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2024年1月30日 (火)

無人島長平のサバイバル生き残り~鳥島の野村長平

 

天明五年(1785年)1月30日、後に無人島長平と呼ばれる事になる野村長平が遭難…12日後に鳥島に漂着します。

・・・・・・・・

鳥島(とりしま)は、伊豆諸島に属する一つの島です。

Torisima2 ★鳥島の位置(クリックで大きく)→
 (背景は「地理院地図」>>)

小笠原諸島よりは本州に近いものの、東京から約600kmほども南にある孤島ですが、何と言っても特筆すべきは、その独特な自然環境・・・

いくら離島であっても草木生い茂る美しい自然があれば人は住め、伊豆諸島や小笠原諸島にも多くの有人島がありますが、

この鳥島は、
水も無く、草木も無く、小動物もいない火山島…

明治の一時期、入植者によって開発された事もありましたが、ほどなく噴火の被害によって島民全員が死亡するという痛ましい出来事もあり、

結果、今現在でも無人島で、近寄る事が困難なくらいの現役火山活動マックスな不毛の島なのです。

ところが、なぜか、これまで何度もこの島に、人が引き寄せられるように漂着するのです。

もちろん黒潮などの海流によって…なのでしょうが、

有名なところでは、あのジョン万次郎こと中浜万次郎(なかはままんじろう)(1月3日参照>>)、この鳥島に漂着した漁師の1人だったわけですが、なんだかんだで万次郎は、わずか4ヶ月でアメリカの捕鯨船に救助されています。
(もちろん、それでも大変ですが…汗)

しかし、実は、そんな鳥島に12年もの長きに渡って取り残されたうえに、無事に自力で生還した人が江戸時代にいたのです。

それは天明五年(1785年)1月30日の事、

この日、土佐(とさ=高知県)松屋儀七(まつやぎしち)という商人が所有する三百石船で、赤岡(あかおか=高知県香南市)から田野(たの=高知県田野町)へと蔵米(くらまい)を運んでいたのが、

Benzaisen500a この地で運搬業を営んでいた長平(ちょうへい)

彼は、この時、働き盛り22~3歳の若者で、この三百石船の船頭を務めておりました。

しかし、その仕事を終えた帰り道…船は土佐沖で発生した嵐に遭遇してしまうのです。

想定以上の嵐に木の葉のように揺れ動く三百石船は、もはや操縦不能・・・やがて室戸岬を越え、おそらく黒潮に流され、揺られ揺られた12日後に無人島に漂着・・・それが、鳥島だったわけです。

何人かいた乗組員の中で、長平とともに何とか鳥島に漂着したのは3名。。。

何とか生き残ろうと試行錯誤する長平たちの唯一の救いは、

この鳥島が、冬季になると繁殖のために日本近海へ渡って来る渡り鳥=アホウドリ(ミズナギドリ目=現在は特別天然記念物)の繁殖地であった事。。。

繁殖の一時期だけやって来るこの鳥の、肉や卵を生食し、多く捕ったぶんは干し肉にして保存し、鳥がいない夏場をしのぎました。

それ以外は、自力で取った少量の海産物と、アホウドリ卵の殻に溜めた雨水・・・

もちろん、鳥の肉以外も無駄にせず、羽根で衣服や敷物を作り、脂肪は油として使用しました。

月の満ち欠けを観察して年月もシッカリ把握し、とにかく生還する事だけを考えて生き抜く毎日。。。

しかし、ともに漂着した3人は、漂着からわずか1~2年後の間に相次いで亡くなり、その後は長平一人になってしまったのです。

そんな天明八年(1788年)1月29日、大坂北堀江(きたほりえ=大阪府大阪市)備前屋亀次郎(びぜんやかめじろう)所有の船の11人が鳥島に漂着して来たのです。

孤島でのサバイバルは続くものの、1人と12人では、なんだかんだで希望の持ちようが違いますし、なんと、この11人は火打石など、少々の道具を持っていたのです。

長平は、ようやく生肉生食から解放されました。

さらに2年後の寛政2年(1790年)1月末頃に日向(ひゅうが=宮崎県)志布志(しぶし=宮崎県志布志市)中山屋三右衛門(なかやまやさんえもん)の船の6人が漂着し、

島の住人(と言っていいのか?)は合計で18人に・・・

そのため、彼らそれぞれが持っていた少々の道具を集めると、鍋や釜、大工道具なども揃い、様々な事ができるようになります。

1番先輩の長平と、大坂船と志布志船から一人ずつの3名がリーダーとなって、住居や食糧確保、運搬のための道の整備に、飲料水確保のため池作りなど、皆で分担しながら進めていきますが、

その間、
これまでに1度も近くを通る船の影さえ見えなかった事、
また、かつて漂流したであろう人が残してくれていた釘を見つけた事、
さらに、仲間の中に船大工経験者がいた事、

などから、いつしか彼らは自分たちで船を作り、自力で島を脱出する事を考え始めます。

自作の道具を作り、流木を集め、貴重な衣類を帆に縫い合わせ・・・

やがて造船を決意してから5年ほどの歳月が流れた寛政九年(1797年)6月8日、約9mの船を完成させた彼らは、意気揚々と鳥島を後にしたのです。

残念ながら、このサバイバル生活の間に4人の仲間が亡くなり、脱出船に乗り込んだのは長平を含めて14人でしたが。。。

その船は数日の航海で青ヶ島(あおがしま=東京都青ヶ島村)に到着し、さらに自力で八丈島(はちじょうじま=東京都)までたどり着いたのです。

もちろん、そこで幕府代官の調べはあるものの、そんなの、島の生活に比べりゃ屁のカッパ・・・さらに、幕府の船で江戸へと送られる彼らですが、ここの取り調べも大したこたぁありやせん。

