純忠は、この世を去ります。

こうして、完全なる政略結婚で松浦家に嫁いだメンシア・・・

まぁ、夫は理解のある人だったようですが、
やはり度々改宗を迫って来るキリシタン嫌いの舅=鎮信との仲は、あまりよろしく無かったようで・・・

しかし、こういう場合、反対が強いほど、コチラの思いもかたくなに強くなっていくのが人の常・・・メンシアの信仰心は、さらに深くなっていくのです。

舅に棄教を迫られるたび、
「棄教するなら実家に帰る!」
「改宗するくらいなら死ぬ!」
と抵抗し続けるメンシアに、

やむなく松浦父子は、邸宅の中に彼女用の聖堂を増築したのだとか。。。

その聖堂にヴァリニャーノ(イエズス会の宣教師)を迎えた時には、感激のあまりに涙が止まらず、その足下にひれ伏したメンシアを見た松浦父子は
「嫁の、こんな姿…まともに見れんわ」
とばかりに、その場から席を外したらしい・・・

でも個人的には、反対しながらも聖堂造ってくれる松浦さんちの父子って…意外にえぇ人たちに思えるww

天正十九年(1592年)には、夫=久信との間に待望の嫡子=松浦隆信(たかのぶ)をもうけ、その後も次男&三男が誕生・・・

とは言え、その一方でご存知のように、かの秀吉は

すでに、天正十五年(1587年)の時点で、
6月18日に『天正十五年六月十八日付覚』(6月18日参照>>)
翌19日に『天正十五年六月十九日付朱印(松浦文書)(6月19日参照>>)
という二通のいわゆるキリシタン禁止令バテレン追放令を出しています。

キリシタンにとっては悲しい時代が・・・もちろん、その秀吉亡き後もキリシタンへの逆風は激しくなる一方でした。

そんなこんなの慶長七年(1602年)8月、夫の松浦久信が32歳の若さで急死するのです。

一般的には病死とされていますが、一説には、関ヶ原の戦い(参照>>)の際に、父の命により、表向きは東軍につきながら裏で西軍に情報を流していた事が露見しそうになって、その責任を一身に背負って自刃した…なんて噂もあります(あくまで噂です)

とにもかくにも、ここで夫を失ったメンシアは剃髪して松東院(ややこしいのでメンシア呼びします)と号するようになりますが、その唯一の救いは嫡男の隆信が、若年でありながらも無事、夫の後を継いでくれた事。。。

そんな中、ますます厳しくなる禁教令に平戸の松浦家も禁教に踏み切り、メンシアの実兄=大村喜前も改宗してしまいます。

おそらくこの頃のメンシアにとっての生きがいは、息子たちの成長と隆信の治世における平戸の発展しか無かった事でしょう。

なんせ慶長十四年(1609年)にはオランダ商館が、慶長十八年(1613年)にはイギリス商館が設置され、平戸は貿易都市として隆盛を極めていたのですから・・・

そんな中でも、息子が私邸内に建ててくれた「小袋屋敷(おふくろやしき)と称される彼女用の建物に住み、平戸在住のキリシタンたちを影ながら支援していたメンシアでしたが、

元和七年(1621年)には第3代江戸幕府将軍となった徳川家光(とくがわいえみつ)更に厳しいキリシタン弾圧政策を推し進めます。

そして寛永七年(1630年)には、幕府の命によりメンシアをはじめとする親族が江戸にて暮らす事になります。

しかしメンシアは平戸藩の藩邸には住まわせてもらえず松浦家の菩提寺である広徳寺(こうとくじ=東京都練馬区)に入れられ、幽閉状態にされてしまうのです。

明確な理由は記されていませんが、やはりキリスト教を棄てられない事が絡んでいるのかも。。。

この広徳寺滞在の間に、平戸の治世は孫の松浦重信(しげのぶ=鎮信)の代となりますが、結局、彼女は、2度と平戸の地を踏むことなく、息子=隆信の死に目にも合えないまま明暦二年(1657年)11月25日、幽閉の地にて静かにこの世を去る事になります。

享年83。。。

法号は松東院、残る肖像画は尼僧の姿で手には数珠を持っていますが、彼女が棄教したのか?どうか?は定かではありません。
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2023年11月20日 (月)

戦国乱世に翻弄された騎西城の浮き沈み

 

