戦国乱世に翻弄された騎西城の浮き沈み
天正二年(1574年)閏11月20日、北条の攻撃を受けていた関宿城の簗田持助と羽生城の木戸氏を救うべく出兵した上杉謙信が菖蒲城・岩槻城・騎西城を攻撃しました。
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という事で、本日は戦国に3度の戦いの標的となった騎西城(きさいじょう=埼玉県加須市)について書かせていただきます。
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騎西城は利根川南岸の台地の上に構築された城で、かつては私市城(きさいじょう)とも根古屋城 (ねごやじょう)とも呼ばれていて、南北朝時代には佐野氏(さのし=藤原秀郷の系統の藤姓足利氏)の流れを汲む戸室氏(とむろし)が城主を務めていたとも言われますが、そのあたりは曖昧(築城年も不明)・・・
そんな騎西城がハッキリとした歴史の舞台に登場するのは享徳三年(1454)に古河公方(こがくぼう=鎌倉公方)の足利成氏(あしかがしげうじ)が、不仲となった関東管領(かんとうかんれい=公方の補佐役)の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を殺害した一件から・・・(9月30日参照>>)
この一件で、成氏VS上杉が決定的な対立となった事から、その翌年の康正元年(1455年)に、成氏が上杉方の長尾景仲(ながおかげかね)らを攻めた後、その残党狩りとして騎西城を攻め、その年の12月6日に陥落させたと言います(第一次・騎西城の戦い)。
その後、常陸小田氏(ひたちおだし)の一族とされる小田顕家(おだあきいえ)が城主となるも、永禄年間(1558年~1570年)に入って、例の上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)と北条(ほうじょう)の関東取り合いの舞台となってしまう事になるのです。
関東にて着々と勢力を広げる北条に押されて(【河越夜戦】参照>>)、越後(えちご=新潟県)の謙信を頼った上杉憲政(のりまさ=山内上杉)から永禄二年(1559年)に関東管領並みと上杉の家督を譲られた謙信は(6月26日参照>>)、
翌永禄三年(1560年)1月の北条氏康(うじやす=北条3代目)に攻められ真っ最中の里見義堯(さとみよしたか)からの救援要請を皮切りに(1月20日参照>>)、
同じ年の9月には上野(こうずけ=群馬県)沼田(ぬまた=群馬県沼田市)、翌永禄四年(1561年)3月の小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)攻め・・・と、頻繁に関東へと軍を進めていたのです。
そんなこんなの永禄六年(1563年)・・・この時、北条氏康と武田信玄(たけだしんげん)の連合軍の攻撃を受けていた上杉方の松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)の救援に向かった謙信でしたが、間に合わず、松山城は連合軍に落とされてしまいます。
氏康&信玄と一戦も交えず、手ぶらで帰るを悔しく思った謙信は、当時、騎西城主だった小田朝興(ともおき=成田氏からの養子)が、北条傘下の忍城(おしじょう=埼玉県行田市)城主の兄=成田長泰(なりたながやす)に従って、彼もまた北条に従っていた事から、騎西城攻撃を決意・・・
寸前に松山城を落とされた事で戦意を喪失し、反対をする家臣も多かった中で、何とか彼らを奮い立たせ、すばやく軍備を整えると、
運よく、上杉軍に従軍する長尾憲景(ながおのりかげ)の家臣の中に、この騎西城の内情を知る者がおり、その長尾憲景が先鋒となって怒涛の攻撃が開始され、城は一日一夜にして陥落し、城主の小田朝興も自害に追い込まれたのでした(投降説もあり)。(第二次・騎西城の戦い)
やがて永禄十二年(1569年)に上杉と北条の講和が成立した事により、騎西城周辺も静かになりますが、
その講和が敗れた天正二年(1574年)閏11月20日付けの上杉謙信の書状によれば、
この頃、北条の標的となっていた関宿城(せきやどじょう=千葉県野田市関宿 )の簗田持助(やなだもちすけ)や羽生城(はにゅうじょう=埼玉県羽生市)の木戸氏(きどし)を救援するために関東へと出兵した上杉謙信は、
菖蒲城(しょうぶじょう=埼玉県久喜市)や岩槻城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市)とともに、この騎西城をも攻撃し、周辺を徹底的に焼き尽くしたと言いますが(第三次・騎西城の戦い)、
結局は、北条の防衛に阻まれて関宿城や羽生城との連携が取れず…さらに、頼みにしていた佐竹義重(さたけよししげ)の援軍も遅れてしまっていたところ、7日後の閏11月27日に関宿城は陥落してしまいます。
そのため、やむなく謙信が撤退した後は、騎西領も羽生領も、北条傘下の成田氏の支配に属するところとなってしまったのです。
やがて、その21年後に登場するのが、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)。。。
ご存知、天正十八年(1590年)3月の小田原征伐(おだわらせいばつ)です。(3月29日参照>>)
小田原征伐の図=騎西城編
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
この時、約20万とも言われる大軍で小田原城を包囲した秀吉は、忍城(6月16日参照>>)
や八王子城(はちおうじじょう=東京都八王子市)(6月23日参照>>)などを次々と陥落させ、
最終的に、本城である小田原城が7月5日に開城(7月5日参照>>)・・・そのため、騎西城は一戦も交える事無く降伏する事になってしまいました。
こうして北条から離れた騎西城には、徳川家康(とくがわいえやす)配下の松平康重(まつだいらやすしげ)が入ります。
やがて慶長七年(1602年)には、康重の後を受けて、德川譜代の家臣=大久保忠常(おおくぼただつね)が城主となりますが、
その忠常の息子=大久保忠職(ただもと)の代で、美濃加納城(かのうじょう=岐阜県岐阜市加納丸の内)へと移封となった事で廃城となり、騎西城は、歴史の舞台から姿を消す事となります。
まさに戦乱の世に戦うために生まれ、平和な世となって役目を終えた城・・・現在は、その城跡に模擬天守が建っています。
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