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2024年2月29日 (木)

坂本龍馬とお龍が鹿児島へ~二人のハネムーン♥

 

慶応二年(1866年)2月29日、寺田屋事件で負傷した坂本龍馬と妻のお龍が、身の安全と怪我の療養を兼ねて鹿児島へ向かうため京都を発ちました。

・・・・・・・・

慶応元年(1865年)3月、幕府軍艦奉行勝海舟(かつかいしゅう)が失脚し、わずか1年足らずで海軍訓練所が閉鎖されてしまったため、神戸にいた坂本龍馬(さかもとりょうま)らは、その勝の計らいで西郷吉之助(さいごうきちのすけ=西郷隆盛)に預けられ、薩摩藩(鹿児島県)の大坂屋敷に身を潜めます。

そしてその2ヶ月後の閏5月、薩摩藩の後援で長崎にて貿易会社=亀山社中(かめやましゃちゅう)を設立します。

それこそ、支援する者される者…それぞれの思惑&儲けどころは様々でしょうが、訓練所の生徒にとっては物資を運ぶことによって航海技術を磨く事ができるし、薩摩藩としてはここで恩を売っとけば、必要な時に彼らの航海技術を使用する事もできるし、

相手によっては武器や兵器などの調達を表だってできないグラバー(イギリス人貿易商)(8月23日参照>>)の代わりに密かに動く事も可能・・・

なので、亀山社中は貿易会社でありながら血気盛んな志士を抱える武士集団という事になります。

しかも、薩摩藩の息のかかった。。。。

そんな中、元治元年(1864年)の禁門の変(7月19日参照>>)によって朝敵(ちょうてき=国家の敵)となった長州藩(山口県)に対しての幕府による第二次長州征伐が模索され始めた頃(5月22日参照>>)

この第二次征伐には反対の意を薩摩藩が持っている事を聞かされた坂本龍馬は、すでに、長州で保護されている三条実美(さんじょうさねとみ)を説得して薩長同盟への内命を取り付けていた、同じ土佐(高知県)出身の中岡慎太郎(なかおかしんたろう)(8月6日参照>>)とともに仲介に入り

慶応二年(1866年)1月22日に薩長同盟の成立(1月21日参照>>)へと漕ぎつけました。
(※薩長同盟における龍馬の活躍ぶりがヒーロー過ぎる…と思う方はコチラ>>もどうぞ)

…で、その翌日の23日、伏見(ふしみ=京都市伏見区)寺田屋にて、長府(長州の支藩)三吉慎蔵(みよししんぞう)同盟の経緯について説明していた龍馬が、伏見奉行配下の役人の襲撃を受ける、あの寺田屋事件が起こるのです(1月23日参照>>)

指に深手を負いながらも脱出して薩摩屋敷に逃げ込んだ坂本龍馬。。。

その薩摩屋敷にて家老小松帯刀(こまつたてわき=清廉)(7月17日参照>>)から身の安全と療養を兼ねて
「ともに九州へ…」
と誘われた龍馬は、寺田屋で働いていたお龍(楢崎龍)を連れ、慶応二年(1866年)2月29日京都を出発したのです。

その後、3月4日に大坂港に停泊していた薩摩藩の三邦丸(みくにまる)に乗船し、一路、九州へ・・・

途中、一緒に来た友人の中岡&三吉と下関で別れ、龍馬とお龍はそのまま鹿児島へ向かいますが、
これが龍馬とお龍の日本初の新婚旅行と言われています。

…と、有名なお話に水を差すようで恐縮ですが、一応歴史ブログなので、重箱の角を突かせていただくと、

まずは
この頃の龍馬とお龍は内縁関係になってすでに1年以上も経ってるので、新婚さんと言えるかどうかは人によって微妙なところ。。。

また、日本初というのも、
もう10年前くらいに、かの小松帯刀が、それこそ新婚の時に霧島の温泉旅行に行ってるし、あの木戸孝允(きどたかよし)も元治元年(1864年)に幾松(いくまつ)さんを連れて城崎温泉に行ってるので(4月10日参照>>)