その後、生死をともにした仲間と江戸にて別れた長平は、寛政十年(1798年)1月、13年ぶりに、故郷=土佐に帰還しますが、

なんと!この時、実家では長平の13回忌の法要が行われている真っ最中だったとか・・・
(確かに…遭難したんも1月やからね)

その後、彼は土佐藩から「野村(のむら)という姓を賜って野村長平(のむらちょうへい)と名乗り、各地で、その体験談を語る講演会を開いては「無人島長平」の名で親しまれたそうです。

やがて妻子にも恵まれて60歳くらいまで生きたらしい。。。

てな事で、漂流生活以外は概ね、平和で幸せな人生を送られたという事で、よかったよかった(^o^)

ちなみに、江戸時代の記録では、長平ら以外にも15件122人ほどが鳥島に漂着した事が記されているそうですが、

その方々のお話は、またその日の日付にて、おいおいご紹介させていただきたいと思います。
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2024年1月24日 (水)

若君からの転落~足利義嗣の室町幕府転覆計画?

 

応永二十五年(1418年)1月24日、兄で将軍の足利義持の命によって、弟の足利義嗣が殺害されました。

・・・・・・・

足利義嗣(あしかがよしつぐ) が生まれた応永元年(1394年)は、父である前将軍=足利義満(よしみつ=第3代将軍)の、まさに全盛期でした。

2年前の元中九年・明徳三年(1392年)に後小松天皇(ごこまつてんのう=北朝6代で第100代)1本にして南北朝合一を果たし(10月5日参照>>)、名実ともに室町幕府の世となり、ますます、その権力が堅固なった時期だったのです。

義満自身は、この年に嫡男の足利義持(よしもち=第4代将軍…つまり義嗣の兄)に将軍職を譲って(5月6日参照>>)隠居したものの、大御所(おおごしょ)として政治の実権を握ったまま・・・しかも、あの平清盛(たいらのきよもり)以来の従一位太政大臣(だいじょうだいじん=太政官の長官)に昇進し、史上初の征夷大将軍経験者の太政大臣就任となりました。

さらに義満は、3年後の応永四年(1397年)には北山殿(きたやまどの=京都市北区:後の鹿苑寺金閣)を建て、
応永六年(1399年)の応永の乱で大内を抑え込み(12月21日参照>>)
応永八年(1401年)には(みん=中国)「日本国王」と認めさせて日明貿易を開始します(5月13日参照>>)

もはや、その勢いはとどまる事を知らず、
「義満の機嫌を損ねたら大変な事になる」
的な空気が蔓延し始め、自らの娘を差し出して義満とに縁をつなごうと考える者が公家の中にも出て来る始末。。。

その極めつけの出来事が応永十三(1407年)に起こります。

この年の暮れ、後小松天皇の生母=三条厳子(さんじょうたかこ=藤原厳子)が危篤に陥った時、見舞いに駆けつけた義満が、その容態がすでに重篤である事を知り、今後の段取りをつけ始めたのです。

…というのも、万が一このまま厳子様がお亡くなりになった場合、天皇は諒闇(りょうあん)の儀という父母が亡くなった時に喪に服す儀礼を行う事になるわけですが、後小松天皇は、この10年前に父の後円融天皇(ごえんゆうてんのう=北朝5代)が崩御された(4月26日参照>>)際に、この儀礼をとっており、

義満曰く
「1代で2度の諒闇の儀は先例(四条天皇?後醍醐天皇?)において不吉である」
と言うのです。

「なので、今回は諒闇の儀を行わない方が良いと思うんやけど、それなら、すぐにでも誰かを国母(こくも=天皇の生母:生母が不在の時は准母を立てる)にすべきやろ?
幸いな事に崇賢門院(すげんもんいん=広橋仲子・後円融天皇の生母)さんが健在ではあるけれども、崇賢門院さんは後小松天皇の祖母やから、これはこれで問題やろ?

てな事で、南御所日野康子(ひのやすこ)准三宮(じゅさんぐう=太皇太后・皇太后・皇后に准じた処遇)にしてもろて国母とするのはどうやろ?」

日野康子という女性は義満の奧さん(後妻)ですから、
「まぁ!なんと大胆な!」
って思いますが、この考えを相談された時の関白(かんぱく=天皇の補佐役)一条経嗣(いちじょうつねつぐ)は、
「えぇんちゃいます?准三宮でイケると思いますよ」
と快諾。。。

ただし、この日の経嗣の日記には、
「あーあ、俺も忖度して、こんなベンチャラ言うようになってしもたか~」
と吐露してはいますが。。。

心の奥底ではどうあれ、義満に言っちゃった事は確か。。。

こうして日野康子は、三条厳子様の崩御の後に入内(じゅだい=皇后や中宮になる人が正式に内裏に入る事)を果たし、北山院という院号も宣下され女院(にょいん)となったのです。

なんかムリクリな雰囲気満載ですが、すでに31歳になっていた後小松天皇の方が大人???
この出来事に、特に敵対する態度はとる事無く、すんなりと日野康子を義母として受け入れるのです。

奧さんが天皇の義母になったって事は、そのダンナである義満は天皇の義父???

