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2023年11月 5日 (日)

榎本艦隊の蝦夷攻略~土方歳三の松前城攻撃

 

明治元年(1868年)11月5日、艦隊を率いて蝦夷地に上陸した旧幕府軍の別動隊として動いていた土方歳三が松前城を陥落させました。

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江戸にてテロ行為を繰り返す薩摩(12月25日参照>>)への討伐許可を朝廷から得ようと、慶応四年(明治元年・1868年)の1月3日に、大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)を出発して鳥羽街道伏見街道を京都へと向かっていた幕府の行列に、薩摩が砲撃した事で合戦の火蓋が切られた鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)

この時、榎本武揚(えのもとたけあき)は幕府戦艦=開陽丸(かいようまる=軍艦)にて大坂湾上で薩摩の平運丸(へいうんまる)など3隻の軍鑑に一斉砲火を浴びせて大勝利(1月2日参照>>)していましたが、陸戦の方では幕府が苦戦(1月5日参照>>)。。。

これを受けた幕府側の総大将=徳川慶喜(とくがわよしのぶ=第15代江戸幕府将軍)が、その開陽丸に乗って単独で江戸へと戻ってしまった(1月8日参照>>)事から、新政府軍は東征を開始します。

そんな中、1月23日に行われた江戸城(えどじょう=東京都千代田区)での作戦会議(1月23日参照>>)で、抗戦を避けて恭順姿勢による戦争回避を考えていた徳川慶喜の意向を受けて幕府代表の勝海舟(かつかいしゅう)は、新政府代表の西郷隆盛(さいごうたかもり)との世紀の会談(3月14日参照>>)を行い、江戸城は4月11日に無血開城される事になります。

この幕府の決定を不服とする榎本らは、開城当日に開陽丸以下8隻(回天・蟠龍・千代田形(軍鑑×3)・神速・長鯨・咸臨・美嘉保(輸送船×4))の艦隊を率いて、品川沖から館山沖へと退去し、そのまま船団ごと北へと向かったのです(8月19日参照>>)

途中、血気盛んな東北の猛者たち(5月27日参照>>)を加えて、海路をさらに北へと向かった榎本らは、慶応四年(明治元年・1868年)10月20日、蝦夷地(えぞち=北海道)に上陸し、またたく間に五稜郭(ごりょうかく=現在の北海道函館市)占拠したのです(10月20日参照>>)

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↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

一方、函館奪取に戦勝ムードが沸く中で、額兵隊(がくへいたい=仙台藩中心の洋式銃隊)など約700の別動隊を率いて、松前城(まつまえじょう=北海道松前町)に迫っていた土方歳三(ひじかたとしぞう)は、

Hijikatatoshizo2明治元年(1868年)11月5日松前城への攻撃を開始します。

この時、城を守る松前藩兵には『蝸牛(かたつむり)戦法』という鉄壁の守りがありました。

それは、
まずは城の搦手門(からめてもん=裏門)に設置した大砲を、少しだけ門を開いてブッ放してすぐに閉じ、この間に砲弾を装備して、また少しだけ開けてブッ放す・・・

この開けては放ち、すかさず閉じて、また開けて~という繰り返しをできるだけ素早くやる…という戦法で、これまで寄せて来る敵側に甚大な損害を与えていた戦法でした。

これを阻止しようと考えた土方は、
まずは、決死の数人を門の前に潜ませ、門が開いた瞬間に一斉に銃撃を浴びせつつ内になだれ込み、相手に次の砲撃の余裕を与えないままの所を、後続が・・・と、この奇襲作戦で、見事、旧幕府軍が勝利を納めたのです。
(実際に土方が指揮したかどうかは不明とされる)

とにかく、この日、松前城は陥落し、城下にも火が放たれた事で、町は約2000戸の民家が焼け出されたと言います。

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松前城周辺の古写真慶応三年=1867年(函館市中央図書館蔵)

さらに、5日後のの11月15日には、旧幕府軍の上陸時に備えて急きょ内陸部に構築された館城(たてじょう=北海道厚沢部町)も、仙台にて榎本らに合流して一聯隊(いちれんたい)約200名を率いていた松岡四郎次郎 (まつおかしろうじろう)らによって落とされてしまいました。

この戦いでは、負けが濃くなった味方を、一人でも多く逃がすべく、左手にまな板、右手に太刀を振って立ちはだかって奮戦し「今弁慶(いまべんけい)と称されながらも壮絶な討死を遂げた法華寺(ほっけじ=北海道松前町)住職で松前藩正義隊(せいぎたい)隊長=三上超順(みかみちょうじゅん)の逸話が知られます。

そんな混乱の中、戦況の悪化に津軽(つがる=青森県西部)方面へと何とか逃れた松前藩主の松前徳広(まつまえのりひろ)でしたが、航海中の船の上で娘さんを亡くすわ、無事津軽に着いたものの持病の肺結核が悪化するわで、わずか半月後の11月29日に25歳の若さで死去してしましました。

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慶応戊辰秋八月品港出帆之図(函館中央図書館蔵)

一方、こうして松前攻略の成功に湧く旧幕府軍でしたが、同じ11月15日の夜、驚天動地の災難に遭う事になります。

江差(えさし=北海道檜山振興局)沖に停泊していた、あの開陽丸が、この日の暴風雨を受けて座礁・・・10日後に沈没してしまうのです。

しかも、その救援に向かった神速丸(しんそくまる=輸送船)まで座礁してしまったのです。

これは旧幕府軍にとって大きな痛手でした。

このあと…1ヶ月後の12月15日には、大いなる希望を持って蝦夷共和国 (えぞきょうわこく)が誕生する事になるのですが(12月15日参照>>)

やはり艦隊の中枢を失った痛手は大きく、それを挽回せんがため最新鋭の軍艦強奪を狙って行われたのが宮古湾海戦 (みやこわんかいせん)…という事になるのですが、そのお話は【3月25日:榎本武揚・3つの誤算~宮古湾海戦】>>でどうぞm(_ _)m
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