若君からの転落~足利義嗣の室町幕府転覆計画?
応永二十五年(1418年)1月24日、兄で将軍の足利義持の命によって、弟の足利義嗣が殺害されました。
・・・・・・・
足利義嗣(あしかがよしつぐ) が生まれた応永元年(1394年)は、父である前将軍=足利義満(よしみつ=第3代将軍)の、まさに全盛期でした。
2年前の元中九年・明徳三年(1392年)に後小松天皇(ごこまつてんのう=北朝6代で第100代)1本にして南北朝合一を果たし(10月5日参照>>)、名実ともに室町幕府の世となり、ますます、その権力が堅固なった時期だったのです。
義満自身は、この年に嫡男の足利義持(よしもち=第4代将軍…つまり義嗣の兄)に将軍職を譲って(5月6日参照>>)隠居したものの、大御所(おおごしょ)として政治の実権を握ったまま・・・しかも、あの平清盛(たいらのきよもり)以来の従一位太政大臣(だいじょうだいじん=太政官の長官)に昇進し、史上初の征夷大将軍経験者の太政大臣就任となりました。
さらに義満は、3年後の応永四年(1397年)には北山殿(きたやまどの=京都市北区:後の鹿苑寺金閣)を建て、
応永六年(1399年)の応永の乱で大内を抑え込み(12月21日参照>>)、
応永八年(1401年)には明(みん=中国)に「日本国王」と認めさせて日明貿易を開始します(5月13日参照>>)。
もはや、その勢いはとどまる事を知らず、
「義満の機嫌を損ねたら大変な事になる」
的な空気が蔓延し始め、自らの娘を差し出して義満とに縁をつなごうと考える者が公家の中にも出て来る始末。。。
その極めつけの出来事が応永十三(1407年)に起こります。
この年の暮れ、後小松天皇の生母=三条厳子(さんじょうたかこ=藤原厳子)が危篤に陥った時、見舞いに駆けつけた義満が、その容態がすでに重篤である事を知り、今後の段取りをつけ始めたのです。
…というのも、万が一このまま厳子様がお亡くなりになった場合、天皇は諒闇(りょうあん)の儀という父母が亡くなった時に喪に服す儀礼を行う事になるわけですが、後小松天皇は、この10年前に父の後円融天皇(ごえんゆうてんのう=北朝5代)が崩御された(4月26日参照>>)際に、この儀礼をとっており、
義満曰く
「1代で2度の諒闇の儀は先例(四条天皇?後醍醐天皇?)において不吉である」
と言うのです。
「なので、今回は諒闇の儀を行わない方が良いと思うんやけど、それなら、すぐにでも誰かを国母(こくも=天皇の生母:生母が不在の時は准母を立てる)にすべきやろ?
幸いな事に崇賢門院(すげんもんいん=広橋仲子・後円融天皇の生母)さんが健在ではあるけれども、崇賢門院さんは後小松天皇の祖母やから、これはこれで問題やろ?
てな事で、南御所の日野康子(ひのやすこ)を准三宮(じゅさんぐう=太皇太后・皇太后・皇后に准じた処遇)にしてもろて国母とするのはどうやろ?」
日野康子という女性は義満の奧さん(後妻)ですから、
「まぁ!なんと大胆な!」
って思いますが、この考えを相談された時の関白(かんぱく=天皇の補佐役)=一条経嗣(いちじょうつねつぐ)は、
「えぇんちゃいます?准三宮でイケると思いますよ」
と快諾。。。
ただし、この日の経嗣の日記には、
「あーあ、俺も忖度して、こんなベンチャラ言うようになってしもたか~」
と吐露してはいますが。。。
心の奥底ではどうあれ、義満に言っちゃった事は確か。。。
こうして日野康子は、三条厳子様の崩御の後に入内(じゅだい=皇后や中宮になる人が正式に内裏に入る事)を果たし、北山院という院号も宣下され女院(にょいん)となったのです。
なんかムリクリな雰囲気満載ですが、すでに31歳になっていた後小松天皇の方が大人???
この出来事に、特に敵対する態度はとる事無く、すんなりと日野康子を義母として受け入れるのです。
奧さんが天皇の義母になったって事は、そのダンナである義満は天皇の義父???