残念ながら、今では日本初の新婚旅行は小松帯刀夫婦って事になってるようです。

ま、そもそも平安の昔から、事あるごとに「○○詣」や「○○参り」なんてのが定期的に流行ってますし、これも旅行と言えば旅行なので、お公家さんや殿様なんかが、昔々からすでにやってた気がしないでもない・・・なので日本初というのは棚の上に置いときましょう。

・・・で、話が少しソレましたが、

鹿児島に着いた龍馬とお龍は、薩摩藩士の案内で当山温泉塩浸温泉栄之尾霧島などを約1か月半かけて廻ったと言いますが、何と言っても有名なのは、二人で高千穂峰に登った時の、あのお話ですね。

これまた有名な乙女(おとめ)姉さん(8月31日参照>>)宛ての龍馬の手紙に詳細に書かれていて、なんだか和むエピソードとして知られています。

Ryoumakyuusyuutegami500a
姉乙女宛書状(京都国立博物館蔵)

そう・・・高千穂峰の山頂にあった天ノ逆鉾(あめのさかぼこ)を引き抜いてしまうアレです。

この高千穂峰の山頂には、いつのほどからか天ノ逆鉾と呼ばれる剣が突き立てられていて、これは天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が天から地上へと降り立った=いわゆる「天孫降臨(てんそんこうりん)した時に目印として投げたのが刺さったという伝説のあるシロモノ。。。

ところが、手紙によると、これを龍馬が
(略)…はるばるのぼりしに かよふなる
 おもいもよらぬ天狗の面があり
 げにおかしきかおつきにて
 大いに二人り笑たり
 …(略)
 両人が両方よりはなおさへて
 エイヤと引ぬき候時は
 わずか四五斗のものにて候間
 又また本の通りおさめたり…(略)

「山頂に登ってみると、
逆鉾には変な天狗の面がついてて、
それが、またオモロイ表情してたから
二人でメッチャ笑てん…
ほんで二人で両端を押さえて
エイッっ引き抜いてみたら、
1mチョイの長さしかなくて(←たぶんオモロなかった?)
また、もとに戻しときましたわ」

前も、お龍さんのページ(11月15日参照>>)に書かせていただきましたが、コレ、けっこうDQNですよね?

由緒や歴史ある史跡に落書きしたり汚したり・・・今だと警察沙汰ですが、ま、坂本龍馬だし昔の事だし…で、許されてる感ありますな。

まぁ、ドコドコ行ったという記録だけでけなく、なんとなく楽し気な二人の雰囲気が、この手紙によって垣間見えるところが、この鹿児島旅行が「日本初のハネムーン」と称される所以なのでしょうね~

とは言え、先に書いた通り、この旅行は、わずかひと月半・・・

6月には、龍馬は一人で下関へと向かい、亀山社中も参戦した関門海峡での長州征伐を、高杉晋作(たかすぎしんさく)ともに観戦する事になるのですが、そのお話は2009年6月16日の【小倉石州口攻防戦】のページ>>でどうぞ。

前後の出来事については【幕末維新の年表】>>からくわしく
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2024年2月21日 (水)

平清盛の計画通り~高倉天皇から安徳天皇へ譲位

 

治承四年(1180年)2月21日、時の高倉天皇が、次代の安徳天皇に譲位しました。

・・・・・・・・・

第80代の高倉天皇(たかくらてんのう)は、第77代の後白河院(ごしらかわいん=元天皇)第7皇子です。 

生母は、堂上家(どうじょうけ=桓武平氏高棟流)平時信(たいらのときのぶ)の娘=平滋子(しげこ=後の建春門院)ですが、この堂上家というのは、桓武平氏(かんむへいし=桓武天皇の子孫)の中でも、

Kanmuheisikeizu_2 ★桓武平氏系図→(クリックで大きく)

