皇室の権威復活を目指す~正親町天皇の戦国の歩き方
文禄二年 (1593年)1月5日、第106代正親町天皇が77歳で崩御されました。
・・・・・・
第105代の後奈良天皇(ごならてんのう)の第1皇子だった方仁親王(みちひとしんのう)が、父の崩御(ほうぎょ=死去の最高敬語)を受けて第106代正親町天皇(おおぎまちてんのう)として践祚(せんそ)したのは弘治三年(1557年)・・・41歳の時でした。
ちなみに践祚というのは、天皇の位を受け継ぐ事・・・この践祚をした事を天下万民に披露する儀式が、よく耳にする即位(そくい)という儀式なのですが、
残念ながら正親町天皇は、この即位の礼をすぐに行う事はできませんでした。
それは、41歳というかなりの年齢になっていながら、父の死を受けてやっと後を継いだ事とも無関係ではありません。
そう・・・この頃の天皇様は極貧だったのです。
そもそも奈良時代初め頃までは、天皇が崩御されたら皇太子が即位・・・というパターンだったのが、乙巳(いっし)の変(大化の改新)(6月12日参照>>)という変事から譲位した皇極天皇(こうぎょくてんのう=斉明天皇(重祚))に始まり(1月3日参照>>)、
その後、どうしても自身の直系に後を継がせたい持統天皇(じとうてんのう=第41代)が、未だ自分がシッカリしてる間に、15歳となった孫の文武天皇(もんむてんのう=第42代)に譲位して(8月1日参照>>)、自らは太上天皇(だじょうてんのう=もしくは上皇)となって若き天皇をサポートしたわけですが、
さらに、
平安時代に白河天皇(しらかわてんのう=第72代)が譲位して上皇となって院政を敷いて権力を握った事により(11月26日参照>>)、
「むしろ天皇でいるよりコッチがえぇやん」
とばかりに、平安~鎌倉初期あたりは頻繁に譲位が行われた事もありました。
しかし、この譲位・・・それに伴う儀式やら引越先確保やらなんやかんやに膨大な費用がかかるため(費用は朝廷負担)、お金が無いとできないのです。
…で、結局、この戦国時代頃は、先代が崩御されたため皇太子が後を継ぐ・・・という形になっていたのですが、冒頭に書いた通り、この正親町天皇時代の朝廷には、譲位どころか、即位の礼の費用さえ無かったため、
「とりあえず後継ぎました」
告知の践祚だけで精一杯。。。
やがて践祚から2年後・・・そんな正親町天皇の前に登場したのが安芸(あき=広島県西部)を中心に西国の覇王となりつつあった毛利元就(もうりもとなり)でした(11月25日参照>>)。
永禄三年(1560年)1月、元就からの支援を受けた正親町天皇は、ようやく即位の礼を行う事ができ、そのお礼に元就は陸奥守(むつのかみ)に任じられたうえ菊桐紋(きくきりもん=皇室の紋章) を賜りました。
また、多大な資金援助をしてくれた石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)の顕如(けんにょ)にも門跡(もんぜき=位階の高い寺院)の称号を与えて応えました。
そう・・・おそらくは、これで、正親町天皇は「戦国の歩き方」を知ったのです。
「こうなったら、使える権威を使いまくって朝廷を盛り上げよう」
と。。。
そんな時、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて、あの織田信長(おだのぶなが)が京に上って来ます(9月7日参照>>)。
「待ってました!」
と、ばかりに
信長到着の前の段階で、その安寧の祈念をするとともに
「上洛の時は兵士たちに暴れないように言っといてネ」
との綸旨(りんじ=天皇家の命令書)を出して熱烈歓迎の正親町天皇・・・
実は、先代の後奈良天皇の時代の天文十二年(1543年)に、お金が無くて荒れ放題になってる内裏(だいり=天皇の住まい)の塀を見かねて
「修理に使ってヨ!」
と四千貫文もの銭を朝廷に献上してくれた人が、誰あろう信長の父ちゃん=織田信秀(のぶひで)(3月3日参照>>)だったのです。
天皇家を大事にしてくれる
金持ちの坊ちゃんが来るぅ~o(^o^)o
信長の経済力によって朝廷を復興したい正親町天皇と、
天皇の権威で以って武士の頂点を目指そうという信長の、
