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2023年12月 4日 (月)

若き日の藤原道長~橘淑信拉致事件

 

永延二年(988年)12月4日、友人が受けた官人採用試験に手心を加えてもらおうとする藤原道長が、試験官の橘淑信を拉致しました。

・・・・・・・・

この先、その七光りを背負ってなんだかんだと暴力沙汰を起こしたおす息子たちを叱責する父ちゃんとなる藤原道長(ふじわらのみちなが)ですが、
 ★事件の数々…参照↓
  【能信の牛車暴行】>>
  【藤原頼行が藤原能信の従者を殺害】>>
  【強姦未遂から殺人に…】>>
  【藤原能信&教通兄弟ゲンカで家壊す】>>
  【津守の桜がほしい藤原頼通】>>
  【賀茂祭の見物場所の取り合い】>>

Fuziwaranomitinaga300a なんのなんの…若き日の道長さんも、色々ヤラかしちゃってるじゃぁ、あ~りませんか!

って事で、本日は若き日の藤原道長さんのお話をしようと思うのですが~実のところ、道長さんの若い頃の記録は、さほど多くないのです。

…というのも、
そもそもは、道長の祖父の藤原師輔(もろすけ)が、右大臣(うだいじん)時代に、時の天皇である村上天皇(むらかみてんのう=第62代)に長女の安子(あんし・やすこ)中宮(ちゅうぐう=天皇の妻・皇后と同格または次)として送り込み、その安子が後の冷泉天皇(れいぜいてんのう=第63代)円融天皇(えんゆうてんのう=第64代)となる皇子を出産した事から、

その外戚(がいせき=天皇の母親の親族)として朝廷内での立場が優位になり、本来なら藤原北家(ふじわらほっけ=藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系)嫡流(ちゃくりゅう=本流)だった小野宮流(おののみやりゅう=師輔の兄・実頼の流派)よりも師輔の家系である九条流(くじょうりゅう)の方が力を持つようになる中で、

やがて摂政(せっしょう=幼少の天皇の補佐役)太政大臣(だじょうだいじん=朝廷の最高権力者)だった藤原実頼(さねより=師輔の兄)が天禄元年(970年)に亡くなると…その息子ではなく、藤原師輔の息子である藤原伊尹(これただ・これまさ=師輔の長男)摂政に就任したのです。

この時、すでにこの世を去っていた藤原師輔が生涯なれなかった摂政にです・・・まさに(将来の)外戚の威力!

Fuziwarasikeizumitinagavskoretika4 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

ところが、その藤原伊尹がわずか2年後に死去してしまったため、次男の藤原兼通(かねみち)との争いに勝った三男の藤原兼家(かねいえ)関白(かんぱく=成人した天皇の補佐役)に就任したのです。

ただこの後、今回の後継者争いの影響で、一時は、関白の座を小野宮流に譲る場面もありました。

しかし、それを跳ね除け、再び兼家は右大臣に返り咲き、次女の詮子(せんし・あきこ)が円融天皇の女御(にょうご=天皇の妻・中宮の下)となって、天元三年(980年)に懐仁親王(やすひとしんのう=後の一条天皇)を産んだ事から、再び外戚パワー炸裂でのし上がって行くのです。

とは言え、藤原道長は、この兼家の五男という立場であった事から、有力な兄たちの影に隠れた目立たない存在だったのです。

この同じ天元三年(980年)の15歳の時に、何とか従五位下(じゅごいげ=貴族の最下位)に叙されて右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ=護衛係の次官)に滑り込んでます。

そんな中、円融天皇が花山天皇(かざんてんのう=第65代)譲位(じょうい=天皇交代)して、詮子の産んだ懐仁親王が皇太子に立てられると、兼家としては一刻も早く我が孫に天皇を継がせたくなって来るわけで・・・

こうしてヤラかしたのが寛和二年(986年)の寛和の変(かんなのへん)という事件(事件…と呼べるのかな?)

