森山崩れに乗じて三河侵攻~織田信秀の井田野の戦い
天文四年(1535年)12月12日、松平清康の死を知って岡崎に攻め寄せた織田信秀と、迎え撃つ松平勢による井田野の戦いがありました。
・・・・・・・
室町幕府公認の尾張(おわり=愛知県西部)の守護(しゅご=現在の県知事みたいな?)は斯波氏(しばし)・・・
…で、その守護代(しゅごだい=副知事)が織田氏(おだし)なのですが、その織田も複数いて、戦国時代に斯波氏の重臣として守護代を継承していたのは清洲城(きよすじょう=愛知県清須市)を居城とした織田大和守家(おだやまとのかみけ=清洲織田家)でした。
ご存知、織田信長(おだのぶなが)の父ちゃんとして知られる織田信秀(のぶひで)は、そんな織田大和守家に仕え清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)と称された家老の家柄である織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)の当主である織田信定(のぶさだ)の息子でした。
つまり…尾張の中でも、その立ち位置は、未だ上には上がある状態だったわけです。
そんな中、戦国も後半になって斯波氏の力が衰えはじめ、さらに大永年間(1521年~1528年)に入って駿河(するが=静岡県東部)&遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する今川氏親(いまがわうじちか=今川義元の父)が台頭する(6月21日参照>>)ようになると尾張領に那古野城(なごやじょう=愛知県名古屋市中区)を建てられ、そこを今川の一族が支配するほどの勢いになって来てしまいます。
しかも…
今川に侵攻されるわ、織田家内でも主従がワチャワチャするわ…な状態の中、享禄二年(1529年)に三河(みかわ=愛知県東部)を統一した松平清康(まつだいらきよやす=徳川家康の祖父)が(5月28日参照>>)、いよいよ尾張に侵攻して来るようになるのです。
とは言え、一方で、
勝幡城(しょばたじょう=愛知県稲沢市)を居城とする織田信秀は津島神社(つしまじんじゃ=愛知県津島市)の門前町=津島と、伊勢湾近くの木曽川に面した港を領していた事で、経済的にはかなり優位だったおかげで、この頃にはその力も、徐々に主家を凌ぐようになって来ていた事も確かでした。
そんなこんなの天文四年(1535年)12月、松平清康が信秀の弟=織田信光(のぶみつ)の守る守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)を攻めて来たのです。
一説には、今回の松平清康の守山攻めは、どんどん強くなっていく織田信秀を警戒して、この頃には敵対関係となっていた織田寛故(とおもと=藤左衛門家:清洲三奉行の一つ)を支援するための出兵とも言われます。
その意図はともかく、攻めて来られた以上、信秀としても
「なんとか、せねば!」
となっていたわけですが…
ところが、この守山攻めでの陣中にて、松平家臣の阿部定吉(あべさだよし)の息子であった阿部正豊(あべまさとよ)が、
「父の謀反が疑われている」
と焦り、主君の松平清康を斬殺してしまうのです。
世に「森山崩れ(もりやまくずれ=守山崩れ)」と呼ばれる松平清康の死。。。(12月5日参照>>)
未だ25歳の現役バリバリ…
しかも、その日に守山城を攻め落とせなかった事で、
「明日は必ず!」
と、攻撃態勢のまま夜営を張った陣で起こった出来事でした。
『常山紀談』によると、
たまたま現場に居合わせた植村氏明(うえむらうじあき)なる武将が、すぐさま阿部正豊を討ち取り、異変を知って集まった者たちが動揺する中で、
「敵は斬って捨てたので、もう思い残す事も無い。
あとは腹を切って殿のお供をさせていただこう」
と、植村が自決の覚悟を語ったところ、
集まって来た家臣の中の一人が、
「たまたま君が側にいたから幸運にも敵を討ち取る手柄をたてる事ができたけど、
俺かて、お側にいたなら同じようにしたやろうし、自決の覚悟も君に引けは取らん。
けど、俺はまだ主君の後を追う事はせん。
なぜなら、俺はもうすぐ死ぬやろうから、ここで無意味な自決はせん!」
