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2023年12月28日 (木)

日本史の新発見&発掘…歴史のニュース2023年総まとめ

 

色々あった2023年も、いよいよ終わりに近づきましたが、今年も様々な新発見や発掘がありました。

…てな事で、
とりあえずは一年の締めくくりとして、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
市井の歴史好きである茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 武田信玄上杉謙信と戦った川中島の戦い(参照>>)の中で信玄の書状が京都の古書店から見つかりました。
地元の武士の武功をたたえる内容の物で寺尾刑部少輔に宛てた4月25日の日付となっており(年号は不明)、出家して信玄を名乗る前の「晴信」の署名と花押が確でき、最前線で戦った地元の武士の動向がうかがい知れる貴重な史料との事。
  奈良県平城京跡奈良~平安時代の小型建物1棟が見つかりました。
Dscn2273800jpg 現場は平城宮の正門=朱雀門(参照>>)の南側に位置した古代の一等地で公的施設の存在が想定されていましたが、意外に建物規模は小さい可能性が高まりました。 
  発掘調査が進められていた鎮西山城跡(佐賀県三養基郡上峰町)で、斜面のある土地に平たん面を確保する技術を使った中世山城の高度な土木技術を示す遺構が見つかりました。
当時の築城方法が分かる非常に重要な発見との事。 
  奈良市の国内最大の円墳である富雄丸山古墳盾形銅鏡蛇行剣が見つかりました。
鏡は出土類例のない形状や文様をもった青銅製で剣は全長2m37cmの国内最大&最古となる鉄製
「古墳時代の金属工芸の最高傑作」と評価されています。
2月 高畑遺跡(福岡市博多区)で弥生時代後期前半の青銅武器「広形銅戈」の鋳型の両面が発見されました。
鋳型は表面と裏面ではさみ、間に溶かした青銅を流し込む仕組みで、セットで見つかるのは全国で初めてだそうです。
  与楽鑵子塚古墳(ようらくかんすづかこふん=奈良県高取町)の横穴式石室で確認された火の痕跡が、木棺の火葬によるものとみられる事が判明…
「渡来人が火葬という新しい文化をもってきたことを表す材料」(参照>>)との事。 
  岐阜城跡の発掘調査で織田信長が築いたとみられる天守台の石垣の一部を新たに確認(参照>>)
今回の発見で天守台の西辺の長さが約14mであることが判明し、天守の規模や構造の解明につながるとみられています。 
3月 戸ノ内古墳(茨城県東海村)から、祭祀で使われたと推測される男女それぞれ1体の古墳時代後期=6世紀ごろの作とみられる埴輪が2体が出土しました。
2体のうち男性をかたどった埴輪は、高さ39cm幅24cmで上半身をかたどっているが腕はなく目・鼻・口がくっきり表現されていると言います。
  大鳥居宇山平遺跡(山梨県)にて県内2つ目で最大規模の前方後方墳が見つかり県内の古墳の歴史を考える貴重な事例
4世紀後半から5世紀ごろに作られたとみられ、旧豊富村の記録でなくなったとされていた二子塚古墳ではないか?との事。
4月  石清水八幡宮(京都府八幡市)で、これまで知られていない織田信長の朱印状の写しが見つかりました。
日付は永禄十二年(1569年)3月=本圀寺の変(参照>>)の2ヶ月後にあたり、内容は石清水八幡宮境内にあった宿場町での軍勢による乱暴や放火など地域内での禁止事項を通知した物…信長の留守に不安を感じた住民側からの要望で制定されたと考えられるとの事。
  山形県鶴岡市にて小牧長久手の戦い(参照>>)の直後に秀吉との仲を取り持とうとした織田信雄から徳川家康に宛てた書状が発見されました。
202300430 専門家は「信雄が家康に秀吉への従属を懸命に説得しているすごい史料の発見」とし、この頃の信雄が家康に対し平和裏に秀吉に臣従するよう仲介している事がわかったとの事。
5月  鹿児島県さつま町虎居城跡で大きな石を置いた庭園と考えられる遺構が発掘されました。
専門家は「戦闘の場である山城で、文化的な施設の庭園が見つかるのは全国でも少ない。鹿児島の城の新たな側面を知る貴重な成果」と注目してい ます。 
  吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼市)弥生時代後期(2世紀後半~3世紀中頃)に作られたとみられる 石棺墓が見つかりました。
規模などから有力者が埋葬された可能性があるとみられます。
6月 大門池南遺跡(滋賀県多賀町)から平安時代初期に作られた銅銭が15枚見つかりました。
同時に役人が身につけたとされるベルトの飾りも出土したことなどから、有力者の墓と推定さています。
  日本で初めての瓦ぶき宮殿が建てられた藤原宮(奈良県橿原市)(参照>>)跡に近い日高山瓦窯新たに窯跡3基が見つかりました。
合計6基の瓦窯が並び、宮の造営初期に瓦を供給した大規模拠点とみられる窯跡では焼成部のほか、炎を起こす燃焼部、煙突に当たる煙道などがあったようです。
藤原宮の瓦と言えばコチラも→「天平人の忘れ物」参照>>
7月 国宝姫路城(兵庫県姫路市)の西側を流れる船場川沿いで、治水の役割があったとみられる外堀の石垣が見つかりました。