これで、2~3年前から義満が朝廷に打診していた
太上天皇(だいじょうてんのう=皇位を後継者に譲った天皇の尊号)の尊号が欲しいんやけど…」
願望達成に一歩も二歩も近づいた事になります。

さらに義満は応永十五年(1408年)2月、この年、15歳になったばかりの息子=鶴若丸(つるわかまる)を連れて参内さんだい=宮中に参上する事)し、その子に義嗣という名を与えてもらったのです。

Asikagayositugu500ak そう・・・やっと出た!本日の主役=足利義嗣さんです。

…と言っても、上記の通り、幼名しかない=まだ元服していなかったわけで、この日の参内は童殿上(わらわてんじょう=童子の姿のままで殿上)という異例中の異例・・・

しかも、すぐさま従五位(じゅごい)に叙せられ、いきなりの貴族の仲間入りを果たしたわけです。

さらに、その数日後の3月8日には後小松天皇が北山殿に行幸(ぎょうこう=天皇が行く事)し、義嗣は天皇から盃を拝領して目の前て舞踏を披露。

天皇は、このまま北山殿に22泊され、その間、白拍子(しらびょうし=今様の舞妓)舞の見物やら連歌会(れんがえ)やら蹴鞠(けまり)やら・・・とにかく、ありとあらゆる宴遊が繰り広げられたのです。

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その間にも義嗣の昇進は止まらず、3月24日には正五位下に叙され、これまで武家では将軍か鎌倉公方しか就任できていなかった左馬頭(さまのかみ=馬の飼育や調教する官職)に就任・・・

その4日後の3月28日には従四位下(行政職の長官とかがなる)に叙せられた後、その翌日には、やはりこれまでは将軍しかなった事がなかった左近衛中将(さこんえちゅうじょう=禁中の警固役)に就任するのです。

続く4月に、義満は義嗣を連れて伊勢神宮(いせじんぐう=三重県伊勢市)に参拝した後、京都に戻って、ここでようやく義嗣の元服の儀が行われるのですが(まだやってなかったんかい!)、なんと!その場所は内裏(だいり=天皇の住まい)

もちろん、武家の子息が…いや、なんなら公家の坊ちゃん含めて、天皇の御前で元服の儀式をするなんて初めての事で、これは親王(しんのう=皇位に着く可能性のある皇子)に準じた扱いをする物で、実際、この頃の義嗣は「若君」と呼ばれていたとか・・・

この日の夜に義嗣は従三位(ここから公卿)参議(さんぎ=朝廷の最高機関)に昇進しています。

この前代未聞の出来事は、もちろん義満が朝廷に働きかけて実現されたものでしょうが、そのため
「義満は息子=義嗣を天皇にしようとしていた」
  ↓ ↓ ↓
「天皇家を乗っ取るつもりだった」
と考える専門家の方もいらっしゃいますが、

それにしても、義満はなんで?こんなにも息子の昇進を急いだのでしょう?

本当に天皇家に取って代わり、日本の国王となりたかったのか?
他に何か急ぐ理由でもあったのか?

そう、実は、このドタバタ昇進からわずか数日の応永十五年(1408年)5月6日、足利義満が51歳で亡くなってしまうので、その本当の理由がわからないのです。
義満の生涯については12月30日参照>>)

冒頭に書いたように、将軍職は、すでに義嗣の長兄である足利義持が第4代を継いでますから、後継者争い的な物は起こりようも無かったわけですが、

以前、義満の死後に「太政法皇(だいじょうほうおう=出家した上皇)の尊号を与えるのどーのこーの」の話のページ>>で書かせていただいたように、この後継ぎ義持は、
「ようやく、俺自身が自由に将軍としての力を発揮できる」
とばかりに、父の義満のやった事を、ことごとく否定しにかかるのです。

溺愛してくれた父が亡くなって、少しずつ変わっていく義嗣の生活。。。

とは言え、義嗣の昇進はまだ止むことなく、
応永十六年(1409年)1月には正三位に、
3月には加賀権守(かがごんのかみ=国司長官)に就任して7月23日には権中納言(ちゅうなごん=太政官の次官)に、
さらに応永十八年(1411年)11月には権大納言(だいなごん=太政官の次官)従二位(左右大臣に相当)
応永十九年(1412年)には院司(いんし=院庁の職員)になって、
応永二十一年(1414年)には正二位(左右大臣に相当)に叙せられています。

この間、義満の死の直後こそ生母の春日局(かすがのつぼね)の屋敷に居候していたものの、義持が北山殿を潰して新たに三条坊門殿(さんじょうぼうもんどの=京都府京都市中京区)を築いて移り住むと、義持は義嗣のために同じ敷地内に邸宅を建ててくれ、義嗣はそこに入居・・・

しかも、宮中に参内する時も兄弟揃ってだし、お出かけも何度もしていたらしいので兄弟の仲が悪いという事は無く、そこに父=義満の影響は何ら無かったものと思われ、現にこの頃の義嗣は周囲から「新御所」と呼ばれて、未だ特別扱い感満載でした。

ところが、そんなこんなの応永二十三年(1416年)10月2日、東国で事件が起こります。

かつて関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐役)だった上杉禅秀(ぜんしゅう=上杉氏憲)が、鎌倉公方(かまくらくぼう=関東支配する足利分家)足利持氏(もちうじ)を鎌倉から追い出そうと攻撃を仕掛けた上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)です(くわしくは10月2日のページ参照>>)

そのページにも書かせていただきましたが、この時、関東の状況がわからない京都では、
「これは、反乱として鎮圧すべきなのか?」
「関東の事として静観するのか?」
「もし、持氏が討たれて新体制となった場合は後継として受け入れるのか?否か」
などの議論がなされていたのですが、

そんな中、10月20日を過ぎた頃に
「持氏健在」
の一報が京都にもたらされ、

「ならば、持氏の烏帽子親(えぼしおや=元服の時に烏帽子を被せる役)として、持氏=鎌倉公方を認めている将軍家としては、当然、持氏支持を表明せねば!
となり、

幕府の方針は、上杉禅秀を謀反とし鎮圧を支持する事に決定したのですが、なんと!その決定の夜・・・義嗣は密かに御所を脱出し、行方不明になってしまうのです。

探索の末、高雄(たかお=京都府京都市右京区)に潜伏している事がわかり、義持の命を受けた細川満元(ほそかわみつもと)富樫満成(とがしみつなり)が出向いて、御所に戻るように説得するのですが、義嗣は、それを跳ね除け、逆に、義持への恨みツラミを口にするばかりだったとか。。。

義満亡き後も順調に出世して、兄には邸宅まで建ててもらってたのに恨み???