ラブラブだった女御の藤原忯子(しし・よしこ=藤原為光の娘)を亡くして傷心気味の花山天皇を、兼家の三男である藤原道兼(みちかね)が突然誘い出し、そのまま即日出家させてしまうのです。 

しかも兼家父子を信頼しきっていた花山天皇は、大事な三種の神器(さんしゅのじんき=天皇即位の証である宝物:八咫鏡&草薙剣&八尺瓊勾玉)を皇太子の居所に預けての出家。。。

「僕と一緒に出家しましょう」
と言って、ともに内裏(だいり=天皇の居所)を後にした道兼が、
「とりあえず、オヤジに出家の許可もろて来ま~す」
と言って去ったまま、いつまでも帰って来ない事で、
「しもた~!(≧ヘ≦)」
と思った花山天皇ですが、時すでに遅し…(くわしくは2月8日の後半部分参照>>)

もちろん、内裏を出ちゃった天皇は天皇でなくなり、次期天皇は皇太子の懐仁親王一条天皇(いちじょうてんのう=第66代)です。

かくして天皇の外祖父となった兼家は摂政をゲット

ここから兼家の息子たちは猛烈なスピードで出世していくのです。

当然、道長も、
永延元年(987年)には従三位(じゅさんみ=位階の3番目:ここから上が公卿)に叙されて左京大夫(うきょうのだいぶ=都の西側の所司代長官)に…さらに翌永延二年(988年)の正月には、一足飛びで権中納言(ごんのちゅうなごん=本来は参議を何年か務めてから)に抜擢されます。 

今回のお話は、ちょうどこの頃・・・すでに前年に左大臣=源雅信(みなもとのまさざね)の娘である倫子(りんし・みちこ)を正室に迎え、おそらく、この直前には長女の彰子(あきこ・しょうし)が誕生していた事でしょう。

未だ25歳とは言え、一応妻子持ちの道長が…ですよ!

仲良くしている友人が受けた式部省(しきぶしょう=人事部)官人採用試験の結果を改ざんさせようとしたわけです。

もちろん、これまで書いて来た通り、道長のように自身の家柄が良ければ、親の七光りを輝かせながら、難なく出世できるわけですが、これが、あまりパッとしない家柄のお子たちにとっては、この官人採用試験にて好成績を残す事が、出世への足掛かりとなる事が多かったのです。

…て事は、この時の友人とされる甘南備永資(かんなびのながすけ)という人は、そんなに良いトコの坊ちゃんでは無かったのかな?

とにもかくにも、そんな永資クンのためにひと肌脱ぐ~と決めた道長。。。

永延二年(988年)12月4日に、当時、試験官であった橘淑信(たちばなのよしのぶ)を、
「拉致して来い!」
と従者たちに命令。。。

屈強な従者たちに襲われた橘淑信は、なんと!自分の足で大路を歩いて、道長の邸宅に連れて来られたのです。

以前も書きましたが、この時代、貴族の部類に入る御仁は、例え罪人であっても牛車で連行されるのが常・・・その足で道を歩かされるなんて事は、それだけで屈辱なのです。

そんな恥ずかしい思いをさせられながら道長の邸宅に来た橘淑信に、道長は
「俺の友達やねん!忖度せんかい!」
と迫ったらしいですが、

ここまで大っぴらに、橘淑信に大路を歩かせた事が仇に。。。

そうです。
あまりに派手にやり過ぎたために、この一件がニュース速報として朝廷内を駆け巡り、またたく間に父の兼家の知るところとなったのです。

さすがに御大兼家は、
「カッコ悪いこと、すな!」
と怒り爆発(ー_ーメ)

道長は父からの叱責を受け、こってり絞られたのだとか・・・

…って、叱責されただけかい!
それ以上のお咎め無しなん?

さすがは七光り浴びまくり坊ちゃん。。。

ま、令和の時代に公邸で宴会した人も、はじめは父ちゃんからの「きつく叱責」で終わろうとしてはったみたいやから、世の中、今も昔も、そんなもんなんでしょうな~
知らんけど┐ (´д`)┌ヤレヤレ ┐
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コメント

この記事の内容が来年の大河ドラマでも取り上げられるかな?
結局、渦中の甘南備さんはその後どうなりました?

投稿: えびすこ | 2023年12月 5日 (火) 09時54分

えびすこさん、こんばんは~

このお話は藤原実資の『小右記』にある出来事なのですが、「父ちゃんに叱責された」で話が終わってるので、甘南備さんのその後はわかりません。

怒られたって事は=忖度できなかった…って事じゃないですかね?

来年の大河での藤原実資の役はロバートの秋山さんなので描かれるかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2023年12月 6日 (水) 03時44分

「光る君へ」が始まって、改めてこの記事を見た際に気が付いたのですが、「藤原氏系図」の中に名前のある藤原敦敏(藤原頼忠の兄弟)はwikipediaで調べてみたら摂政・関白にはなっていないようです。

投稿: えびすこ | 2024年1月16日 (火) 21時39分

えびすこさん、こんばんは~

アラッ!ホントだw
文字が赤くなってますね~

気づいてませんでした(#^o^#)
ありがとうございます

投稿: 茶々 | 2024年1月17日 (水) 02時42分

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