城下町への越水を防ぐため、堀の両側に石を積み上げて堤防を造ったとみられ、外敵の侵入を防ぐだけでなく、防災も考慮して築城したことが分かるとか 
  群馬県安中市旧安中高校敷地で飛鳥時代に畿内と東国を結んだ東山道と推定される道路遺構と、奈良時代に建てられた公的な建物跡2棟を発見されました。
市内で東山道の遺構が見つかったのは初めてです。
道路の幅は約10mで、道路の両側に幅70cm程度の側溝が掘られていたとの事で、造られたのは8世紀前半以前の飛鳥時代と見られています。
8月 明治時代に建てられた兵庫県南あわじ市福良丙の門崎(とざき)砲台跡で、大砲を守るドーム形の構造物が見つかりました。
穹窖
(きゅうこう)砲台と呼ばれる様式で、奥行きは約14mあり同式では国内最大級…当時では異例の屋根のある形式は貴重だとの事 
  ♪吾健にして十のみかんをくひつくす♪
という正岡子規(参照>>)新出句が見つかりました。
句は明治三十年(1897年)の病に伏していた時期の物ですが、まだまだ食欲旺盛で元気なことを伝える内容で、自宅を訪れた弟子や客らが一筆を寄せる「歳旦帳」と呼ばれる冊子に書かれ、たくさんのみかんの絵も添えられており、筆跡などから自筆と判断されました。
9月  世界遺産・法隆寺(奈良県斑鳩町)の参道脇の観光バス駐車場にある円形の植え込みが、6世紀後半につくられた古墳だったことが発掘調査で確認されました。
内部からは横穴式石室が見つかり、石が抜き取られていたことから、寺の建設などに再利用された可能性もあるとの事。
この形に整備された時期は不明で、一見すると普通の植え込みにしか見えなかったそうです。
  明王院(みょうおういん=広島県福山市草戸町)にて南北朝時代の1348年に建立された五重塔に、おそらく同時期にまつられたであろう本尊=木造弥勒菩薩坐像(もくぞうみろくぼさつざぞう)の頭の中から、折り畳まれた和紙のような紙の束が見つかりました。
何かが墨書されており、今後、慎重に取り出して内容を調べるとの事。 
  平安京の中枢・平安宮を構成する役所の一つである中務省(なかつかさしょう)京都市上京区)から、こぶし大の石と瓦片を詰めた地盤整備(地業)跡が出土しました。
一緒に出てきた土器などから、豊臣秀吉が平安宮内に築き、文禄四年(1595年)に廃城になった聚楽第(参照>>)築城に伴う遺構と推測されます。
10月 織田信長が築城した滋賀県安土城にて、初めてとなる天主北側の発掘調査が始まりました。
安土城は本能寺の変のあと焼失(参照>>)して全体像のわからず「幻の城」ともいわれている中で天主北側の石垣の構造の解明や、木材などの天主にかかわる遺物の発見に期待が寄せられています。
  伊勢神宮に仕える皇女(斎王)が過ごした斎宮跡(三重県明和町)にて奈良時代に建てられた宮殿の一部とみられる建物遺構が見つかりました。
斎宮跡で奈良時代の宮殿の一部が見つかるのは初めてで、発見された建物としては最大規模… 
聖武天皇の皇女=井上内親王らが住んでいた正殿の可能性が高いとの事。
  福井県越前町織田劔神社境内の杉の花遺跡平安時代末期以前の大型掘っ立て柱建物跡が見つかりました。
1辺約1.3mの方形の柱穴が等間隔に並び、神社の社殿だった可能性があるとの事。 
  古事記の編さん者の太安万侶(参照>>)の墓が安万侶の死後20年以上たってからつくられた可能性があることが明らかになりました。
研究員は「墓がつくられるまでの間、安万侶は、別の場所に埋葬されていたのではないか」とみています。
11月 室町時代の水墨画家=雪舟が国宝の「天橋立図」に描いたとみられる建物の遺構が、宮津市で見つかりました。
幅が最大およそ1mの建物の基礎に使われていた礎石が5つ見つかり、周辺で室町時代の土器なども見つかった事から、雪舟が1501年頃に描いた「天橋立図」の中の、金堂の後ろにある僧侶が生活する「僧坊」の遺構である可能性が高いとみられます。
  仙台空襲などでなくなったため、正確な位置が分かっていなかった仙台城跡大手門位置を推定する手がかりとなる遺構が発見されました。
今回、門の柱を支えるために敷き詰められたと考えられる石の跡や、大手門の周囲に掘られた側溝とみられる跡が見つかり、位置を推定する手がかりとなるとの事。
  奈良県明日香村飛鳥宮跡にて天武天皇や持統天皇の宮殿跡よりさらに古い時代の塀の跡が見つかりました。
宮殿があった場所に最初につくられた飛鳥岡本宮あすかおかもとのみや)の塀の可能性が高いと注目…
塀の跡は、天武&持統時代に東西南北を軸に建てられた建物や塀などの跡とは異なり、北東から南西の方向に建てられたとみられ、さらに古い時代のものと考えられます
  新潟県村上市にある約4000年前の縄文時代後期の集落跡=上野(かみの)遺跡で、焼けた人骨を意図的に並べて埋葬していたことが明らかになりました。
縄文人が骨を別の場所で焼き、規則正しく埋葬した事例は全国的にも珍しいと言います。
12月 福山城(広島県福山市丸之内)の天守東側から、天守北壁の防御のために張られていたとみられる鉄板が出土しました。
城内での同様の鉄板の発見は初めて。 
  今井堂天満神社(奈良市日笠町)で見つかった神社最古(寛政6年=1794年)となる絵馬の復元が完成
風化が激しくこれまで馬の絵だと思われていた絵馬に、神社ゆかりの今井兼平(参照>>)「安宅(あたか)の関(歌舞伎=勧進帳)での場面が描かれていた事が判明しました。

