くじ引き将軍を産んだ丸投げ後継者選び~足利義持の死
応永三十五年(1428年)1月18日、第4代室町幕府将軍の足利義持が、次の将軍を指名しないまま死去しました。
・・・・・・・
すでに応永元年(1394年)に、第4代室町幕府将軍に就任していたものの、カリスマ的な先代の父のおかげで、思うように自身の手腕を発揮できていなかった足利義持(あしかがよしもち=義満の3男で嫡男)が、
応永十五年(1408年)5月、父=足利義満の死を受けて、ようやく自分の思い通りの政治ができるようになった事で、
まるで父を否定するかのように…
父の邸宅だった花の御所を捨て、
隆盛の集大成の北山第を解体し、
肝入りで始めた明(みん=中国)との貿易も中止したのでした(5月8日参照>>)。
(【日明貿易】も参照>>)
そんな義持の治世は、
朝廷との関係こそ良好だったものの、
応永二十三年(1416年)に東国で起こった上杉禅秀の乱>>からの関東との対立に、
応永二十六年(1419年)には外国から侵攻され=応永の外寇>>
未だくすぶる南朝勢力=後南朝>>、
と、徐々に平和が乱れつつあった時代でもありました。
やがて応永三十年(1423年)、17歳になった息子=足利義量(よしかず)に将軍職を譲り、自らは出家&隠居して道詮(どうせん)と号しました。
(ややこしいので名前は義持呼びで通します)
これには、かつて父の義満がやったように
将軍という身分に捕らわれず、自由に自らの政治手腕を発揮したかったから…とも、
いや、本気で仏教の道を突き進みたかったから…とも、
様々に推察されていますが。。。
ところが、その2年後の応永三十二年(1425年)2月、義量はわずか19歳で急死してしまうのです。
将軍不在となった室町幕府ですが、義持は新たな将軍を指名する事も、自身が将軍に返り咲く事も無く、「室町殿」として政務を取り仕切るのです。
これには、義量に兄弟が無く一人息子だった事もありましたが、何と言っても、すでに将軍という地位が有名無実となっていた事も大きいと思われ、江戸時代に例えるなら
「大御所」がいれば将軍がいなくても何とかなる
みたいな感じ?があったように思われます。
事実、義持は「室町殿」以外にも「公方様」や「御所様」と呼ばれて、実質的な将軍の役割を続けていました。
しかし、ここに来て、表向き平穏を保っていた関東がザワザワし始めます。
鎌倉公方(かまくらくぼう=関東を支配する足利分家)の足利持氏(もちうじ)が、
常陸(ひたち=茨城県)守護(しゅご=幕府公認県知事)の佐竹義憲(さたけよしのり)と佐竹祐義(すけよし)への対応や、
甲斐(かい=山梨県)守護の武田信重 (たけだのぶしげ)の在京問題について、
義持に相談すべく建長寺(けんちょうじ=神奈川県鎌倉市)の長老を京へよこして来たのですが…
実は、そのついでに(コッチが本題か?)
「室町殿にはお子がいてはれへんので、僕が猶子(ゆうし=何らかの意図がある養子縁組)になってご奉公しましょか?」
と、長老を介して申し出て来たのです。
あまりの事に困惑した義持は、
「答えようがない」
と言って拒否したようですが、
(一説には猶子になっていたとも…)
いや、明らかに将軍の座、狙ってますやん!