どうやら、出世したワリには所領が増えず、そのために困窮しているので
「所領を増やしてほしい」
と兄に訴えたものの、まったく聞き入れてくれなかった…と、、、

つまり、弟から兄への個人的な恨み…という事らしい。。。

いやいや、完全に関東と連携してたのでは?
と誰しもが考えます。

なんせ、義嗣さんの側室は上杉禅秀の娘さんなんですから。。。

ほどなく義嗣は相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)幽閉されて出家するのですが、その後の取り調べで、細川満元や斯波義重(しばよししげ)赤松義則(あかまつよしのり)らが事件に関与していた事が発覚。。。

さらに数の近臣や大名たちが義嗣を後押ししていた事がわかったのです。

つまり、これは関東だけの反乱ではなく、それに乗じた幕府クーデターでもあったわけです。

かくして応永二十五年(1418年)1月24日、義持の命を受けた富樫満成によって義嗣が殺害されるのです。(自刃の説もあり)

享年25。

カリスマ父に溺愛され、一時は「王の座に就くかも」と噂された男の、アッと言う間の転落劇。。

更なる調査によって、関東の反乱も義嗣が主導していた事が明らかとなり、山名(やまな)土岐(とき)などの守護大名も与していた壮大なクーデターであった事がわかり、その後も多くの者が解任・流罪・死罪など言い渡されたと言います。

ただ…
「関東の反乱も義嗣が主導していた」
って死んだ後に言われても、もはや死人に口無し、、

最初の最初である「親王並みの元服の儀」だって、義嗣自身が望んだ事ではないでしょうし、その後の昇進だって先代のお膳立てありきの出世なわけで・・・

義嗣自身は、本当に幕府を転覆させたかったのでしょうか?

ひょっとして、父や兄弟や周囲の大人たちに翻弄されただけだったのかも知れませんね~だったら悲しいな(ToT)
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2024年1月18日 (木)

くじ引き将軍を産んだ丸投げ後継者選び~足利義持の死

 

応永三十五年(1428年)1月18日、第4代室町幕府将軍の足利義持が、次の将軍を指名しないまま死去しました。

・・・・・・・

すでに応永元年(1394年)に、第4代室町幕府将軍に就任していたものの、カリスマ的な先代の父のおかげで、思うように自身の手腕を発揮できていなかった足利義持(あしかがよしもち=義満の3男で嫡男)が、

Asikagayosimoti600a 応永十五年(1408年)5月、父=足利義満の死を受けて、ようやく自分の思い通りの政治ができるようになった事で、

まるで父を否定するかのように…
父の邸宅だった花の御所を捨て
隆盛の集大成の北山第を解体し、
肝入りで始めた(みん=中国)との貿易も中止したのでした(5月8日参照>>)
【日明貿易】も参照>>)

そんな義持の治世は、
朝廷との関係こそ良好だったものの、

応永二十三年(1416年)に東国で起こった上杉禅秀の乱>>からの関東との対立に、
応永二十六年(1419年)には外国から侵攻され=応永の外寇>>
未だくすぶる南朝勢力=後南朝>>
と、徐々に平和が乱れつつあった時代でもありました。

やがて応永三十年(1423年)、17歳になった息子=足利義量(よしかず)に将軍職を譲り、自らは出家&隠居して道詮(どうせん)と号しました。
(ややこしいので名前は義持呼びで通します)

これには、かつて父の義満がやったように
将軍という身分に捕らわれず、自由に自らの政治手腕を発揮したかったから…とも、

いや、本気で仏教の道を突き進みたかったから…とも、
様々に推察されていますが。。。

ところが、その2年後の応永三十二年(1425年)2月、義量はわずか19歳で急死してしまうのです。

将軍不在となった室町幕府ですが、義持は新たな将軍を指名する事も、自身が将軍に返り咲く事も無く、「室町殿」として政務を取り仕切るのです。

これには、義量に兄弟が無く一人息子だった事もありましたが、何と言っても、すでに将軍という地位が有名無実となっていた事も大きいと思われ、江戸時代に例えるなら
「大御所」がいれば将軍がいなくても何とかなる
みたいな感じ?があったように思われます。

事実、義持は「室町殿」以外にも「公方様」や「御所様」と呼ばれて、実質的な将軍の役割を続けていました。

しかし、ここに来て、表向き平穏を保っていた関東がザワザワし始めます。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

鎌倉公方(かまくらくぼう=関東を支配する足利分家)足利持氏(もちうじ)が、
常陸(ひたち=茨城県)守護(しゅご=幕府公認県知事)佐竹義憲(さたけよしのり)佐竹祐義(すけよし)への対応や、
甲斐(かい=山梨県)守護の武田信重 (たけだのぶしげ)の在京問題について、
義持に相談すべく建長寺(けんちょうじ=神奈川県鎌倉市)の長老を京へよこして来たのですが…

実は、そのついでに(コッチが本題か?)
「室町殿にはお子がいてはれへんので、僕が猶子(ゆうし=何らかの意図がある養子縁組)になってご奉公しましょか?」
と、長老を介して申し出て来たのです。

あまりの事に困惑した義持は、
「答えようがない」
と言って拒否したようですが、
(一説には猶子になっていたとも…)

いや、明らかに将軍の座、狙ってますやん!