天正二年(1574年)閏11月20日、北条の攻撃を受けていた関宿城簗田持助羽生城木戸氏を救うべく出兵した上杉謙信が菖蒲城・岩槻城・騎西城を攻撃しました。

・・・・・・・

という事で、本日は戦国に3度の戦いの標的となった騎西城(きさいじょう=埼玉県加須市)について書かせていただきます。

・‥…━━━☆

騎西城は利根川南岸の台地の上に構築された城で、かつては私市城(きさいじょう)とも根古屋城 (ねごやじょう)とも呼ばれていて、南北朝時代には佐野氏(さのし=藤原秀郷の系統の藤姓足利氏)の流れを汲む戸室氏(とむろし)が城主を務めていたとも言われますが、そのあたりは曖昧(築城年も不明)・・・

そんな騎西城がハッキリとした歴史の舞台に登場するのは享徳三年(1454)に古河公方(こがくぼう=鎌倉公方)足利成氏(あしかがしげうじ)が、不仲となった関東管領(かんとうかんれい=公方の補佐役)上杉憲忠(うえすぎのりただ)殺害した一件から・・・(9月30日参照>>)

この一件で、成氏VS上杉が決定的な対立となった事から、その翌年の康正元年(1455年)に、成氏が上杉方の長尾景仲(ながおかげかね)らを攻めた後、その残党狩りとして騎西城を攻め、その年の12月6日に陥落させたと言います(第一次・騎西城の戦い)

その後、常陸小田氏(ひたちおだし)の一族とされる小田顕家(おだあきいえ)が城主となるも、永禄年間(1558年~1570年)に入って、例の上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)北条(ほうじょう)関東取り合いの舞台となってしまう事になるのです。

関東にて着々と勢力を広げる北条に押されて(【河越夜戦】参照>>)越後(えちご=新潟県)の謙信を頼った上杉憲政(のりまさ=山内上杉)から永禄二年(1559年)に関東管領並みと上杉の家督を譲られた謙信(6月26日参照>>)

翌永禄三年(1560年)1月の北条氏康(うじやす=北条3代目)に攻められ真っ最中の里見義堯(さとみよしたか)からの救援要請を皮切り(1月20日参照>>)

同じ年の9月には上野(こうずけ=群馬県)沼田(ぬまた=群馬県沼田市)、翌永禄四年(1561年)3月の小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)攻め・・・と、頻繁に関東へと軍を進めていたのです。

そんなこんなの永禄六年(1563年)・・・この時、北条氏康と武田信玄(たけだしんげん)の連合軍の攻撃を受けていた上杉方の松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)の救援に向かった謙信でしたが、間に合わず、松山城は連合軍に落とされてしまいます。

氏康&信玄と一戦も交えず、手ぶらで帰るを悔しく思った謙信は、当時、騎西城主だった小田朝興(ともおき=成田氏からの養子)が、北条傘下の忍城(おしじょう=埼玉県行田市)城主の兄=成田長泰(なりたながやす)に従って、彼もまた北条に従っていた事から、騎西城攻撃を決意・・・

寸前に松山城を落とされた事で戦意を喪失し、反対をする家臣も多かった中で、何とか彼らを奮い立たせ、すばやく軍備を整えると、

運よく、上杉軍に従軍する長尾憲景(ながおのりかげ)の家臣の中に、この騎西城の内情を知る者がおり、その長尾憲景が先鋒となって怒涛の攻撃が開始され、城は一日一夜にして陥落し、城主の小田朝興も自害に追い込まれたのでした(投降説もあり)(第二次・騎西城の戦い)

やがて永禄十二年(1569年)に上杉と北条の講和が成立した事により、騎西城周辺も静かになりますが、

その講和が敗れた天正二年(1574年)閏11月20日付けの上杉謙信の書状によれば、

この頃、北条の標的となっていた関宿城(せきやどじょう=千葉県野田市関宿 )簗田持助(やなだもちすけ)羽生城(はにゅうじょう=埼玉県羽生市)木戸氏(きどし)救援するために関東へと出兵した上杉謙信は、

菖蒲城(しょうぶじょう=埼玉県久喜市)岩槻城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市)とともに、この騎西城をも攻撃し、周辺を徹底的に焼き尽くしたと言いますが(第三次・騎西城の戦い)、 