都に留まり公卿(くぎょう=上級貴族)として政務を行う家柄の平氏で、平滋子の姉に、あの平清盛(きよもり)継室(けいしつ=後妻)となった平時子(ときこ=後の二位の尼)がいます。

ちなみに平清盛の家系は、同じ桓武平氏でも伊勢平氏(いせへいし)で、地方に下って武士となった中の関東地方(坂東)に下った坂東平氏(ばんどうへいし・坂東=関東)の家系です。

…て、事で、つまりは高倉天皇は、平清盛&時子夫妻の甥っ子という事になります。

・‥…━━━☆

そもそもは、自身の第1皇子である二条天皇(にじょうてんのう=第78代)皇位を譲って院政をやっていた後白河院・・・

平清盛が隆盛を誇るキッカケにもなった平治元年(1159年)の平治の乱(↓参照)では、
 【乱勃発と信頼】参照>>
 【さらし首になった信西】参照>>

清盛が敵方に捕らわれた二条天皇を救出して(12月25日参照>>)勝利に導く大活躍をするほど、白河×二条×清盛の仲は良好だったわけですが、

しかし応保元年(1161年)9月に後白河院の第7皇子として憲仁(のりひと=後の高倉天皇)が生まれた事で、未だ皇子のいなかった二条天皇の後継に、その第7皇子を擁立しようという動きが起こったため、

この動きにお怒りの二条天皇は、皇子誕生直後の9月15日に、これまで重要な役どころを担っていた平時忠(ときただ=時子の弟)平教盛(のりもり=清盛の弟)を解雇し、後白河院の院政を停止させ、自らの手で親政を行う方向に持って行くとともに、周囲を親二条天皇派で固め始めたのです。

ところが長寛三年(1165年)2月に、二条天皇を支え続けてくれていた太政大臣(だいじょうだいじん=政務の長官)藤原伊通(ふじわらのこれみち)が亡くなり、

ほどなく二条天皇自らも病に倒れた事から、6月には前年に生まれたばかりの実子=順仁(のぶひと=当時は生後7ヶ月)太子に立てて、その日のうちに譲位して順仁を第79代=六条天皇(ろくじょうてんのう)として自らは太上天皇(だじょうてんのう=天皇経験者)となったのですが、残念ながら翌月の7月に、二条天皇は崩御されたのです。

皇位に着いた六条天皇は生後7ヶ月の天皇なので、当然、後継者はおらず・・・こうして、3歳年上の憲仁親王が皇太子に立ったのです。

もはや先が見えた展開ですが、その予想通り、、、
Takakuratennou600a 六条天皇は、仁安三年(1168年)2月、わずか2年で退位させられ(当時は満3歳)8歳の憲仁親王が第80代の高倉天皇となって、政務は父の後白河院が院政を敷く事に。。。

もう、完全に後白河×清盛の強力タッグの独壇場!
(この前年に清盛は太政大臣に就任)

承安元年(1171年)12月には、清盛と時子の娘である徳子(とくこ=後の建礼門院)入内 (じゅだい=正式に宮中に入る事)(12月14日参照>>)して、高倉天皇の中宮(ちゅうぐう=皇后並みも妃)となりました(2月10日参照>>)

しかし、
ここに来て、後白河院と清盛を繋いでいた糸が切れます。。。

そう、両者の間に立って潤滑剤の役割を果たしていた高倉天皇の生母で時子の妹=平滋子が亡くなったのです(7月8日参照>>)。

徐々に表れ始めた後白河院と平清盛との間の亀裂が露わになるのは、滋子の死からわずか1年後の治承元年(1177年)5月・・・あの鹿ヶ谷の陰謀が発覚するのです(5月29日参照>>)

そんな中で、翌治承二年(1178年)11月に徳子は待望の高倉天皇の皇子を産む事に・・・この皇子=言仁(ときひと)が後の安徳天皇(あんとくてんのう=第81代)です。