 

こうして見ると、今年も様々な新発見がありましたね。

個人的に気になるニュースは~

やはり国宝級の発見として大々的なニュースになった奈良県の富雄丸山古墳から出土した蛇行剣ですかね。

残念ながら、私もニュース映像しか見てませんが、かなり大きな蛇行剣でしたね~
なんとなく、神武天皇と戦った記紀神話に出て来るトミノナガスネヒコ(登美能那賀須泥毘古・長髄彦)(参照>>)が持ってるとこ想像したりなんかして(#^o^#)
(富雄だけに…)

あとは、あれだけ何度も行っておきながら、まったく気づかなかった法隆寺(参照(別窓で)>>)駐車場の古墳。。
まぁ、茶々は、基本的に社寺は徒歩で巡るタイプなので駐車場がどこにあるか?も知りませんでしたから。。。

もちろん、戦国大好きとしては織田信雄の書状や織田信長の朱印状にも興味津々!

ようやく、アレ(優勝ではありませんww)も明けて、どこにでも行けるようになったので、さすがのインドア派な茶々も、来年こそは、ぼちぼちながらもウロウロしに行かなアカンですな~

・‥…━━━☆

てな事で、今年一年やってまいりましたが、

いつも閲覧してくださる皆さま。。。

今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいませm(_ _)m

そして、来年も、よろしくお願いします
 .

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2023年12月20日 (水)

足利将軍が「流れ公方」の時代に終止符~若き足利義輝

 

天文十五年(1546年)12月20日、足利義輝が室町幕府第十三代将軍に就任しました。

・・・・・・・・

ご存知、足利尊氏(あしかがたかうじ)に始まる室町幕府将軍。。。(8月11日参照>>)

それこそ、第3代将軍の足利義満(よしみつ)の時代には、(みん=中国)からは「日本国王」と呼ばれ、朝廷から太上法皇(だいじょうほうおう=出家した上皇)の尊号を与えようかという案が出るくらいの隆盛を誇ったわけですが(5月8日参照>>)

そんな足利将軍が、いつしか「流れ公方」などと呼ばれるように・・・

そうです。
そろそろやって来る戦国=下剋上の世・・・

そもそもは、
あの応仁の乱(おうにんのらん)(5月20日参照>>)の火種の一つとなった第8代将軍=足利義政(よしまさ)の後を継いだ息子の足利義尚(よしひさ=第9代将軍)と、さらに、その後を継いだ第10代将軍の足利義稙(よしたね=義材・義尹:義尚の従兄弟)が、

将軍2人を要しても、近江(おうみ=滋賀県)にて反発する六角高頼(ろっかくたかより)という一武将すら、まともに制する事ができないという情けなさを見せてしまった明応元年(1492年)(12月13日参照>>)

おそらくは、この体たらくに計画実行を決意したであろう管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(まさもと=応仁の乱東軍総大将の細川勝元の息子)は、

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

翌明応二年(1493年)4月、足利義稙が京都にいないスキに、勝手に義稙の将軍職を廃し、自らが推す足利義澄(よしずみ=義稙の従兄弟)を11代将軍に据えちゃう明応の政変(めいおうのせいへん)(4月22日参照>>)をやってのけたのです。

管領とは、足利尊氏の側近だったあの高師直(こうのもろなお)(2月26日参照>>)にはじまる執事(しつじ)の事で、上記の通り将軍の補佐役です。

ところが、その補佐役であるはずの政元が、上役である将軍を自身の意のままに交代させたわけですから、まさに下剋上。。。

出陣していた戦には負けるわ、政元に京都を掌握されるわ…で、京都に戻れなくなった義稙は、諸国を巡りつつ、味方になってくれる武将を見つけては上洛して都奪回を目指す事になるわけですが、

そう…これこそ「流れ公方」、、、その時々に自身を担ぎ上げてくれる武将の威勢や勝ち負けによって、将軍が都を奪回したり、はたまた追われたちする事になってしまうのです。
  ●足利義稙×細川政元~宇治木幡合戦>>

さらにそんな中で、実子がいなかった細川政元が、その後継者と目される3人の養子同士=細川澄元(すみもと)細川澄之(すみゆき)細川高国(たかくに)の争いの中で、そのうちの1人=澄之を推す家臣に殺害されるという(6月23日参照>>)、これまた下剋上の至り・・・

…で、この政元の死をチャンスと見た前将軍の足利義稙が、大内義興(おおうちよしおき)を後ろ盾に上洛して来た事で、足利義澄は将軍職を廃され、足利義稙が将軍に返り咲き。。。