そんな中、応永三十四年(1427年)の9月21日に、幕府宿老で播磨(はりま=兵庫県南西部)守護であった赤松義則(あかまつよしのり)が死去・・・

この赤松の所領が播磨に加えて備前(びぜん=岡山県南東部)美作(みまさか=岡山県北東部)と広大であった事から、一族による後継争いが生じたのです。

嫡子(ちゃくし=後継者)赤松満祐(みつすけ)全相続を訴えるも、義持は、懇意にしている赤松持貞(もちさだ=赤松家庶流)に一部を譲るよう持ち掛けて拒否する満祐に対し、

反対する管領(かんれい=将軍の補佐役・執事)らの意見を聞かず、幕府による赤松満祐討伐軍まで派遣しようとします。

しかし、そんなこんなしていた11月11日、なんと!赤松持貞の不倫が発覚・・・しかも相手は義持の奧さん(正室の日野栄子では無い模様)

しかもしかも、それを暴露したのが、義持が最も信頼する高橋殿(たかはしどの=義満の愛妾)という女性。。。

文春砲ならぬ高橋砲によって発覚した事件に激おこの義持は、持貞に切腹を命じ、持貞は発覚から2日後の11月13日に自刃して果てました。

これにて赤松問題には終止符が打たれ、赤松満祐は無事に相続を認められ、幕府が討伐軍を派遣する事も無くなったわけですが、

この出来事は、
そもそも出兵に反対していた管領はもとより、出兵要請された者の中でも、張り切って討伐する気満々だった山名氏に対して、出兵を拒否した一色氏などなど・・・

無事に終わったとは言え、将軍と各守護大名たちとの間に亀裂が入った事は確かでした。

やがて年が明けた応永三十五年(1428年)正月・・・元日には元気に初詣し、6日には正月祝いの宴会までやってた義持が、8日の夕方になって風邪で発熱・・・それに伴って背中のデキモノがはれ上がって悪化します。

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)など各地で病気平癒の祈祷が開始される中、かなり重篤になった16日には、見舞いに訪れた僧侶に対し、義持は、
「43歳でこの世を去る事になるけど、何の不足も無いわ」
と語ったとか。。。

翌17日には、管領の畠山満家(はたけやまみついえ)をはじめ斯波義淳(しばよしあつ)細川持元(ほそかわもちもと)山名時熙(やまなときひろ)畠山満慶(みつのり)幕府重臣が集まって今後の事を相談。。。

畠山満家と山名時熙の二人が代表して義持のもとへ参じ、
「後継ぎの事を決めて欲しい」
と直談判します。

しかし、義持は
「自分では何とも言えんから君らで決めて」
と丸投げ。。。

やむなく義持が信頼する醍醐寺(だいごじ=京都市伏見区)三宝院(さんぼういん)の僧=満済(まんさい・まんぜい)に相談し、もう一度、彼に義持の真意を確かめてもらう事に・・・

しかし満済に対しても義持は、
「例え実子がおっても自分では後継ぎを決めんつもりやった…まして子供がおらんのやから、とにかく、君らで話し合うて決めてくれ」
の一点張り。

そこで満済は、
「幸いな事に、ご兄弟がいらっしゃるので、その中からどなたかを指名していただけないでしょうか」
「それも無理なら、ご兄弟の名前を書いたくじ(籤)を作って、八幡宮の神前にてくじを引いて決めるというのはどうでっしゃろ」

義持は
「それはえぇ!くじ引き賛成!
ただし、僕が死んでからくじ引きしてな」
と指示したのでした。

早速、満済以下重臣の面々はくじを作り、その日のうちにくじ引きを決行・・・亡くなった後に開封する約束をして、その日の真夜中に、ようやく解散したのでした。

果たして、その翌日の
応永三十五年(1428年)1月18日巳の刻(午前10時)・・・
義持は帰らぬ人となったのです。

重臣や大名が集まる中、一通りの焼香を終えた後、管領の畠山満家が昨夜引かれたクジを開封すると、
そこには『青蓮院義円(しょうれんいんぎえん=義満の4男か5男)の名前が。。。

こうして誕生したのが、室町幕府第6代将軍足利義教(よしのり)です(2016年6月24日参照>>)

もう、この先の出来事を知っている我々からは、怖い未来しか見えません。

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青蓮院の庭園

ところで、
メッチャやる気やったのにくじ引きに参加さえさせてもらえなかった鎌倉公方の足利持氏。。。このあと、思いっきりやっちゃいます。【永享の乱】>>)

そして、その後はご存知、ブチ切れた赤松満祐による将軍暗殺【嘉吉の乱】>>

世は波乱の展開へと進むのです。
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2024年1月11日 (木)

陣中の上杉謙信から養子・景勝への手紙

 