さらに早くも誕生の翌月には 言仁親王が皇太子に立てられ、もはや完全にレールは敷かれました。

そして治承三年(1179年)11月、清盛は、突如として後白河院を幽閉し、その近臣や関白以下・公卿39名を解任して政権を掌握するクーデター=治承三年の政変を決行したのです(11月17日参照>>)

かくして、その翌年の治承四年(1180年)2月21日、弱冠二十歳の高倉天皇が、三歳(満1歳の安徳天皇に譲位したのです。

『平家物語』には、人々が口々に
「早すぎる譲位だ」
と噂した事が記されています。

これにより、天皇の外戚(がいせき=母方の親戚)=外祖父母となった平清盛&時子夫婦は、准三宮(じゅさんぐう=天皇の近親者に相当)の宣旨を受け、年爵(ねんしゃく=爵位権)を与えられた事で、

清盛は、宮中の出仕者を自らの使用人として使う事ができたたため、彼らの屋敷は、まるで御所のように華やかになったのだとか・・・まさに、清盛全盛期ですね。

一方、皇位を譲った高倉上皇は、退位した天皇がまず行幸する通例の場所となっている石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)春日大社(かすがたいしゃ=奈良県奈良市)などではなく、今回は厳島神社(いつくしまじんじゃ=広島県廿日市市)への行幸を希望・・・

異例の場所への参拝を、人々は、
「やっぱり、平家に気ぃつかってはるんちゃう?」
と、平清盛が愛してやまない厳島神社をチョイスした事に違和感を覚えて噂し合ったのだとか・・・

そして、3月上旬の出立の際、高倉上皇は未だ幽閉状態にある後白河院に面会した後、旅の途に・・・参詣を終えた後は、これまた清盛が愛してやまない福原(ふくはら=兵庫県神戸市・後に遷都される場所)の地にわざわざ立ち寄って、清盛の山荘をご覧になるというサービスまで。。。

こうして高倉上皇が都にお戻りになったのは4月8日・・・そして、その約半月後の4月22日に、清盛の仕切りによる安徳天皇の正式な即位式が行われる事になるのです。

しかし、この一連の流れを苦々しく見ていた人が・・・

それが、後白河院の第3皇子でありながら、30歳になった今でも親王宣下(しんのうせんげ=皇位を継ぐ事ができる皇子の称号)さえ受けていない不遇の人生を送っていた以仁王(もちひとおう)でした。

この以仁王が、全国の反平家に対して平家討伐の令旨(りょうじ=天皇家の人の命令書)を発するのが4月9日(4月9日参照>>)。。。

その令旨は5月10日に、伊豆(いず=静岡県)にいる源頼朝(みなもとのよりとも)(頼朝がなぜ伊豆にいるか?は2月9日参照>>)に届きますが、すぐには動かなかった事で、残念ながら5月26日に以仁王は敗退(2009年5月26日参照>>)・・・

やがて3ヶ月後の8月17日に頼朝が挙兵(8月17日参照>>)
遅れる事半月の9月7日に木曽(きそ=長野県)源義仲(よしなか=頼朝の従兄弟(義仲がなぜ木曽にいたかはが8月16日参照>>)初陣を飾り(9月7日参照>>)

いよいよ治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)=源平の争乱が始まる事になります。

その後のお話については…
 平安後期・源平争乱の年表>>
 平清盛と平家物語の年表>>
 源頼朝の年表>>
 源義経の年表>>
 木曽義仲(源義仲)の年表>>
の、お好きな年表からどうぞm(_ _)m
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2024年2月14日 (水)

武田信玄の重臣~板垣信方、上田原に散る

 

天文十七年(1548年)2月14日、武田信玄の重臣=板垣信方が上田原の戦いにて戦死しました。

・・・・・・・・

板垣信方(いたがきのぶかた=板垣信形)は、甲斐(かい=山梨県)守護(しゅご=県知事)である武田信虎(たけだのぶとら)信玄(しんげん=晴信)父子2代に仕えた家臣で、武田二十四将武田四天王の1人に数えられ、もう一人の譜代家老である甘利虎泰(あまりとらやす)とともに「両職」という武田家最高職を任されていた重臣です。