しかしそんな義稙も、政元の後継者争いの中でトップに立った(5月5日参照>>)細川高国との関係が険悪になった事で京都と追われ、代わりに、この高国推しで第12代将軍となるのが足利義晴(よしはる=第12代将軍)でした。

しかし享禄四年(1531年)に、これまた高国が、上洛して来た澄之の遺児である細川晴元(はるもと=政元の養子の澄元の息子)に敗れ(6月8日参照>>)

最終的に細川政元の後継者の地位(細川京兆家)を奪取した晴元が推す足利義維(よしつな=義晴の弟)堺公方(さかいくぼう)(【幻の堺幕府】参照>>)に擁立されたため、義晴は将軍という地位のまま、近江へと逃れる事になってしまいました。

しかし、そんなこんなの天文十五年(1546年)秋、これまで細川晴元の家臣として京都を奪回しようとする高国の養子=細川氏綱(うじつな)を追い払っていた晴元家臣の三好長慶(みよしながよし)が、なんと!敵対する細川氏綱方に寝返ったのです(9月14日参照>>)

その要因は、もともと晴元が三好長慶の父の仇であった事もあり、しかも、ここに来て晴元は、自らが推していた義維を見捨て、未だ(名目上ではあるものの)将軍の地位を保っている義晴推しに乗り替えた事もあったかも知れません。

とにもかくにも、
こうして、三好長慶と相対する事となり、近江へと逃れた細川晴元は、敵の敵は味方とばかりに足利義晴と和睦。。。

Asikagayositeru600ats そんな天文十五年(1546年)12月20日、未だ11歳…この近江の地にて元服した足利義輝(よしてる=義藤)が、

父=義晴から将軍職を譲られ、第13代室町幕府将軍となったのです。

こうして、将軍の座は息子に託したとは言え、未だヤル気満々の義晴は、慈照寺(じしょうじ=京都市左京区=銀閣寺)の裏手の山に中尾城(なかおじょう)を、
北白川(きたしらかわ=京都府京都市左京区北白川)にあった城郭を改修して将軍山城(しょうぐんやまじょう=北白川城・瓜生山城・勝軍地蔵山城とも)を構えて三好勢に抵抗しますが、

天文十八年(1549年)6月の江口(えぐち=大阪府大阪市東淀川区)の戦いで三好勢に敗れ、またまた近江に戻っていた天文十九年(1550年)5月に、志半ばで死去してしまいます。

父の死を受けて、名実ともに足利将軍家のトップとなった足利義輝は、父が残した中尾城にて、家臣たちを前にして大きく宣言するのです。

「昔の人は『父の仇とは共に日月の光を戴かず』と言う。
俺は、君らと志を一つにして大敵と戦い、軍功を勝ち取る!
もし勝つ事ができないとしても、この命を父やご先祖に捧げ、
屍になろうとも、一歩たりとも退かぬ!」『萬松院殿穴太記』より

未だ15歳にして、この堂々たる姿に城内の者は皆、勇み立ち、
「天晴れなる大将!」
と、その命を賭けるに値する人物であると喜んだのです。

その後、義晴の死のドタバタで、未完成のままになっていた中尾城を、三重の堀で固め、間に石を入れた二重の壁にし、来たるべき鉄砲での戦いを想定した造りにした義輝。。。

この、わずか1ヶ月後の7月に起こった敵との小競り合いには、義輝側の兵(実質は晴元の兵ですが…)が放った鉄砲によって、三好勢の与力を討っています(『言継卿記』)、これが、日本の戦国時代にて鉄砲が実践に使用された事がわかる初記録だとか。。。

まさに、お飾りではない戦う将軍だった足利義輝

とは言え、今や絶頂期の三好長慶・・・そう簡単には京都を奪回させてはくれません。

このあと、義輝は何度か長慶と戦い、やがて京都に戻る事になり、ようやく「流れ公方」から脱出するのですが、それらのお話は、チョコチョコ書いておりますので↓のページで…

 ●白川口(北白川)の戦い>>
 ●足利義輝~京都奪回作戦の日々>>
 ●義輝が朽木へ~志賀の戦い>>
 ●将軍地蔵山の戦い>>
 ●戦国初の天下人…三好長慶の死>>
 ●足利義輝の壮絶最期>>

そして時代は、義輝の弟=足利義昭(よしあき)と、その義昭を担ぐ織田信長(おだのぶなが)の時代となります。
 その後のお話は【安土の時代年表】>>からどうぞ
 .

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2023年12月18日 (月)

大河ドラマ「どうする家康」最終回を見ての感想まとめ

 

いやはや~とうとう終わりましたね~
大河ドラマ「どうする家康」

このブログでは、毎年、「オモシロイと思う時こそ、多くの感想を書くパターン」になってますので、お察しかとは思いますが、今回は、
最初に感想を書いた1~2回、
次に書いた3~6回のあとは、
もう、一つ一つを言い出したらキリがなく、何が何だかわからない事になってしまって、X(旧ツイッター)でつぶやく人になってしまいました(笑

Ieysunagarebata 最初の感想ページで書いた
「これは新しい大河のための実験なの?」
の感想が、結局、そのまんま最後まで続きました。
(1~2回の感想を見る>>)

