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2023年12月20日 (水)

足利将軍が「流れ公方」の時代に終止符~若き足利義輝

 

天文十五年(1546年)12月20日、足利義輝が室町幕府第十三代将軍に就任しました。

・・・・・・・・

ご存知、足利尊氏(あしかがたかうじ)に始まる室町幕府将軍。。。(8月11日参照>>)

それこそ、第3代将軍の足利義満(よしみつ)の時代には、(みん=中国)からは「日本国王」と呼ばれ、朝廷から太上法皇(だいじょうほうおう=出家した上皇)の尊号を与えようかという案が出るくらいの隆盛を誇ったわけですが(5月8日参照>>)

そんな足利将軍が、いつしか「流れ公方」などと呼ばれるように・・・

そうです。
そろそろやって来る戦国=下剋上の世・・・

そもそもは、
あの応仁の乱(おうにんのらん)(5月20日参照>>)の火種の一つとなった第8代将軍=足利義政(よしまさ)の後を継いだ息子の足利義尚(よしひさ=第9代将軍)と、さらに、その後を継いだ第10代将軍の足利義稙(よしたね=義材・義尹:義尚の従兄弟)が、

将軍2人を要しても、近江(おうみ=滋賀県)にて反発する六角高頼(ろっかくたかより)という一武将すら、まともに制する事ができないという情けなさを見せてしまった明応元年(1492年)(12月13日参照>>)

おそらくは、この体たらくに計画実行を決意したであろう管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(まさもと=応仁の乱東軍総大将の細川勝元の息子)は、

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

翌明応二年(1493年)4月、足利義稙が京都にいないスキに、勝手に義稙の将軍職を廃し、自らが推す足利義澄(よしずみ=義稙の従兄弟)を11代将軍に据えちゃう明応の政変(めいおうのせいへん)(4月22日参照>>)をやってのけたのです。

管領とは、足利尊氏の側近だったあの高師直(こうのもろなお)(2月26日参照>>)にはじまる執事(しつじ)の事で、上記の通り将軍の補佐役です。

ところが、その補佐役であるはずの政元が、上役である将軍を自身の意のままに交代させたわけですから、まさに下剋上。。。

出陣していた戦には負けるわ、政元に京都を掌握されるわ…で、京都に戻れなくなった義稙は、諸国を巡りつつ、味方になってくれる武将を見つけては上洛して都奪回を目指す事になるわけですが、

そう…これこそ「流れ公方」、、、その時々に自身を担ぎ上げてくれる武将の威勢や勝ち負けによって、将軍が都を奪回したり、はたまた追われたちする事になってしまうのです。
  ●足利義稙×細川政元~宇治木幡合戦>>

さらにそんな中で、実子がいなかった細川政元が、その後継者と目される3人の養子同士=細川澄元(すみもと)細川澄之(すみゆき)細川高国(たかくに)の争いの中で、そのうちの1人=澄之を推す家臣に殺害されるという(6月23日参照>>)、これまた下剋上の至り・・・

…で、この政元の死をチャンスと見た前将軍の足利義稙が、大内義興(おおうちよしおき)を後ろ盾に上洛して来た事で、足利義澄は将軍職を廃され、足利義稙が将軍に返り咲き。。。

しかしそんな義稙も、政元の後継者争いの中でトップに立った(5月5日参照>>)細川高国との関係が険悪になった事で京都と追われ、代わりに、この高国推しで第12代将軍となるのが足利義晴(よしはる=第12代将軍)でした。

しかし享禄四年(1531年)に、これまた高国が、上洛して来た澄之の遺児である細川晴元(はるもと=政元の養子の澄元の息子)に敗れ(6月8日参照>>)

最終的に細川政元の後継者の地位(細川京兆家)を奪取した晴元が推す足利義維(よしつな=義晴の弟)堺公方(さかいくぼう)(【幻の堺幕府】参照>>)に擁立されたため、義晴は将軍という地位のまま、近江へと逃れる事になってしまいました。

しかし、そんなこんなの天文十五年(1546年)秋、これまで細川晴元の家臣として京都を奪回しようとする高国の養子=細川氏綱(うじつな)を追い払っていた晴元家臣の三好長慶(みよしながよし)が、なんと!敵対する細川氏綱方に寝返ったのです(9月14日参照>>)

その要因は、もともと晴元が三好長慶の父の仇であった事もあり、しかも、ここに来て晴元は、自らが推していた義維を見捨て、未だ(名目上ではあるものの)将軍の地位を保っている義晴推しに乗り替えた事もあったかも知れません。

とにもかくにも、
こうして、三好長慶と相対する事となり、近江へと逃れた細川晴元は、敵の敵は味方とばかりに足利義晴と和睦。。。

Asikagayositeru600ats そんな天文十五年(1546年)12月20日、未だ11歳…この近江の地にて元服した足利義輝(よしてる=義藤)が、

父=義晴から将軍職を譲られ、第13代室町幕府将軍となったのです。

こうして、将軍の座は息子に託したとは言え、未だヤル気満々の義晴は、慈照寺(じしょうじ=京都市左京区=銀閣寺)の裏手の山に中尾城(なかおじょう)を、
北白川(きたしらかわ=京都府京都市左京区北白川)にあった城郭を改修して将軍山城(しょうぐんやまじょう=北白川城・瓜生山城・勝軍地蔵山城とも)を構えて三好勢に抵抗しますが、

天文十八年(1549年)6月の江口(えぐち=大阪府大阪市東淀川区)の戦いで三好勢に敗れ、またまた近江に戻っていた天文十九年(1550年)5月に、志半ばで死去してしまいます。

父の死を受けて、名実ともに足利将軍家のトップとなった足利義輝は、父が残した中尾城にて、家臣たちを前にして大きく宣言するのです。

「昔の人は『父の仇とは共に日月の光を戴かず』と言う。
俺は、君らと志を一つにして大敵と戦い、軍功を勝ち取る!
もし勝つ事ができないとしても、この命を父やご先祖に捧げ、
屍になろうとも、一歩たりとも退かぬ!」『萬松院殿穴太記』より

未だ15歳にして、この堂々たる姿に城内の者は皆、勇み立ち、
「天晴れなる大将!」
と、その命を賭けるに値する人物であると喜んだのです。

その後、義晴の死のドタバタで、未完成のままになっていた中尾城を、三重の堀で固め、間に石を入れた二重の壁にし、来たるべき鉄砲での戦いを想定した造りにした義輝。。。

この、わずか1ヶ月後の7月に起こった敵との小競り合いには、義輝側の兵(実質は晴元の兵ですが…)が放った鉄砲によって、三好勢の与力を討っています(『言継卿記』)、これが、日本の戦国時代にて鉄砲が実践に使用された事がわかる初記録だとか。。。

まさに、お飾りではない戦う将軍だった足利義輝

とは言え、今や絶頂期の三好長慶・・・そう簡単には京都を奪回させてはくれません。

このあと、義輝は何度か長慶と戦い、やがて京都に戻る事になり、ようやく「流れ公方」から脱出するのですが、それらのお話は、チョコチョコ書いておりますので↓のページで…

 ●白川口(北白川)の戦い>>
 ●足利義輝~京都奪回作戦の日々>>
 ●義輝が朽木へ~志賀の戦い>>
 ●将軍地蔵山の戦い>>
 ●戦国初の天下人…三好長慶の死>>
 ●足利義輝の壮絶最期>>

そして時代は、義輝の弟=足利義昭(よしあき)と、その義昭を担ぐ織田信長(おだのぶなが)の時代となります。
 その後のお話は【安土の時代年表】>>からどうぞ
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