結局は、北条の防衛に阻まれて関宿城や羽生城との連携が取れず…さらに、頼みにしていた佐竹義重(さたけよししげ)の援軍も遅れてしまっていたところ、7日後の閏11月27日に関宿城は陥落してしまいます。

そのため、やむなく謙信が撤退した後は、騎西領も羽生領も、北条傘下の成田氏の支配に属するところとなってしまったのです。

やがて、その21年後に登場するのが、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)。。。

ご存知、天正十八年(1590年)3月の小田原征伐(おだわらせいばつ)です。(3月29日参照>>)

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小田原征伐の図=騎西城編
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この時、約20万とも言われる大軍で小田原城を包囲した秀吉は、忍城(6月16日参照>>)
八王子城(はちおうじじょう=東京都八王子市)(6月23日参照>>)などを次々と陥落させ、

最終的に、本城である小田原城が7月5日に開城(7月5日参照>>)・・・そのため、騎西城は一戦も交える事無く降伏する事になってしまいました。

こうして北条から離れた騎西城には、徳川家康(とくがわいえやす)配下の松平康重(まつだいらやすしげ)が入ります。

やがて慶長七年(1602年)には、康重の後を受けて、德川譜代の家臣=大久保忠常(おおくぼただつね)が城主となりますが、

その忠常の息子=大久保忠職(ただもと)の代で、美濃加納城(かのうじょう=岐阜県岐阜市加納丸の内)へと移封となった事で廃城となり、騎西城は、歴史の舞台から姿を消す事となります。

まさに戦乱の世に戦うために生まれ、平和な世となって役目を終えた城・・・現在は、その城跡に模擬天守が建っています。
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2023年11月12日 (日)

応仁の乱での六角氏の後継争い~清水鼻の戦い

 

文明三年(1471年)11月12日、応仁の乱で西軍の六角高頼配下の山内政綱が、東軍の六角政堯の拠る清水鼻を攻めた清水鼻の戦いで、負けた六角政堯が自刃しました。
(日付には10月12日説もあり)

・・・・・・・

応仁元年(1467年)…全国の武将が東西に分かれて戦った応仁の乱。。。(5月20日参照>>)

Ouninnoransoukanzu2 とは言え結局は、
将軍=足利家は足利家の(義尚×義視:甥と叔父)
畠山家は畠山家の(義就×政長:従兄弟)
斯波家は斯波家の(義廉×義敏:親戚)

それぞれの家の後継者争いがおおもとなわけで・・・

…で、ここ近江(おうみ=滋賀県)でも、

ともに近江源氏の流れを汲む名門の京極氏(きょうごくし)六角氏(ろっかくし)近江の取り合いが勃発していたわけです。

Rokkakukyougokukakeizu .
←六角&京極家略系図

この応仁の乱では西軍に属していた六角高頼(ろっかくたかより)は、東軍に属する京極持清(きょうごくもちきよ)との戦いに、

美濃(みの=岐阜県南部)土岐氏(ときし)から援軍として派遣されて来た斎藤妙椿(さいとうみょうちん)協力を得て打ち勝ち

京極家臣の多賀高忠(たがたかただ)若狭(わかさ=福井県西部)へと追いやり、江南(こうなん=滋賀県南部)手中に納めたのでした。

そんな中、文明二年(1470年)の8月に京極持清が亡くなった事で、京極家内での後継者争いが勃発し、
「六角が…」「近江が…」
どころではなくなってしまい(10月28日の前半部分参照>>)

この様子を見て京極家に見切りをつけた東軍総大将の細川勝元(ほそかわかつもと)は、文明三年(1471年)の6月、現時点で六角高頼と対立している六角政堯(まさたか=従兄弟)近江の回復を命じたのです。

さらに勝元は、高島(たかしま=滋賀県高島市)朽木貞武(くつきさだたけ)をはじめ、六角の旧家臣である目賀田次郎左衛門(めがたじろうざえもん)下笠美濃守(しもかさみののかみ)高野瀬与四郎(たかのせよしろう)などなどの諸将に、政堯を応援して
「ともに六角高頼を討伐せよ」
との命を下したのです。

これを受けた六角政堯は、早速、六角高頼の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)に対抗すべく、神崎郡(かんざきぐん=滋賀県東近江市&彦根市の一部)清水鼻(しみずはな=滋賀県東近江市五個荘清水鼻町)付城(つけじろ=攻撃する用に敵との最前線に造る城)を構築します。