まるで別の国の人が作ったような風景や衣装。。。

さらに、
キーワードだけでAIが勝手に作成したような構造的にありえない建物や、
カメラの目線とは別の目線から見たような背景に、

動物愛護なのでと
メリーゴーランドのように走るCG馬、
エキストラいらずの同じ姿の多数のCG従者に
蛇行するCG行軍…等々。

この先の時代劇の作り方を実験されている?ようにも思いました。

何年か前の「天地人」でも、
セットも何もない広いスタジオでスポットが当てられた俳優さんが単身で演技されるような場面や、
そこだけ土盛って花壇のようになってる花の前で立ち回りされていた場面があり、
それも実験なのかな?って思ったりしたこともありました。

なので様々な演出も、そういう事なのだと思いますが、それこそ3~6回の感想で書かせていただいたように(3~6回の感想を見る>>)
「それが史実なのだ」
と思っちゃう人がいるのが「大河ドラマ」という枠だと思います。

ファンタジーならフャンタジーと銘打っていただかないと・・・

現に、あの不思議なローソクテーブルを見て
「あの時代、ローソクをいっぱい立てて会議とかしてたんだね~勉強になった」
みたいなSNSの書き込みを見た事もあります。

これは、やはり歴史好きとしては悲しい。。。。

あのローソクいっぱいテーブルも、
真田の上田城に無意味に垂れ下がる布も、
異常に長い陣羽織の裾をヒラヒラさせて闊歩するのも、
最終回に出て来た燭台だらけの部屋も、

全部、中国時代劇で頻繁に見る演出ですよね?

そこは、やはり、日本の伝統的な物でやっていただきたいです(もちろん風景も)

あと、脚本家様が、
「本当の歴史は誰にもわからないのだから、もっと自由な発想して良いと思う」
(↑コレ歴史学者や歴史好きにはけっこうキツイ言葉だと思うけどww)
とおっしゃっておられ、かなり自由な発想で創作を入れ込んでおられました。

もちろん、個人的にはドラマは創作物なので、それでも良いと思う派なのですが、それならそれで、その自由な発想を貫いていただいたなら前後のストーリーもスムーズにつながる所を、
なぜか、チョイチョイ(おそらくは時代考証の先生方などから教わった)新説やマニアックな史実をお挟みになる。。。

そのために、
キャラクターの性格が急変したり、
身内が死んで泣き崩れていた人が次週には何事も無かったかのようにウキウキしていたり、
それまで1mmも言って無かった出来事が回想として購入されたりして、
視聴者が戸惑う展開になってしまう事もしばしば…

一方で、自由な発想としておきながら、結局、講談由来の(現在では)創作だとされる定番ストーリーに落ち着いてた部分もありましたし

また、家康さんは主役なので、モテモテで清廉潔白な人物として描かれる事もアリだと思いますが、そのために敵対する人物が貶められるのは、歴史好きとしてはツライです。

主役を演じられた中の人が絶大な人気のあるアイドルなのは重々承知ですが、大河ドラマという、登場人物が架空の人物ではないドラマを見ている視聴者には、外の人(歴史上の人物)が大好きな人も大勢いるのですよ。

自分の「推し」が嫌なキャラクターにされる悲しみは、中の人のファンも外の人のファンも同じだという事を、どうかこの先の作り手さんは、チョコッとだけでも気に留めていただきたいとお願い申し上げます。

それこそ戦国時代は、それぞれの立場や生き方によって、敵対する人物が「すべてに悪」という事は少ないはず・・・ガンダムの、あの赤い彗星のように、カッコイイ悪役もアリだし、

昨年のように、純粋な若者だった主人公が、悩みながら闇落ちしていくさまも見ごたえがあると思います。

世界広しと言えど、日本の歴史は特別です。

西洋ユーラシアも、ほとんどが戦いの勝敗によって国が変わり、王が代り、民族が変わっていますが、日本だけは違います。

史書が皆無な縄文や弥生はともかく、それ以降は、その時々で多少の政権交代や領域の変化はあれど(米さんの占領の時もあったしね)、主軸は一貫して同じ王家を冠にし、現在まで脈々と続く1本の歴史を持っています。

そこが、歴史ドラマを造るうえで発想の飛ばし方が難しいところではありますが、それ無しではやっていけない事も確かだし、大河ドラマという枠は、そういう枠のドラマだと個人的には思います。

もちろん、作り手の方は
「そこを変えたいんじゃ!」
と思っておられるのかも知れませんが(笑

とにもかくにも歴史大好き茶々は、これまでもず~っと大河を視て来たし、これからもず~と視ると思います。

この先も、楽しくオモシロく、感動的な作品に出会える事を願っております。

「どうする家康」の出演者の皆さま&スタッフの皆さま、1年間お疲れさまでした~そして、ありがとうございましたm(_ _)m
 .