戦国屈指の名将として知られる武田信玄ですが、その若き頃には、合戦はもちろん領国経営や政事にもまったく興味がなく、自分の気に入った者だけを家に呼び、遊び惚けて昼夜逆転生活を送っていた引き籠り兄ちゃんだったのです。
(一人で引き籠ってないのでちょっと違うかもしれんが…)

主な遊びは、仲間内で詩歌を創っちゃぁワイワイがやがや・・・ただ、それで身を立てようと、ちゃんとしたバンド活動やってたなら、まだワカランでも無いが、そうではなく、完全遊び感覚の坊ちゃんの趣味だったわけで。。。

Itagakinobukata400as 当時から信玄の傅役(もりやく・ふやく=世話係&教育係)であった板垣信方は、再三に渡って、その生活ぶりを正すよう信玄に忠告するのですが、
「あくまで一家臣やん!」
と、はなから信方を小バカにしている信玄が言う事を聞くワケもなく。。。

そこで信方は、自身が武勇を誇る武人であるため、これまで文芸にはまったく興味が無かった中、一念発起して知り合いの僧侶のもとに通って詩歌のアレコレを教えてもらうのです。

やがて猛勉強した信方は、詩歌の創作に没頭している信玄のもとに向かい、目の前で一首の詩歌を創って披露・・・

武勇一本で芸術方面の事は疎いと思っていた信方が見事な歌を詠んだ事で驚く信玄に、

「苦手な事も頑張ればウマくなる」
「やれば、できる!」
と説得して、信玄を改心させたのだとか・・・(ホンマかいな?)

とは言え、弟が優秀過ぎて、父の興味が弟にばっかり向いて、遅めの赤ちゃん帰りでふてくされていた信玄が、ここらあたりから武将としての道に目覚めて本腰を入れ始めた事は確か。。。

やがて、ご存知のように、信玄は、父の信虎を追放して武田家を継ぎ(6月14日参照>>)甲斐の虎となっていくわけですが、もちろん、この信虎追放劇の時にも、信玄にピッタリ寄り添う信方の姿があったのです。

信玄が天文十一年(1542年)から行った信濃(しなの=長野県)攻略(7月3日参照>>)にて新たな領地となった諏訪(すわ=長野県諏訪郡)では、重臣として信玄の補佐をし、その領地経営を軌道に乗せ

その後の天文十三年(1544年)から始まる伊那侵攻(10月29日参照>>)でも、福与城(ふくよじょう=長野県上伊那郡箕輪町)攻め(11月2日参照>>)にて敵に与する支城を攻略して福与城を孤立させたり、

天文十六年(1547年)の志賀城(しがじょう=長野県佐久市)攻略(8月17日参照>>)でも、別動隊を指揮して信玄の勝利に貢献しました。

ちなみに、
「駿河(するが=静岡県東部)に築城技術に長けた牢人がいる」
と、後に名軍師として知られる事になる、あの山本勘助(やまもとかんすけ)を見つけて来て信玄に紹介したのも板垣信方だとされています。

とは言え、
あまりの信頼度に慢心したのか?
歳いって「老」が出て来ちゃったのか?
晩年の板垣信方は、合戦でミスしたりルール破りがあったりして、

信玄から
♪誰もみよ 満つればやがて 欠く月の
 十六夜ふ空や 人の世の中 ♪
「月も満ちたら欠けるだけやねんで~」
てな歌を送られて諌められています。
(信方の馬印が三日月なので「月」にかけてます)

それでも信玄は信方を重臣として重用し続けました。

そんなこんなの天文十七年(1548年)2月14日、信玄が、北信濃村上義清(むらかみよしきよ)を討つべく出陣した上田原(うえだはら=長野県上田市上田原)の戦いにて、