この動きを知った六角高頼側では、宿将(しゅくしょう=経験豊富な老将)山内政綱(やまうちまさつな)が、江南に散らばる六角の旧臣たちに呼びかけ招集し、さらに、かの斎藤妙椿にも援軍を要請し、

文明三年(1471年)11月、大挙して清水鼻の六角政堯を攻めたのです。

これは、さすがに多勢に無勢・・・もともとの兵の数が大きく違った政堯は、奮戦するも支えきれず文明三年(1471年)11月12日の夜(10月12日説もあり)
「もはや、これまで」
自害して果てたのです。

この時、将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の命を受けて、政堯を救援すべく琵琶湖を渡って来た朽木貞武も壮絶な討死を遂げ、同じく政堯方に属していた六角の重臣たちも、ことごとく討ち取られ

勝ちに乗じた六角高頼方の兵が次々と追い打ちをかけ行き、この日は江南一帯が炎に包まれたのだとか。。。

ちなみに、この時、六角政堯が清水鼻に構築した付城が、後の箕作城(みつくりじょう=滋賀県東近江市五個荘山本町)(9月12日参照>>)の基礎となったとされています。

こうして、近江での戦乱は、少し静かになったのですが、

ここで西軍から東軍に寝返るのが六角政信(まさのぶ)・・・

実は、彼は、六角高頼の父である六角久頼(ひさより=政頼かも)の長兄=六角持綱(もちつな)の息子・・・つまり、彼も高頼の従兄弟です。

第11代当主だった六角久頼が亡くなった時、未だ六角高頼が幼かったため、一旦家督は、久頼の次兄である六角時綱(ときつな)の息子だった政堯が継いだのですが、

その政堯が問題を起こして廃嫡(はいちゃく=後継者でなくなる事)された時、
「よっしゃぁ~次は俺や!」
思っていた長兄の息子であった六角政信。。。

ところが幕府は、未だ若年の六角高頼を後継者にしたワケで、

つまり六角政信は、後継者争いで負けた高頼に対しても敵意があったワケですが、1度は六角氏の後継者になった政堯が東軍にいたため、ここまで西軍に属していた高頼とともに戦って来ていましたが、

ここに来て政堯が亡くなったとなれば、後継を争うのは高頼のみ・・・って事で、西から東へ寝返っちゃたワケです。

この前年の足利義視(よしみ=義政の弟)トンズラ事件もそうですが(10月13日参照>>)、もはや応仁の乱が「東だの」「西だの」に関係なく、各家々の後継者争いの寄り集まりになってるのが、この政信の寝返りで、見事にわかりますね~

こんなグダグダになっても、まだ続く応仁の乱・・・

結局、東西両総大将の死を以って下火になり(3月18日参照>>)、文明九年(1477年)11月の大内政広(おおうちまさひろ)の領国=周防(すおう=山口県東南部)への帰国によって(11月11日参照>>)ようやく大乱に終止符が打たれる事になります。

とは言え、結局は、個々の後継者争いは、まだまだ続くんですけどね。。。

参照↓
京極騒乱(京極の後継争い)>>
加賀一向一揆(富樫の後継争い)>>
畠山の後継争い>>
畠山の後継争いで起こった山城の国一揆>>
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2023年11月 5日 (日)

榎本艦隊の蝦夷攻略~土方歳三の松前城攻撃

 

明治元年(1868年)11月5日、艦隊を率いて蝦夷地に上陸した旧幕府軍の別動隊として動いていた土方歳三が松前城を陥落させました。

・・・・・・・・

江戸にてテロ行為を繰り返す薩摩(12月25日参照>>)への討伐許可を朝廷から得ようと、慶応四年(明治元年・1868年)の1月3日に、大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)を出発して鳥羽街道伏見街道を京都へと向かっていた幕府の行列に、薩摩が砲撃した事で合戦の火蓋が切られた鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)

この時、榎本武揚(えのもとたけあき)は幕府戦艦=開陽丸(かいようまる=軍艦)にて大坂湾上で薩摩の平運丸(へいうんまる)など3隻の軍鑑に一斉砲火を浴びせて大勝利(1月2日参照>>)していましたが、陸戦の方では幕府が苦戦(1月5日参照>>)。。。