これで、2~3年前から義満が朝廷に打診していた
「太上天皇(だいじょうてんのう=皇位を後継者に譲った天皇の尊号)の尊号が欲しいんやけど…」
の願望達成に一歩も二歩も近づいた事になります。
さらに義満は応永十五年(1408年)2月、この年、15歳になったばかりの息子=鶴若丸(つるわかまる)を連れて参内(さんだい=宮中に参上する事)し、その子に義嗣という名を与えてもらったのです。
…と言っても、上記の通り、幼名しかない=まだ元服していなかったわけで、この日の参内は童殿上(わらわてんじょう=童子の姿のままで殿上)という異例中の異例・・・
しかも、すぐさま従五位(じゅごい)下に叙せられ、いきなりの貴族の仲間入りを果たしたわけです。
さらに、その数日後の3月8日には後小松天皇が北山殿に行幸(ぎょうこう=天皇が行く事)し、義嗣は天皇から盃を拝領して目の前て舞踏を披露。
天皇は、このまま北山殿に22泊され、その間、白拍子(しらびょうし=今様の舞妓)舞の見物やら連歌会(れんがえ)やら蹴鞠(けまり)やら・・・とにかく、ありとあらゆる宴遊が繰り広げられたのです。
その間にも義嗣の昇進は止まらず、3月24日には正五位下に叙され、これまで武家では将軍か鎌倉公方しか就任できていなかった左馬頭(さまのかみ=馬の飼育や調教する官職)に就任・・・
その4日後の3月28日には従四位下(行政職の長官とかがなる)に叙せられた後、その翌日には、やはりこれまでは将軍しかなった事がなかった左近衛中将(さこんえちゅうじょう=禁中の警固役)に就任するのです。
続く4月に、義満は義嗣を連れて伊勢神宮(いせじんぐう=三重県伊勢市)に参拝した後、京都に戻って、ここでようやく義嗣の元服の儀が行われるのですが(まだやってなかったんかい!)、なんと!その場所は内裏(だいり=天皇の住まい)。
もちろん、武家の子息が…いや、なんなら公家の坊ちゃん含めて、天皇の御前で元服の儀式をするなんて初めての事で、これは親王(しんのう=皇位に着く可能性のある皇子)に準じた扱いをする物で、実際、この頃の義嗣は「若君」と呼ばれていたとか・・・
この日の夜に義嗣は従三位(ここから公卿)参議(さんぎ=朝廷の最高機関)に昇進しています。
この前代未聞の出来事は、もちろん義満が朝廷に働きかけて実現されたものでしょうが、そのため
「義満は息子=義嗣を天皇にしようとしていた」
↓ ↓ ↓
「天皇家を乗っ取るつもりだった」
と考える専門家の方もいらっしゃいますが、
それにしても、義満はなんで?こんなにも息子の昇進を急いだのでしょう?
本当に天皇家に取って代わり、日本の国王となりたかったのか?
他に何か急ぐ理由でもあったのか?
そう、実は、このドタバタ昇進からわずか数日の応永十五年(1408年)5月6日、足利義満が51歳で亡くなってしまうので、その本当の理由がわからないのです。
(義満の生涯については12月30日参照>>)
冒頭に書いたように、将軍職は、すでに義嗣の長兄である足利義持が第4代を継いでますから、後継者争い的な物は起こりようも無かったわけですが、
以前、義満の死後に「太政法皇(だいじょうほうおう=出家した上皇)の尊号を与えるのどーのこーの」の話のページ>>で書かせていただいたように、この後継ぎ義持は、
「ようやく、俺自身が自由に将軍としての力を発揮できる」
とばかりに、父の義満のやった事を、ことごとく否定しにかかるのです。
溺愛してくれた父が亡くなって、少しずつ変わっていく義嗣の生活。。。
とは言え、義嗣の昇進はまだ止むことなく、
応永十六年(1409年)1月には正三位に、
3月には加賀権守(かがごんのかみ=国司長官)に就任して7月23日には権中納言(ちゅうなごん=太政官の次官)に、
さらに応永十八年(1411年)11月には権大納言(だいなごん=太政官の次官)&従二位(左右大臣に相当)、
応永十九年(1412年)には院司(いんし=院庁の職員)になって、
応永二十一年(1414年)には正二位(左右大臣に相当)に叙せられています。
この間、義満の死の直後こそ生母の春日局(かすがのつぼね)の屋敷に居候していたものの、義持が北山殿を潰して新たに三条坊門殿(さんじょうぼうもんどの=京都府京都市中京区)を築いて移り住むと、義持は義嗣のために同じ敷地内に邸宅を建ててくれ、義嗣はそこに入居・・・