天正三年(1575年)1月11日、上杉謙信が、亡き長尾政景の二男の喜平次を養子にして加冠(かかん=初めて冠をつける事)し、景勝と名乗らせました。

・・・・・・・・

上田長尾家(うえだ ながおけ)の当主で坂戸城(さかどじょう=新潟県南魚沼市)の城主だった長尾政景(ながおまさかげ)と、

上杉謙信(うえすぎけんしん)異母姉だった仙桃院 (せんとういん=綾姫・仙洞院)次男として生まれた上杉景勝(かげかつ)。。。

幼名は卯松(うのまつ)、その後に喜平次(きへいじ)から長尾顕景(あきかげ)と名乗っていたところ、

天正三年(1575年)1月11日に叔父である上杉謙信の養子となって、名を上杉景勝と改め、謙信から弾正少弼(だんじょうしょうひつ=官職・弾正台の次官)を譲られたとされます。

とは言え、ここで名を改めた事で「正式に養子として…」となるものの、皆さまご存知のように、これ以前に、すでに養子同然の立場にあった事は知られています。

一般的には永禄七年(1564年)7月頃であろうとされます。

…というのは、以前、景勝の実母である仙桃院さんのページ(2月15日参照>>)で書かせていただいたように、この永禄七年(1564年)の7月5日に実父である長尾政景が宇佐美定満(うさみさだみつ)との野尻池での舟遊び中に、ともに池に落ちて溺死してしまった(7月5日参照>>)事を受けて、

母である仙桃院が、父を亡くした子供たちの行く末を案じて、今や関東管領となって活躍する弟に
「義景景勝は申すに及ばず 娘二人も御見捨てあるまじ」
(『北越耆談(ほくえつきだん)』より)

と託したとされ、

ならば、この父の死をキッカケに謙信の養子になったのであろうとの見方が強いのです。
(すでにこの数年前から…の説もあります)

後に、景勝と家督争いを繰り広げる、もう一人の養子=上杉景虎(かげとら)は、北条氏康(ほうじょううじやす)七男として景勝より2年前に生まれながらも、両家の同盟の証として永禄十三年(1570年)4月に謙信に連れられて越後にやってきて養子となり、そのまま上杉景虎と名乗っていますので、

つまりは
養子になった時期は景勝が先だけと、年齢と上杉を名乗ったのは景虎が先になる・・・
(だからモメるのねん)

とにもかくにも、今回の天正三年(1575年)1月11日以前に、すでに景勝が謙信の養子扱いとなっていたであろう事が垣間見えるのが、国宝に指定されている景勝宛ての謙信の書状です。

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上杉家文書(米沢市上杉博物館蔵)謙信書状

2月13日の日付はあるものの年数が書かれていないのですが、その内容は…

「何度も、心のこもったお手紙、うれしいです。
いよいよ字が上手になって来たみたいですから、
字のお手本を送るね。
ほんで、戦勝祈願したお守りも届けてくれて、ありがとうね。
コッチが落ち着いたら帰るんで、また、いっぱいお話しましょう」

そして、この手紙と一緒に送られた「お手本」というのがコチラ↓
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上杉家文書(米沢市上杉博物館蔵)仮名手本

おそらくは合戦に出陣している謙信に向けて、戦勝を祈祷したお守りを送った景勝に対し、いかにもやさしいお父さんっぽく返信している謙信・・・養父×養子の関係がうまくいってる様子がうかがえますね~

…で、この年数の書いてない謙信書状なんですが、

最後のところに、日付とともに「旱虎(花押)
行を変えて「喜平次殿」とあります。

ご存知のように、上杉謙信のもとの名は幼名=虎千代(とらちよ)から、天文十二年(1543年)に元服して長尾景虎(かげとら)。。。

その後、兄とのなんやかんやを制して長尾家を一つにまとめた後、あの川中島(4回目)(9月10日参照>>)の半年前の永禄二年(1559年)の閏3月に、

関東から逃げて来ていた上杉憲政(のりまさ)から山内上杉家の家督と関東管領職(かんとうかんれいしょく=関東公方の補佐役)を相続して上杉政虎(まさとら)と名乗り(6月26日参照>>)、13代室町幕府将軍=足利義輝(あしかがよしてる)(12月20日参照>>)に謁見して(4月27日参照>>)

その2年後の永禄四年(1561年)12月に、将軍の義輝から一字を賜って上杉輝虎(てるとら)と名乗っています。

上記の書状に署名してある「旱虎」「旱」「ひでり」という文字ですが、音読みの「テル=輝」の当て字として書いてあるので「旱虎」は「てるとら」ですね。

そして永禄十三年(1570年)4月、北条と和睦して越後に連れ帰って来た北条三郎(氏秀?)を大いに気に入って、かつての自身の名である上杉景虎を名乗らせた後、その年の暮れからは法号の「不識庵謙信」と号する=上杉謙信となるので、

上記の年数の無い書状は、おそらくは景勝が父を亡くして養子の話が出て来たであろう永禄七年(1564年)7月から、永禄十三年(1570年)12月の間に書かれた物という事になるわけです。

戦国と言えど、父と子の間には、何やらほのぼのとした空気が流れるものですね。

とは言え
結局は、この後、謙信亡き上杉家を巡って争う事になる上杉景勝と上杉景虎【御館の乱】参照>>)・・・

こうして景勝に愛情を注ぎ、景虎も大いに気に入っていた謙信の姿を垣間見ると、
個人的には、弾正少弼と関東管領を分け合って、ウマイ事やって行けんかったんかなぁ~って思いますが、

それは昨年のアノ方お得意の
「奪い合うのではなく、与えあうのです!キリッ」
な、お花畑の考え・・・やはり、世は戦国なのですな。
 .