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2023年12月12日 (火)

森山崩れに乗じて三河侵攻~織田信秀の井田野の戦い

 

天文四年(1535年)12月12日、松平清康の死を知って岡崎に攻め寄せた織田信秀と、迎え撃つ松平勢による井田野の戦いがありました。

・・・・・・・

室町幕府公認の尾張(おわり=愛知県西部)守護(しゅご=現在の県知事みたいな?)斯波氏(しばし)・・・

…で、その守護代(しゅごだい=副知事)織田氏(おだし)なのですが、その織田も複数いて、戦国時代に斯波氏の重臣として守護代を継承していたのは清洲城(きよすじょう=愛知県清須市)を居城とした織田大和守家(おだやまとのかみけ=清洲織田家)でした。

ご存知、織田信長(おだのぶなが)の父ちゃんとして知られる織田信秀(のぶひで)は、そんな織田大和守家に仕え清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)と称された家老の家柄である織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の当主である織田信定(のぶさだ)の息子でした。

つまり…尾張の中でも、その立ち位置は、未だ上には上がある状態だったわけです。

そんな中、戦国も後半になって斯波氏の力が衰えはじめ、さらに大永年間(1521年~1528年)に入って駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する今川氏親(いまがわうじちか=今川義元の父)が台頭する(6月21日参照>>)ようになると尾張領に那古野城(なごやじょう=愛知県名古屋市中区)を建てられ、そこを今川の一族が支配するほどの勢いになって来てしまいます。

しかも…
今川に侵攻されるわ、織田家内でも主従がワチャワチャするわ…な状態の中、享禄二年(1529年)に三河(みかわ=愛知県東部)を統一した松平清康(まつだいらきよやす=徳川家康の祖父)(5月28日参照>>)いよいよ尾張に侵攻して来るようになるのです。

とは言え、一方で、
勝幡城(しょばたじょう=愛知県稲沢市)を居城とする織田信秀は津島神社(つしまじんじゃ=愛知県津島市)の門前町=津島と、伊勢湾近くの木曽川に面した港を領していた事で、経済的にはかなり優位だったおかげで、この頃にはその力も、徐々に主家を凌ぐようになって来ていた事も確かでした。

そんなこんなの天文四年(1535年)12月、松平清康が信秀の弟=織田信光(のぶみつ)の守る守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)攻めて来たのです。

一説には、今回の松平清康の守山攻めは、どんどん強くなっていく織田信秀を警戒して、この頃には敵対関係となっていた織田寛故(とおもと=藤左衛門家:清洲三奉行の一つ)を支援するための出兵とも言われます。

その意図はともかく、攻めて来られた以上、信秀としても
「なんとか、せねば!」
となっていたわけですが…

ところが、この守山攻めでの陣中にて、松平家臣の阿部定吉(あべさだよし)の息子であった阿部正豊(あべまさとよ)が、
「父の謀反が疑われている」
と焦り、主君の松平清康を斬殺してしまうのです。

世に「森山崩れ(もりやまくずれ=守山崩れ)と呼ばれる松平清康の死。。(12月5日参照>>)

未だ25歳の現役バリバリ…
しかも、その日に守山城を攻め落とせなかった事で、
「明日は必ず!」
と、攻撃態勢のまま夜営を張った陣で起こった出来事でした。

『常山紀談』によると、
たまたま現場に居合わせた植村氏明(うえむらうじあき)なる武将が、すぐさま阿部正豊を討ち取り、異変を知って集まった者たちが動揺する中で、

「敵は斬って捨てたので、もう思い残す事も無い。
あとは腹を切って殿のお供をさせていただこう」
と、植村が自決の覚悟を語ったところ、

集まって来た家臣の中の一人が、
「たまたま君が側にいたから幸運にも敵を討ち取る手柄をたてる事ができたけど、
俺かて、お側にいたなら同じようにしたやろうし、自決の覚悟も君に引けは取らん。

けど、俺はまだ主君の後を追う事はせん。
なぜなら、俺はもうすぐ死ぬやろうから、ここで無意味な自決はせん!」
と言い放ったのです。

すかさず植村が、
「もうすぐ死ぬって?どういう事?」
と尋ねると、その武士は
「殿様が、ここでこうなった以上、それを聞きつけた織田は必ず、軍勢を率いて本城の岡崎を攻めて来るやろう。
俺は、その時に一矢報いたい。
俺が死ぬのは、その時やと思う。
もちろん、主君への忠義に示し方は人それぞれやから、君の自決を無理やり止めようとも思わんけどな」

それを聞いた植村は
「まったく、その通りや!ほな俺も…」
深く感服し、自決は思いとどまったのです。

こうして、
ほどなく守山城の包囲を解いた松平の諸将は、粛々と岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)へと戻っていったと言います。

果たして、松平清康の死から1週間後の
天文四年(1535年)12月12日、殿様の死をチャンスとみた織田信秀が、8000の軍勢を率いて岡崎に攻め入って来たのです。

「森山崩レテ十日モ過ギザルニ
 小田之弾正(織田信秀の事)之中
 三河エ打出
 大拾(樹)寺ニ旗ヲ立ル」『三河物語』より)

一方の松平勢・・・

この時、主君の訃報を聞いて離反する者が数知れず・・・

なんなら、一族の松平信定(のぶさだ=安祥松平家)までもが、救援の兵を出すどころか、自身の城に籠って成り行きを静観する始末だったとか。

そのため、先の戦いから戻った者も含め、岡崎の城兵は、わずかに800人ほどでした。

籠城ではなく、打って出る作戦を固めた彼らは、清康の遺児=竹千代(たけちよ=後の松平広忠:家康の父)に別れの挨拶を済ますと、一同にドッと泣き叫びながら城を後にし、二手に分かれて井田(いだ=愛知県岡崎市鴨田町)の向こうに打って出たのです。