先陣を切った板垣信方は、猛攻撃を仕掛けて村上勢を打ち払い、見事勝利を収めたものの、なぜか、すぐさま敵前にて首実検を開始・・・

その油断を突いて反撃に出た村上勢に、フイを付かれた板垣勢は大混乱に陥り、信方は、慌てて馬に乗ろうとしたところを討ち取れたと言います。

こうして先陣が崩れた事によって後方の本隊も乱れはじめ、やがて信玄自身も負傷し、この日の戦いは武田軍の敗北となってしまったのです。

初めての敗戦に納得がいかない信玄は、わざと勝鬨(かちどき)を挙げて、なかなか戦場を離れようとしなかったとか。。。(2008年2月14日参照>>)

若き信玄の傅役として気を配り、常に傍らで戦い、両職として重用された板垣信方は、

おそらく60歳くらいで、その生涯を閉じますが、武勇の将として戦場で散るのは、ある意味本望であったかもしれません。

♪飽かなくも なほ木のもとの 夕映えに
 月影宿せ 花も色そふ ♪ 板垣信方:辞世
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2024年2月 6日 (火)

関東支配を目指す北条氏綱と岩槻城の太田資頼

 

大永五年(1525年)2月6日、北条氏綱が太田資頼を攻め、岩槻城を落城させた岩槻城の戦いがありました。

・・・・・・・

第6代室町幕府将軍足利義教(あしかがよしのり)の御代に、第4代鎌倉公方(かまくらくぼう=幕府公認の関東支配者)足利持氏(もちうじ)のが反発し【永享の乱】参照>>)、その遺児である足利成氏(しげうじ)までもが古河公方(こがくぼう=茨城県古河市を本拠とした事から)を自称して中央幕府に反発し始めた事から(9月30日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

将軍義教は正式な鎌倉公方として足利政知(まさとも)を関東に派遣しますが、あまりのグチャングチャ感に鎌倉に入れない政知は、やむなく堀越(ほりごえ・ほりこし=静岡県伊豆の国市)に居を構え堀越公方(ほりごえ・ほりこしくぼう)と呼ばれるようになります。
 .

やがて、そんな堀越公方の2代目(←諸説あり)足利茶々丸(ちゃちゃまる=政知の息子)を倒して(10月11日参照>>)関東支配に乗り出した北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)・・・

Houzyouuzituna300a 永正十六年(1519年)に早雲の死を受けて2代目となった北条氏綱(うじつな)は、古河公方4代目を継いでいる足利晴氏(はるうじ)(芳春院)結婚を機に急接近・・・晴氏から関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐役)を任された氏綱は、いよいよ父の夢であった関東支配に乗り出す事に。。。

(事実的に関東管領だったのか?微妙ですが、この時代、関東公方ですら幕府公認と自称と複数いるので、その補佐役である関東管領が複数になるのもアリかな?と…)

そうなると、当然の事ながら幕府公認の関東管領を代々担って来た扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)上杉朝興(うえすぎともおき)とも敵対関係になるわけで・・・

かくして大永四年(1524年)正月、上杉の家臣であった太田資高(おおたすけたか=太田道灌の孫)太田資頼(すけより=←資高の従兄弟)の内応を得た氏綱は、高輪の原(たかなわのはら=品川区高輪)の戦いにて勝利し、江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を手に入れたのです。
(くわしい経緯は1月13日参照>>)

これを受けてやむなく河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)へと逃れる上杉朝興。。。

その後も江戸城周辺でゲリラ的動きを見せる朝興は、同盟関係にある甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)援護を依頼し、2月には猿橋(さるはし・えんきょう=山梨県大月市猿橋町)にて武田VS北条の戦い(2月11日参照>>)が繰り広げられる中、

7月には、その武田信虎によって太田資頼の岩槻城(岩付城:いわつきじょう=埼玉県さいたま市岩槻区)が攻撃され、太田資頼を再び反・北条に寝返りさせるなど、信虎は大活躍・・・

