逆風の中で信仰を貫いた戦国の女~松東院メンシア
明暦二年(1657年)11月25日、初のキリシタン大名として長崎港を開いた事で知られる大村純忠の娘で松浦久信に嫁いだ松東院メンシアが死去しました。
・・・・・・・
夫亡き後に出家した法号が松東院(しょうとういん)、キリシタンの洗礼名がメンシア、実名は大村その(おおむらその)とされるこの女性は、天正三年(1575年)に三城城(さんじょうじょう=長崎県大村市)の城主=大村純忠(おおむらすみただ)の五女として生まれます。
この大村純忠は、島原(しまばら=長崎県島原市)の有馬晴純(ありまはるずみ)の次男として生まれながらも、母方の大村氏を継ぐべく養子に入った人で、永禄六年(1563年)に日本初のキリシタン大名となって後、元亀元年(1570年)には長崎港を開港した事で有名です(4月27日参照>>)。
とは言え、一方で、この頃の大村純忠は「肥前の熊」と呼ばれた大物=龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)(8月8日参照>>)に脅かされる日々でもありました。
小領主の大村純忠にとって大物との争いは
「何とか避けたい」
とばかりに、天正八年(1580年)には龍造寺隆信の次男=江上家種(えがみいえたね)に次女を嫁がせたばかりか、長男の大村喜前(よしあき=サンチョ)をはじめ次男の純宣(すみのぶ=リノ)、三男の純直(すみなお=セバスチャン)と、次々に龍造寺への人質に出すという涙ぐましい努力。。。
ちなみに、さらに弟の四男の純栄(すみえい=ルイス)も実家の有馬氏へ人質として差し出しています。
これだけ周囲に気を使うそもそもは、
貿易を求めるポルトガル船が最初に入港したのは平戸(ひらど=長崎県平戸市)・・・
しかし、この平戸を領する松浦鎮信(まつらしげのぶ)が宣教師の布教活動を認めなかった事から、その交易権が大村純忠に回って来た事で横瀬浦(よこせうら=長崎県西海市西海町)を開港したものの、
それに反発する武雄(たけお=佐賀県武雄市)の後藤(ごとう)や諫早(いさはや=長崎県諫早市)の西郷(さいごう)や長崎の深堀(ふかぼり)などに睨まれて港を焼き討ちされ、その後継となる良港を目指して開港したのが、元亀元年(1570年)の長崎港であったわけで・・・
つまり大村純忠は、これだけの周辺とのなんやかんやを抑えつつ、何とか経済力で以って領国を強くしようと港を開き、日夜心血を注いでいたわけです。
そんなこんなの天正十二年(1584年)3月、かの龍造寺隆信が薩摩(さつま=鹿児島県)の島津(しまづ)との沖田畷(おきたなわて)の戦いで戦死します(3月24日参照>>)。
やれ!一安心~と思いきや、それは、単に大村純忠を悩ます九州の大物が龍造寺から島津に代っただけ・・・
もちろん、その勢いのまま北上し領地を広げようとする島津の脅威は、大村だけでなく他の九州の武将たちも同じなわけです(【阿蘇の軍師:甲斐宗運】参照>>)。
…で天正十四年(1586年)、同じく島津に脅威を抱く豊後(ぶんご=大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)が頼ったのが、今や天下を統べらんとする勢いの豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴:同年の12月に豊臣姓を賜る)だったのです(4月6日参照>>)。
この時、いち早く豊臣傘下となっていた松浦鎮信と、少々の小競り合いの後に境界協定を結んだ大村純忠は、その同盟の証として松浦鎮信の嫡子(ちゃくし=後継者)=松浦久信(ひさのぶ)と、自身の娘との縁組を約束します。
その娘が本日の主役=五女のメンシアでした。
(長い前置きスマンですm(_ _)m))
先に書いたように父の大村純忠は日本初のキリシタン大名・・・そしてメンシアという名前でお察しの通り、彼女も敬虔なクリスチャンです。
しかし、これまた先に書いた通り、松浦さんちは完全なる反キリシタン(布教活動断ってますから)。
婚姻にあたっては、大村側から松浦側へ
「信仰は容認する」
との約束を取り付けて、何とか実現に漕ぎつけたのでした。
