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2024年1月11日 (木)

陣中の上杉謙信から養子・景勝への手紙

 

天正三年(1575年)1月11日、上杉謙信が、亡き長尾政景の二男の喜平次を養子にして加冠(かかん=初めて冠をつける事)し、景勝と名乗らせました。

・・・・・・・・

上田長尾家(うえだ ながおけ)の当主で坂戸城(さかどじょう=新潟県南魚沼市)の城主だった長尾政景(ながおまさかげ)と、

上杉謙信(うえすぎけんしん)異母姉だった仙桃院 (せんとういん=綾姫・仙洞院)次男として生まれた上杉景勝(かげかつ)。。。

幼名は卯松(うのまつ)、その後に喜平次(きへいじ)から長尾顕景(あきかげ)と名乗っていたところ、

天正三年(1575年)1月11日に叔父である上杉謙信の養子となって、名を上杉景勝と改め、謙信から弾正少弼(だんじょうしょうひつ=官職・弾正台の次官)を譲られたとされます。

とは言え、ここで名を改めた事で「正式に養子として…」となるものの、皆さまご存知のように、これ以前に、すでに養子同然の立場にあった事は知られています。

一般的には永禄七年(1564年)7月頃であろうとされます。

…というのは、以前、景勝の実母である仙桃院さんのページ(2月15日参照>>)で書かせていただいたように、この永禄七年(1564年)の7月5日に実父である長尾政景が宇佐美定満(うさみさだみつ)との野尻池での舟遊び中に、ともに池に落ちて溺死してしまった(7月5日参照>>)事を受けて、

母である仙桃院が、父を亡くした子供たちの行く末を案じて、今や関東管領となって活躍する弟に
「義景景勝は申すに及ばず 娘二人も御見捨てあるまじ」
(『北越耆談(ほくえつきだん)』より)

と託したとされ、

ならば、この父の死をキッカケに謙信の養子になったのであろうとの見方が強いのです。
(すでにこの数年前から…の説もあります)

後に、景勝と家督争いを繰り広げる、もう一人の養子=上杉景虎(かげとら)は、北条氏康(ほうじょううじやす)七男として景勝より2年前に生まれながらも、両家の同盟の証として永禄十三年(1570年)4月に謙信に連れられて越後にやってきて養子となり、そのまま上杉景虎と名乗っていますので、

つまりは
養子になった時期は景勝が先だけと、年齢と上杉を名乗ったのは景虎が先になる・・・
(だからモメるのねん)

とにもかくにも、今回の天正三年(1575年)1月11日以前に、すでに景勝が謙信の養子扱いとなっていたであろう事が垣間見えるのが、国宝に指定されている景勝宛ての謙信の書状です。

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上杉家文書(米沢市上杉博物館蔵)謙信書状

2月13日の日付はあるものの年数が書かれていないのですが、その内容は…

「何度も、心のこもったお手紙、うれしいです。
いよいよ字が上手になって来たみたいですから、
字のお手本を送るね。
ほんで、戦勝祈願したお守りも届けてくれて、ありがとうね。
コッチが落ち着いたら帰るんで、また、いっぱいお話しましょう」

そして、この手紙と一緒に送られた「お手本」というのがコチラ↓
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上杉家文書(米沢市上杉博物館蔵)仮名手本

おそらくは合戦に出陣している謙信に向けて、戦勝を祈祷したお守りを送った景勝に対し、いかにもやさしいお父さんっぽく返信している謙信・・・養父×養子の関係がうまくいってる様子がうかがえますね~

…で、この年数の書いてない謙信書状なんですが、

最後のところに、日付とともに「旱虎(花押)
行を変えて「喜平次殿」とあります。

ご存知のように、上杉謙信のもとの名は幼名=虎千代(とらちよ)から、天文十二年(1543年)に元服して長尾景虎(かげとら)。。。

その後、兄とのなんやかんやを制して長尾家を一つにまとめた後、あの川中島(4回目)(9月10日参照>>)の半年前の永禄二年(1559年)の閏3月に、

関東から逃げて来ていた上杉憲政(のりまさ)から山内上杉家の家督と関東管領職(かんとうかんれいしょく=関東公方の補佐役)を相続して上杉政虎(まさとら)と名乗り(6月26日参照>>)、13代室町幕府将軍=足利義輝(あしかがよしてる)(12月20日参照>>)に謁見して(4月27日参照>>)