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「井田野の戦い位置関係図」↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

このあたりは野原を行く上道が1本、田の間を行く下道が1本あり、二手に分かれた兵は、その両方に布陣して、織田勢を待ち構えますが、そこに、やはり織田勢も上道と下道の二手に分かれてやって来るのが見えます。

命懸け覚悟の松平勢とは言え、さすがに多勢に無勢・・・10倍の兵を相手にしては、まともに戦う事もできず、上道の兵が、またたく間に全滅してしまいます。

しかし、この時、下道の守りについていた植村氏明が、下道から先陣を切って斬り進み、下道から上道へと押し上げ、勇敢にも野原の敵兵を追い払っていきます。

やがて
この決死の戦いぶりに、とうとう織田勢はバラバラになって逃げ始めました。

実はこの時、決死の覚悟の松平勢に神が味方したのか?
伊賀八幡宮(いがはちまんぐう=愛知県岡崎市伊賀町)鳥居が六尺(約180cm)ほど敵方に向かって動いたとか、

宝殿の方向から白羽の矢が敵の頭上に降って来た…とか、、、

さすがにそれは~ありえんやろけど(^o^;)
ただ、見物人にはそう見えたらしい

まぁ、実際のところは、全員殉死の覚悟で挑んでいた松平勢に対し、織田勢は、相手の数の少なさに、最初から敵をナメてかかり、大した隊列も組まぬまま、思い思いに動き回っていたせいで、
必死の相手にやり込められてビビッてるうちに、右往左往しながら逃げ始めた
…って感じのようです。

とにもかくにも、織田信秀は10倍の大軍を擁しながら、この井田野合戦にて手痛い敗北を喰らってしまうのです。

この時、未だ25歳の信秀・・・その若い所見せてしまったようですね。

とは言え、この戦いの前後には(天文元年(1532年)説と天文7年(1538年)説があるので…)今川氏豊(いまがわうじとよ=義元の弟?)から、あの那古野城を調略にて奪い取っています(2月11日参照>>)ので、若いとは言え、なかなか隅に置けません。

…で、一方の松平は・・・
これをキッカケに敵に回った松平信定に、やがて岡崎城を占拠され、竹千代=松平広忠(ひろただ)は、やむなく流浪の旅に出る事になります(3月6日参照>>)

松平清康のさらにご先祖=松平親忠(ちかただ)が戦った明応の井田野の戦いコチラから>>どうぞm(_ _)m
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2023年12月 4日 (月)

若き日の藤原道長~橘淑信拉致事件

 

永延二年(988年)12月4日、友人が受けた官人採用試験に手心を加えてもらおうとする藤原道長が、試験官の橘淑信を拉致しました。

・・・・・・・・

この先、その七光りを背負ってなんだかんだと暴力沙汰を起こしたおす息子たちを叱責する父ちゃんとなる藤原道長(ふじわらのみちなが)ですが、
 ★事件の数々…参照↓
  【能信の牛車暴行】>>
  【藤原頼行が藤原能信の従者を殺害】>>
  【強姦未遂から殺人に…】>>
  【藤原能信&教通兄弟ゲンカで家壊す】>>
  【津守の桜がほしい藤原頼通】>>
  【賀茂祭の見物場所の取り合い】>>

Fuziwaranomitinaga300a なんのなんの…若き日の道長さんも、色々ヤラかしちゃってるじゃぁ、あ~りませんか!

って事で、本日は若き日の藤原道長さんのお話をしようと思うのですが~実のところ、道長さんの若い頃の記録は、さほど多くないのです。

…というのも、
そもそもは、道長の祖父の藤原師輔(もろすけ)が、右大臣(うだいじん)時代に、時の天皇である村上天皇(むらかみてんのう=第62代)に長女の安子(あんし・やすこ)中宮(ちゅうぐう=天皇の妻・皇后と同格または次)として送り込み、その安子が後の冷泉天皇(れいぜいてんのう=第63代)円融天皇(えんゆうてんのう=第64代)となる皇子を出産した事から、

その外戚(がいせき=天皇の母親の親族)として朝廷内での立場が優位になり、本来なら藤原北家(ふじわらほっけ=藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系)嫡流(ちゃくりゅう=本流)だった小野宮流(おののみやりゅう=師輔の兄・実頼の流派)よりも師輔の家系である九条流(くじょうりゅう)の方が力を持つようになる中で、

やがて摂政(せっしょう=幼少の天皇の補佐役)太政大臣(だじょうだいじん=朝廷の最高権力者)だった藤原実頼(さねより=師輔の兄)が天禄元年(970年)に亡くなると…その息子ではなく、藤原師輔の息子である藤原伊尹(これただ・これまさ=師輔の長男)摂政に就任したのです。

この時、すでにこの世を去っていた藤原師輔が生涯なれなかった摂政にです・・・まさに(将来の)外戚の威力!