そんな中、応永三十四年(1427年)の9月21日に、幕府宿老で播磨(はりま=兵庫県南西部)守護であった赤松義則(あかまつよしのり)が死去・・・
この赤松の所領が播磨に加えて備前(びぜん=岡山県南東部)&美作(みまさか=岡山県北東部)と広大であった事から、一族による後継争いが生じたのです。
嫡子(ちゃくし=後継者)の赤松満祐(みつすけ)が全相続を訴えるも、義持は、懇意にしている赤松持貞(もちさだ=赤松家庶流)に一部を譲るよう持ち掛けて拒否する満祐に対し、
反対する管領(かんれい=将軍の補佐役・執事)らの意見を聞かず、幕府による赤松満祐討伐軍まで派遣しようとします。
しかし、そんなこんなしていた11月11日、なんと!赤松持貞の不倫が発覚・・・しかも相手は義持の奧さん(正室の日野栄子では無い模様)。
しかもしかも、それを暴露したのが、義持が最も信頼する高橋殿(たかはしどの=義満の愛妾)という女性。。。
文春砲ならぬ高橋砲によって発覚した事件に激おこの義持は、持貞に切腹を命じ、持貞は発覚から2日後の11月13日に自刃して果てました。
これにて赤松問題には終止符が打たれ、赤松満祐は無事に相続を認められ、幕府が討伐軍を派遣する事も無くなったわけですが、
この出来事は、
そもそも出兵に反対していた管領はもとより、出兵要請された者の中でも、張り切って討伐する気満々だった山名氏に対して、出兵を拒否した一色氏などなど・・・
無事に終わったとは言え、将軍と各守護大名たちとの間に亀裂が入った事は確かでした。
やがて年が明けた応永三十五年(1428年)正月・・・元日には元気に初詣し、6日には正月祝いの宴会までやってた義持が、8日の夕方になって風邪で発熱・・・それに伴って背中のデキモノがはれ上がって悪化します。
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)など各地で病気平癒の祈祷が開始される中、かなり重篤になった16日には、見舞いに訪れた僧侶に対し、義持は、
「43歳でこの世を去る事になるけど、何の不足も無いわ」
と語ったとか。。。
翌17日には、管領の畠山満家(はたけやまみついえ)をはじめ斯波義淳(しばよしあつ)、細川持元(ほそかわもちもと)、山名時熙(やまなときひろ)、畠山満慶(みつのり)ら幕府重臣が集まって今後の事を相談。。。
畠山満家と山名時熙の二人が代表して義持のもとへ参じ、
「後継ぎの事を決めて欲しい」
と直談判します。
しかし、義持は
「自分では何とも言えんから君らで決めて」
と丸投げ。。。
やむなく義持が信頼する醍醐寺(だいごじ=京都市伏見区)三宝院(さんぼういん)の僧=満済(まんさい・まんぜい)に相談し、もう一度、彼に義持の真意を確かめてもらう事に・・・
しかし満済に対しても義持は、
「例え実子がおっても自分では後継ぎを決めんつもりやった…まして子供がおらんのやから、とにかく、君らで話し合うて決めてくれ」
の一点張り。
そこで満済は、
「幸いな事に、ご兄弟がいらっしゃるので、その中からどなたかを指名していただけないでしょうか」
「それも無理なら、ご兄弟の名前を書いたくじ(籤)を作って、八幡宮の神前にてくじを引いて決めるというのはどうでっしゃろ」
義持は
「それはえぇ!くじ引き賛成!
ただし、僕が死んでからくじ引きしてな」
と指示したのでした。
早速、満済以下重臣の面々はくじを作り、その日のうちにくじ引きを決行・・・亡くなった後に開封する約束をして、その日の真夜中に、ようやく解散したのでした。
果たして、その翌日の
応永三十五年(1428年)1月18日の巳の刻(午前10時)・・・
義持は帰らぬ人となったのです。
重臣や大名が集まる中、一通りの焼香を終えた後、管領の畠山満家が昨夜引かれたクジを開封すると、
そこには『青蓮院義円(しょうれんいんぎえん=義満の4男か5男)』の名前が。。。
こうして誕生したのが、室町幕府第6代将軍=足利義教(よしのり)です(2016年6月24日参照>>)。
もう、この先の出来事を知っている我々からは、怖い未来しか見えません。
ところで、
メッチャやる気やったのにくじ引きに参加さえさせてもらえなかった鎌倉公方の足利持氏クン。。。このあと、思いっきりやっちゃいます。(【永享の乱】>>)
そして、その後はご存知、ブチ切れた赤松満祐による将軍暗殺=【嘉吉の乱】>>
世は波乱の展開へと進むのです。
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