この婚姻承諾の時、島津を攻める豊臣軍(4月17日参照>>)に従軍していた松浦鎮信は、島津攻め終了の帰路に三城城に寄って、大村純忠に面会した後、13歳だったメンシアを伴って17歳の息子の待つ平戸に戻ったと言います。
この翌年の天正十五年(1587年)5月、以前から肺結核を患っていた大村純忠は、この世を去ります。
こうして、完全なる政略結婚で松浦家に嫁いだメンシア・・・
まぁ、夫は理解のある人だったようですが、
やはり度々改宗を迫って来るキリシタン嫌いの舅=鎮信との仲は、あまりよろしく無かったようで・・・
しかし、こういう場合、反対が強いほど、コチラの思いもかたくなに強くなっていくのが人の常・・・メンシアの信仰心は、さらに深くなっていくのです。
舅に棄教を迫られるたび、
「棄教するなら実家に帰る!」
「改宗するくらいなら死ぬ!」
と抵抗し続けるメンシアに、
やむなく松浦父子は、邸宅の中に彼女用の聖堂を増築したのだとか。。。
その聖堂にヴァリニャーノ(イエズス会の宣教師)を迎えた時には、感激のあまりに涙が止まらず、その足下にひれ伏したメンシアを見た松浦父子は
「嫁の、こんな姿…まともに見れんわ」
とばかりに、その場から席を外したらしい・・・
でも個人的には、反対しながらも聖堂造ってくれる松浦さんちの父子って…意外にえぇ人たちに思えるww
天正十九年(1592年)には、夫=久信との間に待望の嫡子=松浦隆信(たかのぶ)をもうけ、その後も次男&三男が誕生・・・
とは言え、その一方でご存知のように、かの秀吉は
すでに、天正十五年(1587年)の時点で、
6月18日に『天正十五年六月十八日付覚』(6月18日参照>>)
翌19日に『天正十五年六月十九日付朱印(松浦文書)』(6月19日参照>>)
という二通のいわゆるキリシタン禁止令&バテレン追放令を出しています。
キリシタンにとっては悲しい時代が・・・もちろん、その秀吉亡き後もキリシタンへの逆風は激しくなる一方でした。
そんなこんなの慶長七年(1602年)8月、夫の松浦久信が32歳の若さで急死するのです。
一般的には病死とされていますが、一説には、関ヶ原の戦い(参照>>)の際に、父の命により、表向きは東軍につきながら裏で西軍に情報を流していた事が露見しそうになって、その責任を一身に背負って自刃した…なんて噂もあります(あくまで噂です)
とにもかくにも、ここで夫を失ったメンシアは剃髪して松東院(ややこしいのでメンシア呼びします)と号するようになりますが、その唯一の救いは嫡男の隆信が、若年でありながらも無事、夫の後を継いでくれた事。。。
そんな中、ますます厳しくなる禁教令に平戸の松浦家も禁教に踏み切り、メンシアの実兄=大村喜前も改宗してしまいます。
おそらくこの頃のメンシアにとっての生きがいは、息子たちの成長と隆信の治世における平戸の発展しか無かった事でしょう。
なんせ慶長十四年(1609年)にはオランダ商館が、慶長十八年(1613年)にはイギリス商館が設置され、平戸は貿易都市として隆盛を極めていたのですから・・・
そんな中でも、息子が私邸内に建ててくれた「小袋屋敷(おふくろやしき)」と称される彼女用の建物に住み、平戸在住のキリシタンたちを影ながら支援していたメンシアでしたが、
元和七年(1621年)には第3代江戸幕府将軍となった徳川家光(とくがわいえみつ)が更に厳しいキリシタン弾圧政策を推し進めます。
そして寛永七年(1630年)には、幕府の命によりメンシアをはじめとする親族が江戸にて暮らす事になります。
しかしメンシアは平戸藩の藩邸には住まわせてもらえず松浦家の菩提寺である広徳寺(こうとくじ=東京都練馬区)に入れられ、幽閉状態にされてしまうのです。
明確な理由は記されていませんが、やはりキリスト教を棄てられない事が絡んでいるのかも。。。
この広徳寺滞在の間に、平戸の治世は孫の松浦重信(しげのぶ=鎮信)の代となりますが、結局、彼女は、2度と平戸の地を踏むことなく、息子=隆信の死に目にも合えないまま、明暦二年(1657年)11月25日、幽閉の地にて静かにこの世を去る事になります。
享年83。。。
法号は松東院、残る肖像画は尼僧の姿で手には数珠を持っていますが、彼女が棄教したのか?どうか?は定かではありません。
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