これを受けた幕府側の総大将=徳川慶喜(とくがわよしのぶ=第15代江戸幕府将軍)が、その開陽丸に乗って単独で江戸へと戻ってしまった(1月8日参照>>)事から、新政府軍は東征を開始します。

そんな中、1月23日に行われた江戸城(えどじょう=東京都千代田区)での作戦会議(1月23日参照>>)で、抗戦を避けて恭順姿勢による戦争回避を考えていた徳川慶喜の意向を受けて幕府代表の勝海舟(かつかいしゅう)は、新政府代表の西郷隆盛(さいごうたかもり)との世紀の会談(3月14日参照>>)を行い、江戸城は4月11日に無血開城される事になります。

この幕府の決定を不服とする榎本らは、開城当日に開陽丸以下8隻(回天・蟠龍・千代田形(軍鑑×3)・神速・長鯨・咸臨・美嘉保(輸送船×4))の艦隊を率いて、品川沖から館山沖へと退去し、そのまま船団ごと北へと向かったのです(8月19日参照>>)

途中、血気盛んな東北の猛者たち(5月27日参照>>)を加えて、海路をさらに北へと向かった榎本らは、慶応四年(明治元年・1868年)10月20日、蝦夷地(えぞち=北海道)に上陸し、またたく間に五稜郭(ごりょうかく=現在の北海道函館市)占拠したのです(10月20日参照>>)

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↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

一方、函館奪取に戦勝ムードが沸く中で、額兵隊(がくへいたい=仙台藩中心の洋式銃隊)など約700の別動隊を率いて、松前城(まつまえじょう=北海道松前町)に迫っていた土方歳三(ひじかたとしぞう)は、

Hijikatatoshizo2明治元年(1868年)11月5日松前城への攻撃を開始します。

この時、城を守る松前藩兵には『蝸牛(かたつむり)戦法』という鉄壁の守りがありました。

それは、
まずは城の搦手門(からめてもん=裏門)に設置した大砲を、少しだけ門を開いてブッ放してすぐに閉じ、この間に砲弾を装備して、また少しだけ開けてブッ放す・・・

この開けては放ち、すかさず閉じて、また開けて~という繰り返しをできるだけ素早くやる…という戦法で、これまで寄せて来る敵側に甚大な損害を与えていた戦法でした。

これを阻止しようと考えた土方は、
まずは、決死の数人を門の前に潜ませ、門が開いた瞬間に一斉に銃撃を浴びせつつ内になだれ込み、相手に次の砲撃の余裕を与えないままの所を、後続が・・・と、この奇襲作戦で、見事、旧幕府軍が勝利を納めたのです。
(実際に土方が指揮したかどうかは不明とされる)

とにかく、この日、松前城は陥落し、城下にも火が放たれた事で、町は約2000戸の民家が焼け出されたと言います。

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松前城周辺の古写真慶応三年=1867年(函館市中央図書館蔵)

さらに、5日後のの11月15日には、旧幕府軍の上陸時に備えて急きょ内陸部に構築された館城(たてじょう=北海道厚沢部町)も、仙台にて榎本らに合流して一聯隊(いちれんたい)約200名を率いていた松岡四郎次郎 (まつおかしろうじろう)らによって落とされてしまいました。

この戦いでは、負けが濃くなった味方を、一人でも多く逃がすべく、左手にまな板、右手に太刀を振って立ちはだかって奮戦し「今弁慶(いまべんけい)と称されながらも壮絶な討死を遂げた法華寺(ほっけじ=北海道松前町)住職で松前藩正義隊(せいぎたい)隊長=三上超順(みかみちょうじゅん)の逸話が知られます。

そんな混乱の中、戦況の悪化に津軽(つがる=青森県西部)方面へと何とか逃れた松前藩主の松前徳広(まつまえのりひろ)でしたが、航海中の船の上で娘さんを亡くすわ、無事津軽に着いたものの持病の肺結核が悪化するわで、わずか半月後の11月29日に25歳の若さで死去してしましました。

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慶応戊辰秋八月品港出帆之図(函館中央図書館蔵)