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2024年1月 5日 (金)

皇室の権威復活を目指す~正親町天皇の戦国の歩き方

 

文禄二年 (1593年)1月5日、第106代正親町天皇が77歳で崩御されました。

・・・・・・

第105代の後奈良天皇(ごならてんのう)第1皇子だった方仁親王(みちひとしんのう)が、父の崩御(ほうぎょ=死去の最高敬語)を受けて第106代正親町天皇(おおぎまちてんのう)として践祚(せんそ)したのは弘治三年(1557年)・・・41歳の時でした。

ちなみに践祚というのは、天皇の位を受け継ぐ事・・・この践祚をした事を天下万民に披露する儀式が、よく耳にする即位(そくい)という儀式なのですが、

Oogimatitennou600as 残念ながら正親町天皇は、この即位の礼をすぐに行う事はできませんでした。

それは、41歳というかなりの年齢になっていながら、父の死を受けてやっと後を継いだ事とも無関係ではありません。

そう・・・この頃の天皇様は極貧だったのです。

そもそも奈良時代初め頃までは、天皇が崩御されたら皇太子が即位・・・というパターンだったのが、乙巳(いっし)の変(大化の改新)(6月12日参照>>)という変事から譲位した皇極天皇(こうぎょくてんのう=斉明天皇(重祚))に始まり(1月3日参照>>)

その後、どうしても自身の直系に後を継がせたい持統天皇(じとうてんのう=第41代)が、未だ自分がシッカリしてる間に、15歳となった孫の文武天皇(もんむてんのう=第42代)に譲位して(8月1日参照>>)、自らは太上天皇(だじょうてんのう=もしくは上皇)となって若き天皇をサポートしたわけですが、

さらに、
平安時代に白河天皇(しらかわてんのう=第72代)が譲位して上皇となって院政を敷いて権力を握った事により(11月26日参照>>)
「むしろ天皇でいるよりコッチがえぇやん」
とばかりに、平安~鎌倉初期あたりは頻繁に譲位が行われた事もありました。

しかし、この譲位・・・それに伴う儀式やら引越先確保やらなんやかんやに膨大な費用がかかるため(費用は朝廷負担)、お金が無いとできないのです。

…で、結局、この戦国時代頃は、先代が崩御されたため皇太子が後を継ぐ・・・という形になっていたのですが、冒頭に書いた通り、この正親町天皇時代の朝廷には、譲位どころか、即位の礼の費用さえ無かったため、
「とりあえず後継ぎました」
告知の践祚だけで精一杯。。。

やがて践祚から2年後・・・そんな正親町天皇の前に登場したのが安芸(あき=広島県西部)を中心に西国の覇王となりつつあった毛利元就(もうりもとなり)でした(11月25日参照>>)

永禄三年(1560年)1月、元就からの支援を受けた正親町天皇は、ようやく即位の礼を行う事ができ、そのお礼に元就は陸奥守(むつのかみ)に任じられたうえ菊桐紋(きくきりもん=皇室の紋章) を賜りました。

また、多大な資金援助をしてくれた石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)顕如(けんにょ)にも門跡(もんぜき=位階の高い寺院)の称号を与えて応えました。

そう・・・おそらくは、これで、正親町天皇は「戦国の歩き方」を知ったのです。

「こうなったら、使える権威を使いまくって朝廷を盛り上げよう」
と。。。

そんな時、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて、あの織田信長(おだのぶなが)が京に上って来ます(9月7日参照>>)

「待ってました!」
と、ばかりに
信長到着の前の段階で、その安寧の祈念をするとともに
「上洛の時は兵士たちに暴れないように言っといてネ」
との綸旨(りんじ=天皇家の命令書)を出して熱烈歓迎の正親町天皇・・・

実は、先代の後奈良天皇の時代の天文十二年(1543年)に、お金が無くて荒れ放題になってる内裏(だいり=天皇の住まい)の塀を見かねて
「修理に使ってヨ!」
四千貫文もの銭を朝廷に献上してくれた人が、誰あろう信長の父ちゃん=織田信秀(のぶひで)(3月3日参照>>)だったのです。

天皇家を大事にしてくれる
金持ちの坊ちゃんが来るぅ~o(^o^)o

信長の経済力によって朝廷を復興したい正親町天皇と、
天皇の権威で以って武士の頂点を目指そうという信長の、
利害関係が見事に一致したのです。

これには、奉じてもらった足利義昭も
「いよいよ国家安治なり~」
と大喜び。

そんな期待に応える信長は、正親町天皇からの要請の件ばかりでなく、でき得る限りの様々な皇室への施策を行います。

時は献金をし、時にはお宝を献上し、
朝議の復興や天皇家&公家領の回復、

さらに紫宸殿(ししんでん=内裏の正殿)清涼殿(せいりょうでん=天皇の御殿)などの造営に加え、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)伊勢神宮(いせじんぐう=三重県伊勢市)の復興まで・・・

これに応える正親町天皇も、信長に敵対する武将へ講和の勅命(ちょくめい=天皇の命令)を出したり、
堅田の戦い>>野田福島の戦い>>義昭挙兵>>
とっておきの宝物の蘭奢待(らんじゃたい=香木)を削らせてあげたり(3月28日参照>>)の大サービス。

とは言え、正親町天皇と信長の仲がず~っと良かったとも言いきれない…かも。

それは、天下が見えるようになった頃から、信長は、自分が懇意にしている誠仁親王(さねひとしんのう=正親町天皇の第1皇子)に早く天皇になってもらおうと、度々、正親町天皇に譲位を迫っていたとか・・・

ただし、これも諸説あります。

そもそも、この頃・・・すでに正親町天皇は57歳で誠仁親王は22歳。。。しかも、正親町天皇も寄る年波には勝てず、体調を崩して病に伏せる事も度々あったとか・・・

冒頭に書いた通り、正親町天皇が天皇位を継ぐのが41歳になったのは譲位の儀式をする余裕が無かったからであって、本来なら、成人した皇太子がいる以上、さっさと譲位して上皇になっても差し付けない=全然納得できる年齢だったわけです。