と言い放ったのです。
すかさず植村が、
「もうすぐ死ぬって?どういう事?」
と尋ねると、その武士は
「殿様が、ここでこうなった以上、それを聞きつけた織田は必ず、軍勢を率いて本城の岡崎を攻めて来るやろう。
俺は、その時に一矢報いたい。
俺が死ぬのは、その時やと思う。
もちろん、主君への忠義に示し方は人それぞれやから、君の自決を無理やり止めようとも思わんけどな」
それを聞いた植村は
「まったく、その通りや!ほな俺も…」
と深く感服し、自決は思いとどまったのです。
こうして、
ほどなく守山城の包囲を解いた松平の諸将は、粛々と岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)へと戻っていったと言います。
果たして、松平清康の死から1週間後の
天文四年(1535年)12月12日、殿様の死をチャンスとみた織田信秀が、8000の軍勢を率いて岡崎に攻め入って来たのです。
「森山崩レテ十日モ過ギザルニ
小田之弾正(織田信秀の事)之中
三河エ打出
大拾(樹)寺ニ旗ヲ立ル」(『三河物語』より)
一方の松平勢・・・
この時、主君の訃報を聞いて離反する者が数知れず・・・
なんなら、一族の松平信定(のぶさだ=安祥松平家)までもが、救援の兵を出すどころか、自身の城に籠って成り行きを静観する始末だったとか。
そのため、先の戦いから戻った者も含め、岡崎の城兵は、わずかに800人ほどでした。
籠城ではなく、打って出る作戦を固めた彼らは、清康の遺児=竹千代(たけちよ=後の松平広忠:家康の父)に別れの挨拶を済ますと、一同にドッと泣き叫びながら城を後にし、二手に分かれて井田(いだ=愛知県岡崎市鴨田町)の向こうに打って出たのです。
「井田野の戦い位置関係図」↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>
このあたりは野原を行く上道が1本、田の間を行く下道が1本あり、二手に分かれた兵は、その両方に布陣して、織田勢を待ち構えますが、そこに、やはり織田勢も上道と下道の二手に分かれてやって来るのが見えます。
命懸け覚悟の松平勢とは言え、さすがに多勢に無勢・・・10倍の兵を相手にしては、まともに戦う事もできず、上道の兵が、またたく間に全滅してしまいます。
しかし、この時、下道の守りについていた植村氏明が、下道から先陣を切って斬り進み、下道から上道へと押し上げ、勇敢にも野原の敵兵を追い払っていきます。
やがて
この決死の戦いぶりに、とうとう織田勢はバラバラになって逃げ始めました。
実はこの時、決死の覚悟の松平勢に神が味方したのか?
伊賀八幡宮(いがはちまんぐう=愛知県岡崎市伊賀町)の鳥居が六尺(約180cm)ほど敵方に向かって動いたとか、
宝殿の方向から白羽の矢が敵の頭上に降って来た…とか、、、
さすがにそれは~ありえんやろけど(^o^;)
ただ、見物人にはそう見えたらしい
まぁ、実際のところは、全員殉死の覚悟で挑んでいた松平勢に対し、織田勢は、相手の数の少なさに、最初から敵をナメてかかり、大した隊列も組まぬまま、思い思いに動き回っていたせいで、
必死の相手にやり込められてビビッてるうちに、右往左往しながら逃げ始めた…って感じのようです。
とにもかくにも、織田信秀は10倍の大軍を擁しながら、この井田野合戦にて手痛い敗北を喰らってしまうのです。
この時、未だ25歳の信秀・・・その若い所見せてしまったようですね。
とは言え、この戦いの前後には(天文元年(1532年)説と天文7年(1538年)説があるので…)、今川氏豊(いまがわうじとよ=義元の弟?)から、あの那古野城を調略にて奪い取っています(2月11日参照>>)ので、若いとは言え、なかなか隅に置けません。
…で、一方の松平は・・・
これをキッカケに敵に回った松平信定に、やがて岡崎城を占拠され、竹千代=松平広忠(ひろただ)は、やむなく流浪の旅に出る事になります(3月6日参照>>)。
★松平清康のさらにご先祖=松平親忠(ちかただ)が戦った明応の井田野の戦いはコチラから>>どうぞm(_ _)m
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