なんせ、北条の関東支配が拡大すれば、甲斐も危ういですからね~

しかし、それらの動きに対して様々なけん制をかける氏綱の動きを見て、関東周辺の武将たちにも徐々に北条寄りになる者も。。。

そんな中、その年の10月になって、時の関東管領(幕府公認のほう)上杉憲房(のりふさ=山内上杉家)が、朝興を支援して江戸城の奪回に乗り出して来ます。

上野(こうずけ=群馬県)の軍勢を率いる上杉憲房が、まずは北条配下となっている毛呂城(もろじょう=埼玉県入間郡毛呂山町)を攻めると、すかさず救援すべく江戸城を出陣する北条氏綱・・・

しかし、この時は、行軍途中で上杉憲房の執事(しつじ=関東管領の補佐役)長尾憲長(ながおのりなが=足利長尾氏)らが和睦を申し込んで来たため、

氏綱は勝沼(かつぬま=東京都青梅市)に留まりながら交渉し、結局、毛呂城内の北条方は引揚げ、上野勢に開け渡す事で矛を収めたのでした。

Ootasukeyori500ass とは言え、最近のゴタゴタ(このあたりは諸説あり)で、結果的に再び上杉朝興の配下となってしまっている太田資頼の岩槻城も捨て置けない北条氏綱は、

資頼の家臣である渋江三郎(しぶえさぶろう)を味方につける事に成功した事により、2月4日に江戸城を出陣。。。

途中、雨の激しさに約1日の逗留を余儀なくされたものの、岩槻到着後にすぐさま総攻撃を仕掛け、またたく間に約3000の城兵が討死させ大永五年(1525年)2月6日の巳の刻(午前10時頃)岩槻城を落城させたのでした。

残った城兵もほとんどが生け捕りにされる中、太田資頼は石戸(いしと=埼玉県北本市)へと逃れたとか・・・

その後、
「上杉朝興からの援軍要請を受けて上野の軍勢が出陣した」
との知らせがもたらされますが、北条氏綱は渋江三郎に岩槻城を任せて江戸城へと帰還したのでした。

その上野の軍は、報告通り、その後国境に陣を張り、5日~6日にかけて渋江三郎と懇意にしている金田某(かねだなにがし)が城主を務める菖蒲城(しょうぶじょう=埼玉県久喜市)攻め寄せますが、

準備万端な氏綱は、すぐさま新しい兵を岩槻城に派遣すると同時に、岩槻に残したままにしていた城兵を援軍として菖蒲城へ移動させて防御を固める一方で、

自身は、扇谷上杉家の家宰(かさい=家長代理)であった大石石見守(おおいしいわみのかみ)が守る葛西城(かさいじょう=東京都葛飾区青戸)へと駒を進めるのでした。

とにもかくにも、一進一退な中、関東支配を巡ってのゴタゴタは、まだまだ続き、北条&武田&両上杉家の関係も、同盟結んじゃ破棄して・・・と、

その関係が目まぐるしく変わる中、
そこに関東公方や
安房(あわ=千葉県南部)里見(さとみ)(【鶴岡八幡宮の戦い】参照>>)
さらに守護(しゅご=県知事)の上杉家に代って越後(えちご=新潟県)を仕切り始めた守護代(しゅごだい=副知事)長尾為景(ながおためかげ)が加わって(5月25日参照>>)

さらにややこしくなっていくのは、皆さまご存知の通りですが、そこらあたりはコチラ↓で…
 VS武田・小山田【八坪坂の戦い】>>
 VS上杉【河越城の戦い】>>
 VS上杉【松山合戦】>>
 など【北条五代の年表】参照>>

ちなみに、今回、岩槻城を追い出された太田資頼が、渋江三郎を討ち取って岩槻城を奪回するのは、享禄院年(1531年)9月の事ですが、そのお話は、またいずれかの日付にて書かせていただきますねm(_ _)m
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2024年2月 5日 (月)

