無人島長平のサバイバル生き残り~鳥島の野村長平
天明五年(1785年)1月30日、後に無人島長平と呼ばれる事になる野村長平が遭難…12日後に鳥島に漂着します。
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鳥島(とりしま)は、伊豆諸島に属する一つの島です。
★鳥島の位置(クリックで大きく)→
(背景は「地理院地図」>>)
小笠原諸島よりは本州に近いものの、東京から約600kmほども南にある孤島ですが、何と言っても特筆すべきは、その独特な自然環境・・・
いくら離島であっても草木生い茂る美しい自然があれば人は住め、伊豆諸島や小笠原諸島にも多くの有人島がありますが、
この鳥島は、
水も無く、草木も無く、小動物もいない火山島…
明治の一時期、入植者によって開発された事もありましたが、ほどなく噴火の被害によって島民全員が死亡するという痛ましい出来事もあり、
結果、今現在でも無人島で、近寄る事が困難なくらいの現役火山活動マックスな不毛の島なのです。
ところが、なぜか、これまで何度もこの島に、人が引き寄せられるように漂着するのです。
もちろん黒潮などの海流によって…なのでしょうが、
有名なところでは、あのジョン万次郎こと中浜万次郎(なかはままんじろう)も(1月3日参照>>)、この鳥島に漂着した漁師の1人だったわけですが、なんだかんだで万次郎は、わずか4ヶ月でアメリカの捕鯨船に救助されています。
(もちろん、それでも大変ですが…汗)
しかし、実は、そんな鳥島に12年もの長きに渡って取り残されたうえに、無事に自力で生還した人が江戸時代にいたのです。
それは天明五年(1785年)1月30日の事、
この日、土佐(とさ=高知県)の松屋儀七(まつやぎしち)という商人が所有する三百石船で、赤岡(あかおか=高知県香南市)から田野(たの=高知県田野町)へと蔵米(くらまい)を運んでいたのが、
彼は、この時、働き盛り22~3歳の若者で、この三百石船の船頭を務めておりました。
しかし、その仕事を終えた帰り道…船は土佐沖で発生した嵐に遭遇してしまうのです。
想定以上の嵐に木の葉のように揺れ動く三百石船は、もはや操縦不能・・・やがて室戸岬を越え、おそらく黒潮に流され、揺られ揺られた12日後に無人島に漂着・・・それが、鳥島だったわけです。
何人かいた乗組員の中で、長平とともに何とか鳥島に漂着したのは3名。。。
何とか生き残ろうと試行錯誤する長平たちの唯一の救いは、
この鳥島が、冬季になると繁殖のために日本近海へ渡って来る渡り鳥=アホウドリ(ミズナギドリ目=現在は特別天然記念物)の繁殖地であった事。。。
繁殖の一時期だけやって来るこの鳥の、肉や卵を生食し、多く捕ったぶんは干し肉にして保存し、鳥がいない夏場をしのぎました。
それ以外は、自力で取った少量の海産物と、アホウドリ卵の殻に溜めた雨水・・・
もちろん、鳥の肉以外も無駄にせず、羽根で衣服や敷物を作り、脂肪は油として使用しました。
月の満ち欠けを観察して年月もシッカリ把握し、とにかく生還する事だけを考えて生き抜く毎日。。。
しかし、ともに漂着した3人は、漂着からわずか1~2年後の間に相次いで亡くなり、その後は長平一人になってしまったのです。
そんな天明八年(1788年)1月29日、大坂北堀江(きたほりえ=大阪府大阪市)の備前屋亀次郎(びぜんやかめじろう)所有の船の11人が鳥島に漂着して来たのです。
孤島でのサバイバルは続くものの、1人と12人では、なんだかんだで希望の持ちようが違いますし、なんと、この11人は火打石など、少々の道具を持っていたのです。
長平は、ようやく生肉生食から解放されました。
さらに2年後の寛政2年(1790年)1月末頃に日向(ひゅうが=宮崎県)は志布志(しぶし=宮崎県志布志市)の中山屋三右衛門(なかやまやさんえもん)の船の6人が漂着し、
島の住人(と言っていいのか?)は合計で18人に・・・
そのため、彼らそれぞれが持っていた少々の道具を集めると、鍋や釜、大工道具なども揃い、様々な事ができるようになります。
1番先輩の長平と、大坂船と志布志船から一人ずつの3名がリーダーとなって、住居や食糧確保、運搬のための道の整備に、飲料水確保のため池作りなど、皆で分担しながら進めていきますが、
その間、
これまでに1度も近くを通る船の影さえ見えなかった事、
また、かつて漂流したであろう人が残してくれていた釘を見つけた事、
さらに、仲間の中に船大工経験者がいた事、
などから、いつしか彼らは自分たちで船を作り、自力で島を脱出する事を考え始めます。
自作の道具を作り、流木を集め、貴重な衣類を帆に縫い合わせ・・・
やがて造船を決意してから5年ほどの歳月が流れた寛政九年(1797年)6月8日、約9mの船を完成させた彼らは、意気揚々と鳥島を後にしたのです。
残念ながら、このサバイバル生活の間に4人の仲間が亡くなり、脱出船に乗り込んだのは長平を含めて14人でしたが。。。
その船は数日の航海で青ヶ島(あおがしま=東京都青ヶ島村)に到着し、さらに自力で八丈島(はちじょうじま=東京都)までたどり着いたのです。
もちろん、そこで幕府代官の調べはあるものの、そんなの、島の生活に比べりゃ屁のカッパ・・・さらに、幕府の船で江戸へと送られる彼らですが、ここの取り調べも大したこたぁありやせん。
その後、生死をともにした仲間と江戸にて別れた長平は、寛政十年(1798年)1月、13年ぶりに、故郷=土佐に帰還しますが、
なんと!この時、実家では長平の13回忌の法要が行われている真っ最中だったとか・・・
(確かに…遭難したんも1月やからね)
その後、彼は土佐藩から「野村(のむら)」という姓を賜って野村長平(のむらちょうへい)と名乗り、各地で、その体験談を語る講演会を開いては「無人島長平」の名で親しまれたそうです。
やがて妻子にも恵まれて60歳くらいまで生きたらしい。。。
てな事で、漂流生活以外は概ね、平和で幸せな人生を送られたという事で、よかったよかった(^o^)
ちなみに、江戸時代の記録では、長平ら以外にも15件122人ほどが鳥島に漂着した事が記されているそうですが、
その方々のお話は、またその日の日付にて、おいおいご紹介させていただきたいと思います。
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