利害関係が見事に一致したのです。
これには、奉じてもらった足利義昭も
「いよいよ国家安治なり~」
と大喜び。
そんな期待に応える信長は、正親町天皇からの要請の件ばかりでなく、でき得る限りの様々な皇室への施策を行います。
時は献金をし、時にはお宝を献上し、
朝議の復興や天皇家&公家領の回復、
さらに紫宸殿(ししんでん=内裏の正殿)や清涼殿(せいりょうでん=天皇の御殿)などの造営に加え、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)や伊勢神宮(いせじんぐう=三重県伊勢市)の復興まで・・・
これに応える正親町天皇も、信長に敵対する武将へ講和の勅命(ちょくめい=天皇の命令)を出したり、
(堅田の戦い>>・野田福島の戦い>>・義昭挙兵>>)
とっておきの宝物の蘭奢待(らんじゃたい=香木)を削らせてあげたり(3月28日参照>>)の大サービス。
とは言え、正親町天皇と信長の仲がず~っと良かったとも言いきれない…かも。
それは、天下が見えるようになった頃から、信長は、自分が懇意にしている誠仁親王(さねひとしんのう=正親町天皇の第1皇子)に早く天皇になってもらおうと、度々、正親町天皇に譲位を迫っていたとか・・・
ただし、これも諸説あります。
そもそも、この頃・・・すでに正親町天皇は57歳で誠仁親王は22歳。。。しかも、正親町天皇も寄る年波には勝てず、体調を崩して病に伏せる事も度々あったとか・・・
冒頭に書いた通り、正親町天皇が天皇位を継ぐのが41歳になったのは譲位の儀式をする余裕が無かったからであって、本来なら、成人した皇太子がいる以上、さっさと譲位して上皇になっても差し付けない=全然納得できる年齢だったわけです。
また、信長は譲位を無理強いしたという感じでもなく、正親町天皇も頑なに拒否してた感じもありません。
あくまで
「一つの提案」
として譲位の話が持ち上がっていたとの見方も充分できます。
さらに、提案として出ていた中で、正親町天皇の引越先である仙洞御所(せんとうごしょ=上皇&法皇の御所)の準備がまだできておらず、単に引っ越すに引っ越せないので譲位を先延ばしにしていた…なんていう説もあります。
なんせ昔は、信長が
「その武力を天皇に見せつけた」
と言われていた、あの御馬揃え(おんうまそろえ)も、今では、天皇側が
「見たい!見たい!」
と言うので、
「天皇さんが来はるんなら派手にやりまっさ」
でやった可能性が高いとされています(2月28日参照>>)。
この馬揃えは、信長が亡くなる前年の事ですから、そこまで険悪ムードでは無い気がします。
その後、ほどなく朝廷から
「信長を太政大臣か関白か征夷大将軍かのいずれかに任命する」
との案が出されます。
ただし、これにも諸説あって
「単に提案されただけ(誰もOKしてない)」
とも
「信長は天皇と誠仁親王に対してだけ返答していた」
とも言われます。
そう・・・
この話がウヤムヤなのは、この直後に信長が、あの本能寺の変で亡くなってしまう(6月2日参照>>)からです。
そして、ご存知のように、その後は、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)が台頭して来るようになる(10月15日参照>>)わけですが、
イメージ的にも「権威大好き!」そうな秀吉さん・・・
案の定、正親町天皇にも、黄金を献上したり、領地を献上したりして、天皇を後ろ盾にする気満々でハッスルするわけです。
やがて、
信長の死から4年後の天正十四年(1586年)に、(誠仁親王が薨去したため)孫の和仁親王(かずひとしんのう=誠仁親王の第1皇子)に譲位した正親町天皇は、文禄二年 (1593年)1月5日、77歳で崩御されます。
正親町天皇と信長が築いた二人の相互関係は、そっくりそのまま次代へと引き継がれ、
和仁親王=後陽成天皇(ごようぜいてんのう=第107代)と豊臣秀吉の蜜月が続く事になり、結果的に皇室の権威は大いに高まるのですが、そのお話は【後陽成天皇と豊臣秀吉】>>でどうぞm(_ _)m
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