また、信長は譲位を無理強いしたという感じでもなく、正親町天皇も頑なに拒否してた感じもありません。

あくまで
「一つの提案」
として譲位の話が持ち上がっていたとの見方も充分できます。

さらに、提案として出ていた中で、正親町天皇の引越先である仙洞御所(せんとうごしょ=上皇&法皇の御所)の準備がまだできておらず、単に引っ越すに引っ越せないので譲位を先延ばしにしていた…なんていう説もあります。

なんせ昔は、信長が
「その武力を天皇に見せつけた」
と言われていた、あの御馬揃え(おんうまそろえ)も、今では、天皇側が
「見たい!見たい!」
と言うので、
「天皇さんが来はるんなら派手にやりまっさ」
でやった可能性が高いとされています(2月28日参照>>)

この馬揃えは、信長が亡くなる前年の事ですから、そこまで険悪ムードでは無い気がします。

その後、ほどなく朝廷から
「信長を太政大臣か関白か征夷大将軍かのいずれかに任命する」
との案が出されます。

ただし、これにも諸説あって
「単に提案されただけ(誰もOKしてない)
とも
「信長は天皇と誠仁親王に対してだけ返答していた」
とも言われます。

そう・・・
この話がウヤムヤなのは、この直後に信長が、あの本能寺の変で亡くなってしまう(6月2日参照>>)からです。

そして、ご存知のように、その後は、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)が台頭して来るようになる(10月15日参照>>)わけですが、

イメージ的にも「権威大好き!」そうな秀吉さん・・・
案の定、正親町天皇にも、黄金を献上したり、領地を献上したりして、天皇を後ろ盾にする気満々でハッスルするわけです。

やがて、
信長の死から4年後の天正十四年(1586年)に、(誠仁親王が薨去したため)孫の和仁親王(かずひとしんのう=誠仁親王の第1皇子)譲位した正親町天皇は、文禄二年 (1593年)1月5日77歳で崩御されます。

正親町天皇と信長が築いた二人の相互関係は、そっくりそのまま次代へと引き継がれ

和仁親王=後陽成天皇(ごようぜいてんのう=第107代)と豊臣秀吉の蜜月が続く事になり、結果的に皇室の権威は大いに高まるのですが、そのお話は【後陽成天皇と豊臣秀吉】>>でどうぞm(_ _)m
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2024年1月 1日 (月)

年始のごあいさつ~今年は『光る君へ』ですね!

 

あけましておめでとうございます

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本年もよろしくお願いいたします

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Fuziwarasikeizumitinagavskoretika5 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

今年の大河ドラマは、あの『風と雲と虹と』以来の平安モノ。。。

戦国好きの茶々ではありますが、やはり1年を通しての大河=光る君へには期待がかかります。

劇中劇の『源氏物語』は出るのか?出ないのか?
昨年の中国史劇味は続くのか?払拭されるのか?w

ホント、楽しみですね~

一応、神代から現代までの通史を謳っているこのブログですから、平安の事もチョコチョコ書いておりますので、ドラマを見るうえでのヒントになれば幸いです。

…てな事で、関連ありそうなページをご紹介
ネタバレOKの方は、のリンクから見ていただけるとありがたいです。

●988年:【藤原道長の橘淑信を拉致事件】>>
●990年:【藤原定子が入内】>>
●995年:【道長VS伊周の七条大路の合戦】>>
●996年:【花山院闘乱事件が発覚】>>
●999年:【藤原彰子が入内】>>
●1005年:【安倍晴明が死去】>>
●1007年:【道長暗殺計画が発覚】>>
●1008年:【花山天皇が崩御】>>
●    :【道長宅の宴会で源氏物語初登場】>>
●1011年:【藤原道長と三条天皇】>>
●    :【一条天皇が譲位】>>
●1012年:【道長三男の藤原顕信が出家】>>
●1013年:【藤原能信の牛車暴行事件】>>
●1014年:【藤原兼隆による実資の下女襲撃事件】>>
●    :【藤原頼行が藤原能信の従者を殺害】>>
●1016年:【大江至孝が強姦未遂から殺人】>>
●1018年:【藤原兼房が宴会で暴れる事件】>>
●    :【藤原道長が♪この世をば♪の歌を詠む】>>
●1019年:【刀伊の入寇~日本を護った藤原隆家】>>
●1020年:【源政職が殺害される】>>
●1022年:【藤原能信&教通の兄弟ゲンカ】>>
●1024年:【藤原兼経の五節舞姫と立て籠り事件】>>
●1025年:【藤原頼通が津守致任を暴行事件】>>
●1027年:【賀茂祭の見物場所の取り合い】>>
●    :【藤原道長が死去】>>
●    :【源氏物語を書いて地獄に堕ちた紫式部】>>

・・・とこうしてみると
祭り見物の場所の取り合いとか、兄弟ゲンカとか…
なんや、ノホホンとしてるな~ と思いきや、これが暴力事件に発展してますから、平安貴族は侮れません(笑

原作者でもある脚本家さんはインタビューで
「平安王朝の権力闘争といったセックス&バイオレンスを描きたい」
とおっしゃっていますので、

平安王朝の雅な一面とはうらはらな
なかなかハードな場面もあるかも知れませんね~

楽しみです。

最後になりましたが、今年も、ブログ=今日は何の日?徒然日記をよろしくお願いしたします。
 .

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