大河ドラマ「光る君へ」第1回~5回の感想

 

遅ればせながら、今年に入って初めて、大河ドラマ「光る君へ」感想を書かせていただきます。

なので、第1回~5回をまとめて書きますが~

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全体の感想は「良き」です。
ホント、おもしろいです。

第1回で、主役の男女二人が、幼少の頃にお互いの正体を知らずに出会って、ほのかな思い(初恋?)を抱くという中国時代劇あるあるで始まり。

第2回には、女主人公が、コッソリ男のフリをして代筆業…と、韓国時代劇の「雲が描いた月明り」のまんまのパターンだったので、アレ?今年も?と思ったのですが、

どうしてどうして、
回が増すにつれ、そんなのが吹っ飛ぶくらいの、心地よいストーリー展開。。。

初回に、主役=紫式部(まひろ)の母が、藤原道長(三郎)の兄に殺されるという壮大な創作をブッ込んでおきながら、あとあと、それが見事に生かされているという小気味良さ。。。

そうなんですよね~
道長と紫式部が恋仲だったなんて史実は無いし(ここで言う史実は記録として残ってないという意味で「ありえない」という意味ではありません)事実として、道長には奥さんが複数いても、そこに紫式部の名は無いわけですから、

本来なら、恋仲にしてしまう事には少々の無理がある。。。

しかし、それを
「こういう事があったから、二人は例え好き同志であっても結ばれなかったんだヨ」
という、説得力ある理由に持って来ておられる。

しかもキャラがブレないww
「三郎の事は恨んでない」
「でもミチカネは許せない」
ものすご~く良くわかります。

好感を持つ男女が約束した日に主人公の母が殺されて会えないまま時が過ぎ、後に
「あの日は母が殺されて会いに行けなかったの」
って告白するシーンは、ちょっと中国時代劇の「恋心は玉の如き」あったけど、主人公のテンションや細かな設定が違うのでセーフww
(ソイツの兄貴が犯人やったトコも似てはいるけどww)

あと、
言葉づかいが現代的なのは、個人的にはウレシイです。

平安時代なんて、母音がアイウエオだけじゃ無かったし、最新の研究成果として最も近いであろう平安言葉でしゃべってしまうと、おそらく何言ってるかわかりませんから、それならいっそのこと、今風の言葉づかいの方が、登場人物の関係がわかりやすいです。

今現在、フランクな場所での友人同士や、家庭内での家族の会話で敬語使う人はほとんどいません(究極のお嬢様は知らんけど)

一方、職場や正式な場所では上下関係を重んじた会話をするわけですから、そこの使い分けが、現代風の言葉づかいの方が絶対わかりやすいですもん。。。絶対、その方が良いワ

ほんで、そこここに『源氏物語』のエピや和歌、
随筆や日記に残る女房達のウワサ話、
藤原実資(ロバート秋山さん)『小右記』で吐露するグチのような人物描写…
なんかが散りばめられていて、脚本家さんが、かなり歴史について意識しておられるのが垣間見え、スゴイな~って思います。

演出も、昨年の中国時代劇風はスッパリ消え、平安の王朝文化のソレをリスペクトされていて気持ち良いです。

ちゃんと右から馬に乗るしねww

ここまで来たら、CGがどーとか、後ろの調度品がーとか、夜は女一人で出かけられないほど治安悪かったんちゃうんかい!
てな事も、全然気になりません(←嫌味じゃなく本当に気にならないんです)

それらの細かな事を払拭するくらいオモシロイのです。

そもそも、治安悪いからって主人公が家に籠りっきりじゃ、お話は進みませんしねww

とにもかくにも、これから起きる「史実とされるアレやコレや」が、どのように描かれるのか?
もう…楽しみでなりません。

俳優さんの演技は心地よいし、
美しい絵面は目の保養にもなるww

また時間があれば、個人の感想ではありますが、ブログにupしてみたいと思います。

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ロケ地の一つ平安神宮

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