その2年後の永禄四年(1561年)12月に、将軍の義輝から一字を賜って上杉輝虎(てるとら)と名乗っています。

上記の書状に署名してある「旱虎」「旱」「ひでり」という文字ですが、音読みの「テル=輝」の当て字として書いてあるので「旱虎」は「てるとら」ですね。

そして永禄十三年(1570年)4月、北条と和睦して越後に連れ帰って来た北条三郎(氏秀?)を大いに気に入って、かつての自身の名である上杉景虎を名乗らせた後、その年の暮れからは法号の「不識庵謙信」と号する=上杉謙信となるので、

上記の年数の無い書状は、おそらくは景勝が父を亡くして養子の話が出て来たであろう永禄七年(1564年)7月から、永禄十三年(1570年)12月の間に書かれた物という事になるわけです。

戦国と言えど、父と子の間には、何やらほのぼのとした空気が流れるものですね。

とは言え
結局は、この後、謙信亡き上杉家を巡って争う事になる上杉景勝と上杉景虎【御館の乱】参照>>)・・・

こうして景勝に愛情を注ぎ、景虎も大いに気に入っていた謙信の姿を垣間見ると、
個人的には、弾正少弼と関東管領を分け合って、ウマイ事やって行けんかったんかなぁ~って思いますが、

それは昨年のアノ方お得意の
「奪い合うのではなく、与えあうのです!キリッ」
な、お花畑の考え・・・やはり、世は戦国なのですな。
 .

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コメント

こんにちわ、茶々様。
今日も相変わらず 歴史好きにとってマニアックなツボをグリグリ押されて『気持ち良い!』ではなく『面白かったです!』。

>こうして景勝に愛情を注ぎ、景虎も大いに気に入っていた謙信の姿を

こんな場面はドラマ・映画・小説・歴史漫画には全く出てきませんからね(^^)!
でも内心どう考えていたのか興味がわきますね。甥をとるか、北条との同盟をとるか...。

本人に聞いてみたいですが出来ないのが歴史の面白さですね!


今日も茶々様に感謝です!

投稿: DAI | 2024年1月11日 (木) 17時53分

DAIさん、こんばんは~

>本人に聞いてみたい

ホントですね~

素人目には「やっぱ血を分けた甥っ子の方がカワイイでしょう?」とも思うのですが、

実際には、景勝実父の長尾政景って方は、ずっと謙信の兄推しで、あの池没入も事故ではなく謙信の命だったって話もあるくらいな人ですから、

ひょっとしたら、他人とは言え自身の名を受け継がせた景虎の方が可愛かったのかも?
って思っちゃいますよね~

わからないですが、そこがオモシロイ

投稿: 茶々 | 2024年1月12日 (金) 02時06分

15年前の大河ドラマ「天地人」の第1回目では、長尾政景が死んで間もない時期に、少年だった喜平次が謙信の養子になった、との描写がありましたね。

10年ほど前から内心考えているのですが、2030年は上杉謙信の生誕500年になるので、そこで映画化か大河ドラマ化を模索している新潟の有志の会の人もいるのでは?

投稿: えびすこ | 2024年1月12日 (金) 09時41分

えびすこさん、こんばんは~

>映画化か大河ドラマ化を模索している新潟の有志の会の人もいるのでは?

いるのでは?どころではないと思いますよ。
最近は、どこもかしこも誘致合戦がスゴイです。

ま、今はちょっと落ち着いた感じですが、それでも各県挙げての応援が繰り広げられてますね~

投稿: 茶々 | 2024年1月13日 (土) 01時29分

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