しかも、宮中に参内する時も兄弟揃ってだし、お出かけも何度もしていたらしいので兄弟の仲が悪いという事は無く、そこに父=義満の影響は何ら無かったものと思われ、現にこの頃の義嗣は周囲から「新御所」と呼ばれて、未だ特別扱い感満載でした。
ところが、そんなこんなの応永二十三年(1416年)10月2日、東国で事件が起こります。
かつて関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐役)だった上杉禅秀(ぜんしゅう=上杉氏憲)が、鎌倉公方(かまくらくぼう=関東支配する足利分家)の足利持氏(もちうじ)を鎌倉から追い出そうと攻撃を仕掛けた上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)です(くわしくは10月2日のページ参照>>)。
そのページにも書かせていただきましたが、この時、関東の状況がわからない京都では、
「これは、反乱として鎮圧すべきなのか?」
「関東の事として静観するのか?」
「もし、持氏が討たれて新体制となった場合は後継として受け入れるのか?否か」
などの議論がなされていたのですが、
そんな中、10月20日を過ぎた頃に
「持氏健在」
の一報が京都にもたらされ、
「ならば、持氏の烏帽子親(えぼしおや=元服の時に烏帽子を被せる役)として、持氏=鎌倉公方を認めている将軍家としては、当然、持氏支持を表明せねば!」
となり、
幕府の方針は、上杉禅秀を謀反とし鎮圧を支持する事に決定したのですが、なんと!その決定の夜・・・義嗣は密かに御所を脱出し、行方不明になってしまうのです。
探索の末、高雄(たかお=京都府京都市右京区)に潜伏している事がわかり、義持の命を受けた細川満元(ほそかわみつもと)と富樫満成(とがしみつなり)が出向いて、御所に戻るように説得するのですが、義嗣は、それを跳ね除け、逆に、義持への恨みツラミを口にするばかりだったとか。。。
義満亡き後も順調に出世して、兄には邸宅まで建ててもらってたのに恨み???
どうやら、出世したワリには所領が増えず、そのために困窮しているので
「所領を増やしてほしい」
と兄に訴えたものの、まったく聞き入れてくれなかった…と、、、
つまり、弟から兄への個人的な恨み…という事らしい。。。
いやいや、完全に関東と連携してたのでは?
と誰しもが考えます。
なんせ、義嗣さんの側室は上杉禅秀の娘さんなんですから。。。
ほどなく義嗣は相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)に幽閉されて出家するのですが、その後の取り調べで、細川満元や斯波義重(しばよししげ)や赤松義則(あかまつよしのり)らが事件に関与していた事が発覚。。。
さらに複数の近臣や大名たちが義嗣を後押ししていた事がわかったのです。
つまり、これは関東だけの反乱ではなく、それに乗じた幕府クーデターでもあったわけです。
かくして応永二十五年(1418年)1月24日、義持の命を受けた富樫満成によって義嗣が殺害されるのです。(自刃の説もあり)
享年25。
カリスマ父に溺愛され、一時は「王の座に就くかも」と噂された男の、アッと言う間の転落劇。。。
更なる調査によって、関東の反乱も義嗣が主導していた事が明らかとなり、山名(やまな)や土岐(とき)などの守護大名も与していた壮大なクーデターであった事がわかり、その後も多くの者が解任・流罪・死罪など言い渡されたと言います。
ただ…
「関東の反乱も義嗣が主導していた」
って死んだ後に言われても、もはや死人に口無し、、、
最初の最初である「親王並みの元服の儀」だって、義嗣自身が望んだ事ではないでしょうし、その後の昇進だって先代のお膳立てありきの出世なわけで・・・
義嗣自身は、本当に幕府を転覆させたかったのでしょうか?
ひょっとして、父や兄弟や周囲の大人たちに翻弄されただけだったのかも知れませんね~だったら悲しいな(ToT)
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