Fuziwarasikeizumitinagavskoretika5 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

ところが、その藤原伊尹がわずか2年後に死去してしまったため、次男の藤原兼通(かねみち)との争いに勝った三男の藤原兼家(かねいえ)関白(かんぱく=成人した天皇の補佐役)に就任したのです。

ただこの後、今回の後継者争いの影響で、一時は、関白の座を小野宮流に譲る場面もありました。

しかし、それを跳ね除け、再び兼家は右大臣に返り咲き、次女の詮子(せんし・あきこ)が円融天皇の女御(にょうご=天皇の妻・中宮の下)となって、天元三年(980年)に懐仁親王(やすひとしんのう=後の一条天皇)を産んだ事から、再び外戚パワー炸裂でのし上がって行くのです。

とは言え、藤原道長は、この兼家の五男という立場であった事から、有力な兄たちの影に隠れた目立たない存在だったのです。

この同じ天元三年(980年)の15歳の時に、何とか従五位下(じゅごいげ=貴族の最下位)に叙されて右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ=護衛係の次官)に滑り込んでます。

そんな中、円融天皇が花山天皇(かざんてんのう=第65代)譲位(じょうい=天皇交代)して、詮子の産んだ懐仁親王が皇太子に立てられると、兼家としては一刻も早く我が孫に天皇を継がせたくなって来るわけで・・・

こうしてヤラかしたのが寛和二年(986年)の寛和の変(かんなのへん)という事件(事件…と呼べるのかな?)

ラブラブだった女御の藤原忯子(しし・よしこ=藤原為光の娘)を亡くして傷心気味の花山天皇を、兼家の三男である藤原道兼(みちかね)が突然誘い出し、そのまま即日出家させてしまうのです。 

しかも兼家父子を信頼しきっていた花山天皇は、大事な三種の神器(さんしゅのじんき=天皇即位の証である宝物:八咫鏡&草薙剣&八尺瓊勾玉)を皇太子の居所に預けての出家。。。

「僕と一緒に出家しましょう」
と言って、ともに内裏(だいり=天皇の居所)を後にした道兼が、
「とりあえず、オヤジに出家の許可もろて来ま~す」
と言って去ったまま、いつまでも帰って来ない事で、
「しもた~!(≧ヘ≦)」
と思った花山天皇ですが、時すでに遅し…(くわしくは2月8日の後半部分参照>>)

もちろん、内裏を出ちゃった天皇は天皇でなくなり、次期天皇は皇太子の懐仁親王一条天皇(いちじょうてんのう=第66代)です。

かくして天皇の外祖父となった兼家は摂政をゲット

ここから兼家の息子たちは猛烈なスピードで出世していくのです。

当然、道長も、
永延元年(987年)には従三位(じゅさんみ=位階の3番目:ここから上が公卿)に叙されて左京大夫(うきょうのだいぶ=都の西側の所司代長官)に…さらに翌永延二年(988年)の正月には、一足飛びで権中納言(ごんのちゅうなごん=本来は参議を何年か務めてから)に抜擢されます。 

今回のお話は、ちょうどこの頃・・・すでに前年に左大臣=源雅信(みなもとのまさざね)の娘である倫子(りんし・みちこ)を正室に迎え、おそらく、この直前には長女の彰子(あきこ・しょうし)が誕生していた事でしょう。

未だ25歳とは言え、一応妻子持ちの道長が…ですよ!

仲良くしている友人が受けた式部省(しきぶしょう=人事部)官人採用試験の結果を改ざんさせようとしたわけです。

もちろん、これまで書いて来た通り、道長のように自身の家柄が良ければ、親の七光りを輝かせながら、難なく出世できるわけですが、これが、あまりパッとしない家柄のお子たちにとっては、この官人採用試験にて好成績を残す事が、出世への足掛かりとなる事が多かったのです。

…て事は、この時の友人とされる甘南備永資(かんなびのながすけ)という人は、そんなに良いトコの坊ちゃんでは無かったのかな?

とにもかくにも、そんな永資クンのためにひと肌脱ぐ~と決めた道長。。。

永延二年(988年)12月4日に、当時、試験官であった橘淑信(たちばなのよしのぶ)を、
「拉致して来い!」
と従者たちに命令。。。

屈強な従者たちに襲われた橘淑信は、なんと!自分の足で大路を歩いて、道長の邸宅に連れて来られたのです。

以前も書きましたが、この時代、貴族の部類に入る御仁は、例え罪人であっても牛車で連行されるのが常・・・その足で道を歩かされるなんて事は、それだけで屈辱なのです。

そんな恥ずかしい思いをさせられながら道長の邸宅に来た橘淑信に、道長は
「俺の友達やねん!忖度せんかい!」
と迫ったらしいですが、

ここまで大っぴらに、橘淑信に大路を歩かせた事が仇に。。。

そうです。
あまりに派手にやり過ぎたために、この一件がニュース速報として朝廷内を駆け巡り、またたく間に父の兼家の知るところとなったのです。

さすがに御大兼家は、
「カッコ悪いこと、すな!」
と怒り爆発(ー_ーメ)

道長は父からの叱責を受け、こってり絞られたのだとか・・・

…って、叱責されただけかい!
それ以上のお咎め無しなん?

さすがは七光り浴びまくり坊ちゃん。。。

ま、令和の時代に公邸で宴会した人も、はじめは父ちゃんからの「きつく叱責」で終わろうとしてはったみたいやから、世の中、今も昔も、そんなもんなんでしょうな~
知らんけど┐ (´д`)┌ヤレヤレ ┐
 .

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