応仁の乱での六角氏の後継争い~清水鼻の戦い
文明三年(1471年)11月12日、応仁の乱で西軍の六角高頼配下の山内政綱が、東軍の六角政堯の拠る清水鼻を攻めた清水鼻の戦いで、負けた六角政堯が自刃しました。
(日付には10月12日説もあり)
・・・・・・・
応仁元年(1467年)…全国の武将が東西に分かれて戦った応仁の乱。。。(5月20日参照>>)
とは言え結局は、
将軍=足利家は足利家の(義尚×義視:甥と叔父)
畠山家は畠山家の(義就×政長:従兄弟)
斯波家は斯波家の(義廉×義敏:親戚)
それぞれの家の後継者争いがおおもとなわけで・・・
…で、ここ近江(おうみ=滋賀県)でも、
ともに近江源氏の流れを汲む名門の京極氏(きょうごくし)と六角氏(ろっかくし)の近江の取り合いが勃発していたわけです。
この応仁の乱では西軍に属していた六角高頼(ろっかくたかより)は、東軍に属する京極持清(きょうごくもちきよ)との戦いに、
美濃(みの=岐阜県南部)の土岐氏(ときし)から援軍として派遣されて来た斎藤妙椿(さいとうみょうちん)の協力を得て打ち勝ち、
京極家臣の多賀高忠(たがたかただ)を若狭(わかさ=福井県西部)へと追いやり、江南(こうなん=滋賀県南部)を手中に納めたのでした。
そんな中、文明二年(1470年)の8月に京極持清が亡くなった事で、京極家内での後継者争いが勃発し、
「六角が…」「近江が…」
どころではなくなってしまい(10月28日の前半部分参照>>)、
この様子を見て京極家に見切りをつけた東軍総大将の細川勝元(ほそかわかつもと)は、文明三年(1471年)の6月、現時点で六角高頼と対立している六角政堯(まさたか=従兄弟)に近江の回復を命じたのです。
さらに勝元は、高島(たかしま=滋賀県高島市)の朽木貞武(くつきさだたけ)をはじめ、六角の旧家臣である目賀田次郎左衛門(めがたじろうざえもん)や下笠美濃守(しもかさみののかみ)、高野瀬与四郎(たかのせよしろう)などなどの諸将に、政堯を応援して
「ともに六角高頼を討伐せよ」
との命を下したのです。
これを受けた六角政堯は、早速、六角高頼の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)に対抗すべく、神崎郡(かんざきぐん=滋賀県東近江市&彦根市の一部)清水鼻(しみずはな=滋賀県東近江市五個荘清水鼻町)に付城(つけじろ=攻撃する用に敵との最前線に造る城)を構築します。
この動きを知った六角高頼側では、宿将(しゅくしょう=経験豊富な老将)の山内政綱(やまうちまさつな)が、江南に散らばる六角の旧臣たちに呼びかけ招集し、さらに、かの斎藤妙椿にも援軍を要請し、
文明三年(1471年)11月、大挙して清水鼻の六角政堯を攻めたのです。
これは、さすがに多勢に無勢・・・もともとの兵の数が大きく違った政堯は、奮戦するも支えきれず、文明三年(1471年)11月12日の夜(10月12日説もあり)、
「もはや、これまで」
と自害して果てたのです。
この時、将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の命を受けて、政堯を救援すべく琵琶湖を渡って来た朽木貞武も壮絶な討死を遂げ、同じく政堯方に属していた六角の重臣たちも、ことごとく討ち取られ、
勝ちに乗じた六角高頼方の兵が次々と追い打ちをかけ行き、この日は江南一帯が炎に包まれたのだとか。。。
ちなみに、この時、六角政堯が清水鼻に構築した付城が、後の箕作城(みつくりじょう=滋賀県東近江市五個荘山本町)(9月12日参照>>)の基礎となったとされています。
こうして、近江での戦乱は、少し静かになったのですが、
ここで西軍から東軍に寝返るのが六角政信(まさのぶ)・・・
実は、彼は、六角高頼の父である六角久頼(ひさより=政頼かも)の長兄=六角持綱(もちつな)の息子・・・つまり、彼も高頼の従兄弟です。
第11代当主だった六角久頼が亡くなった時、未だ六角高頼が幼かったため、一旦家督は、久頼の次兄である六角時綱(ときつな)の息子だった政堯が継いだのですが、
その政堯が問題を起こして廃嫡(はいちゃく=後継者でなくなる事)された時、
「よっしゃぁ~次は俺や!」
と思っていた長兄の息子であった六角政信。。。
ところが幕府は、未だ若年の六角高頼を後継者にしたワケで、
つまり六角政信は、後継者争いで負けた高頼に対しても敵意があったワケですが、1度は六角氏の後継者になった政堯が東軍にいたため、ここまで西軍に属していた高頼とともに戦って来ていましたが、
ここに来て政堯が亡くなったとなれば、後継を争うのは高頼のみ・・・って事で、西から東へ寝返っちゃたワケです。
この前年の足利義視(よしみ=義政の弟)のトンズラ事件もそうですが(10月13日参照>>)、もはや応仁の乱が「東だの」「西だの」に関係なく、各家々の後継者争いの寄り集まりになってるのが、この政信の寝返りで、見事にわかりますね~
こんなグダグダになっても、まだ続く応仁の乱・・・
結局、東西両総大将の死を以って下火になり(3月18日参照>>)、文明九年(1477年)11月の大内政広(おおうちまさひろ)の領国=周防(すおう=山口県東南部)への帰国によって(11月11日参照>>)、ようやく大乱に終止符が打たれる事になります。
とは言え、結局は、個々の後継者争いは、まだまだ続くんですけどね。。。
参照↓
●京極騒乱(京極の後継争い)>>
●加賀一向一揆(富樫の後継争い)>>
●畠山の後継争い>>
●畠山の後継争いで起こった山城の国一揆>>
.
「 南北朝・室町時代」カテゴリの記事
- 万人恐怖な将軍=足利義教の恐怖の始まり…一色義貫殺害事件(2025.05.15)
- 今川氏親の遠江侵攻~井伊谷の戦い(2025.04.03)
- 但馬の応仁の乱~夜久野の合戦…太田垣新兵衛の奮戦(2025.03.20)
- 戦国を渡り歩いて楠木正成の名誉を回復した楠正虎(2024.11.20)
- 生まれる前から家督争い~畠山政長の生涯(2024.04.25)
コメント