一方、こうして松前攻略の成功に湧く旧幕府軍でしたが、同じ11月15日の夜、驚天動地の災難に遭う事になります。

江差(えさし=北海道檜山振興局)沖に停泊していた、あの開陽丸が、この日の暴風雨を受けて座礁・・・10日後に沈没してしまうのです。

しかも、その救援に向かった神速丸(しんそくまる=輸送船)まで座礁してしまったのです。

これは旧幕府軍にとって大きな痛手でした。

このあと…1ヶ月後の12月15日には、大いなる希望を持って蝦夷共和国 (えぞきょうわこく)が誕生する事になるのですが(12月15日参照>>)

やはり艦隊の中枢を失った痛手は大きく、それを挽回せんがため最新鋭の軍艦強奪を狙って行われたのが宮古湾海戦 (みやこわんかいせん)…という事になるのですが、そのお話は【3月25日:榎本武揚・3つの誤算~宮古湾海戦】>>でどうぞm(_ _)m
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2023年11月 1日 (水)

一条天皇の後宮へ~波乱含みの藤原彰子の入内

 

長保元年(999年)11月1日、 藤原道長の長女=藤原彰子が一条天皇の後宮に入内しました。

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関白(かんぱく=成人した天皇の補佐役)に就任し、政権トップの座に躍り出た父=藤原兼家(かねいえ)と、円融天皇(えんゆうてんのう=第64代)女御(にょうご=後宮のNo.3くらい)となって一条天皇(いちじょうてんのう=第66代・986年に即位)を産んだ姉=藤原詮子(せんし・あきこ=兼家の次女)の後ろ盾によって、ここまで順調に出世して来た藤原道長(ふじわらのみちなが=兼家の五男?)ではありましたが、

父亡き後に後を継いで関白となった長兄の藤原道隆(みちたか=兼家の長男)とはソリが合わず、何かと対立する関係にあり、その道隆が亡くなった 長徳元年〈995年)からは、その嫡男(ちゃくなん=後継者)である藤原伊周(これちか)とも対立しておりました(7月24日参照>>)

そんなこんなの長徳四年(998年)3月、33歳となっていた道長は重い病を得ます。

それは時の一条天皇に官職の辞任を願い出るほどに重かったようですが、一条天皇はそれを許さず・・・

また、この年は疫病の流行もあって藤原詮子が憂鬱になったりして、朝廷では大赦(たいしゃ=徳を積むべく罪を許す)疫病退散の大祓(おおはらえ=ケガレをを祓う)などが行われ、道長は、その儀式の運営に骨を折らねばなりませんでした。

そう・・・ユネスコの記憶遺産にもなった道長の日記『御堂関白記(みどうかんぱくき)は、実は、この盛大な疫病退散祭のあれやこれやの「俺は病気でシンドイのに大変やったんやで~」の記述からは始まるのです。

とは言え、この年の冬には、道長の病も何とか快方に向かい、12月には、一条天皇の中宮(ちゅうぐう=一般的には後宮のNo.2ですが定子場合はNo.1の皇后並み)となっていた藤原定子(さだこ・ていし=道隆の長女で伊周の妹)が産んだ第一子(長女)脩子内親王(しゅうしないしんのう)の3歳を祝う袴着(はかまぎ)の儀式に出席し、嬉しそうに、その袴を履かせる役を全うしています。

このように、この頃、一条天皇の寵愛を受けていたのは藤原定子・・・

2年前の長徳二年(996年)に兄の伊周が調子に乗り過ぎて事件【長徳の変】参照>>)を起こした事で、一旦、定子は出家するのですが、一条天皇がどうしても彼女を放さず、しかも長女が生まれた・・・それがキッカケで呼び戻され、相変わらずの寵愛を受けていたのです。

もちろん、この時点では道長にも邪心はなく、純粋に定子の皇女を祝福していたわけですが、人間、元気を取り戻すと野心がムクムク湧き上がるものでして。。。

明けて長保元年(999年)と改元されたこの年、完全快復した道長は、12歳になった長女=藤原彰子(あきこ・しょうし)入内(じゅだい=皇后・中宮・女御になる女性が正式に内裏に入る事)急ぐようになるのです。 

Seisyounagonkakigooriccmo 2月9日には裳着(もぎ=大人の女性の証として十二単の後ろに飾り布→を着ける)の儀式を行いますが、

この時、詮子や中宮定子らから祝福の贈物など受け取ったうえに、11日には天皇の勅使(ちょくし=正式な使者)から「彰子を従三位(じゅさんみ=正三位の下で正四位より上の官位)に叙する」との知らせも入った事で道長は大喜び。

それは、あまりの浮かれっぷりに、少々眉をひそめる公家もいたほどでした。

そんな一方で、この頃でも、未だ一条天皇の「定子LOVE」は根強く、何なら、
「今、君がいてるとこはちょっと遠いから(1回出家してるのでね)、近くの殿舎に引っ越しぃな…僕がソコに通うさかいに~」
てな事を言って、引越の手配もやっちゃうくらいのゾッコンぶり、

Fuziwarasikeizumitinagavskoretika5 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

しかも、この頃は彼女の他にも一条天皇の内裏(だいり=天皇の住まい)には女御として藤原義子(ぎし・よしこ=藤原公季の長女)藤原元子(げんし・もとこ=藤原顕光の長女)藤原尊子(そんし・たかこ=藤原道兼の長女)という女性たちが、すでに入内していたのです。(恋のライバル多し)

とは言え、道長に、そんな事を気にする余裕はありません。

なんせ、この時代の入内のアレコレは、すべて実家が差配するもの・・・9月25日から開始された入内準備は、式次第の決定や会場のしつらえなどなど、やる事山積みです。

式も近くなった10月21日には会場を飾る金屏風に、有名人の新作和歌を載せようと、そのお願いに奔走する道長パパ。

一方、この頃の定子は、上記の通りの引越を完了したものの、邸宅には、あまり訪れる人もなく寂しい日々が続いていたようですが、そんな中でも8月9日に第2子の妊娠が発覚し(寂しくでもヤル事はヤッてんねんなww)、定子は気心の知れた平生昌(たいらのなりまさ=かつて仕えていた縁)邸宅に移る事になりました。

しかし、そのお引越の日と、まさに同じ日、
(偶然なのか?わざとのイケズなのか?は知らんけど)
道長は、宇治(うじ=京都府宇治市)別荘にてドンチャン騒ぎ
(準備忙しいんちゃうんかい!と突っ込んでおこう)

そのため、多くの公卿が道長の宴会の方に駆けつけ、定子のお引越には病欠の申し出が相次いで、あまり人が来なかったらしい・・・気の毒に

この日、定子に従っていた清少納言(せいしょうなごん=定子の家庭教師)は、その著書『枕草子(まくらのそうし)の中で、
「ウチらは北の門から寂しく邸宅に入らされて、なんか哀れな感じでメッチャ腹立つやん」
と、せっかくの引越を台無しにされた不満をブチまけています。

そんなこんなありながらも、いよいよ準備が整った長保元年(999年)11月1日藤原彰子が入内するのです。

入内の行列には10人ほどの公卿が参加するばかりか、当時は検非違使(けびいし=警察)別当(べっとう=長官)を務めていた藤原公任(きんとう)公務そっちのけで彰子につきっきりの世話をやき、市中の治安もクソも無い状態だったとか。。。

そんな彰子に突き従うのは、女房=40人、童(わらわ=雑用係の少年)=6人、下仕(しもづかえ)=6人、いずれも、道長自らが厳選した側近たちでした。

この時の彰子さんは、未だ幼いワリには幼稚な部分はほとんどなく、長い髪がいかにも美しい、見事な見た目だったとか。。。

その6日後、彰子は女御の宣旨(せんじ=天皇の命令文書)を受けますが、まさに、この同日、定子は、一条天皇にとって初めての男の子敦康親王(あつやすしんのう)を出産するのです。

そして・・・
翌長保二年(1000年)の2月25日、彰子は、いよいよ立后(りっこう)するのです。

立后とは、すなわち皇后(こうごう)になる事。。。

えぇ?皇后は定子さんだったんじゃ?

そう、、、天皇に愛され、未だ皇后並みの扱いをされている定子さんがいるので、これは史上初の一帝二后という事になるのです。

父ちゃんは死に、兄ちゃんがヘタこいて、もはや一条天皇の愛しか頼る物がない定子さんと、

飛ぶ鳥を落とす勢いの父ちゃんが後ろ盾の彰子はん。。。

もはや、波乱の臭いしかしませんがなw(@o@;)w

てな事で、このお話の続きとしては、寛弘四年(1007年)8月の【藤原伊周の藤原道長暗殺計画】>>をどうぞ
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