関東支配を目指す北条氏綱と岩槻城の太田資頼
大永五年(1525年)2月6日、北条氏綱が太田資頼を攻め、岩槻城を落城させた岩槻城の戦いがありました。
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第6代室町幕府将軍=足利義教(あしかがよしのり)の御代に、第4代鎌倉公方(かまくらくぼう=幕府公認の関東支配者)=足利持氏(もちうじ)のが反発し(【永享の乱】参照>>)、その遺児である足利成氏(しげうじ)までもが古河公方(こがくぼう=茨城県古河市を本拠とした事から)を自称して中央幕府に反発し始めた事から(9月30日参照>>)、
将軍義教は正式な鎌倉公方として足利政知(まさとも)を関東に派遣しますが、あまりのグチャングチャ感に鎌倉に入れない政知は、やむなく堀越(ほりごえ・ほりこし=静岡県伊豆の国市)に居を構え堀越公方(ほりごえ・ほりこしくぼう)と呼ばれるようになります。
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やがて、そんな堀越公方の2代目(←諸説あり)=足利茶々丸(ちゃちゃまる=政知の息子)を倒して(10月11日参照>>)関東支配に乗り出した北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)・・・
永正十六年(1519年)に早雲の死を受けて2代目となった北条氏綱(うじつな)は、古河公方4代目を継いでいる足利晴氏(はるうじ)と娘(芳春院)の結婚を機に急接近・・・晴氏から関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐役)を任された氏綱は、いよいよ父の夢であった関東支配に乗り出す事に。。。
(事実的に関東管領だったのか?微妙ですが、この時代、関東公方ですら幕府公認と自称と複数いるので、その補佐役である関東管領が複数になるのもアリかな?と…)
そうなると、当然の事ながら幕府公認の関東管領を代々担って来た扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の上杉朝興(うえすぎともおき)とも敵対関係になるわけで・・・
かくして大永四年(1524年)正月、上杉の家臣であった太田資高(おおたすけたか=太田道灌の孫)&太田資頼(すけより=←資高の従兄弟)の内応を得た氏綱は、高輪の原(たかなわのはら=品川区高輪)の戦いにて勝利し、江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を手に入れたのです。
(くわしい経緯は1月13日参照>>)
これを受けてやむなく河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)へと逃れる上杉朝興。。。
その後も江戸城周辺でゲリラ的動きを見せる朝興は、同盟関係にある甲斐(かい=山梨県)の武田信虎(たけだのぶとら)に援護を依頼し、2月には猿橋(さるはし・えんきょう=山梨県大月市猿橋町)にて武田VS北条の戦い(2月11日参照>>)が繰り広げられる中、
7月には、その武田信虎によって太田資頼の岩槻城(岩付城:いわつきじょう=埼玉県さいたま市岩槻区)が攻撃され、太田資頼を再び反・北条に寝返りさせるなど、信虎は大活躍・・・
なんせ、北条の関東支配が拡大すれば、甲斐も危ういですからね~
しかし、それらの動きに対して様々なけん制をかける氏綱の動きを見て、関東周辺の武将たちにも徐々に北条寄りになる者も。。。
そんな中、その年の10月になって、時の関東管領(幕府公認のほう)の上杉憲房(のりふさ=山内上杉家)が、朝興を支援して江戸城の奪回に乗り出して来ます。
上野(こうずけ=群馬県)の軍勢を率いる上杉憲房が、まずは北条配下となっている毛呂城(もろじょう=埼玉県入間郡毛呂山町)を攻めると、すかさず救援すべく江戸城を出陣する北条氏綱・・・
しかし、この時は、行軍途中で上杉憲房の執事(しつじ=関東管領の補佐役)の長尾憲長(ながおのりなが=足利長尾氏)らが和睦を申し込んで来たため、
氏綱は勝沼(かつぬま=東京都青梅市)に留まりながら交渉し、結局、毛呂城内の北条方は引揚げ、上野勢に開け渡す事で矛を収めたのでした。
とは言え、最近のゴタゴタ(このあたりは諸説あり)で、結果的に再び上杉朝興の配下となってしまっている太田資頼の岩槻城も捨て置けない北条氏綱は、
資頼の家臣である渋江三郎(しぶえさぶろう)を味方につける事に成功した事により、2月4日に江戸城を出陣。。。
途中、雨の激しさに約1日の逗留を余儀なくされたものの、岩槻到着後にすぐさま総攻撃を仕掛け、またたく間に約3000の城兵が討死させ、大永五年(1525年)2月6日の巳の刻(午前10時頃)、岩槻城を落城させたのでした。
残った城兵もほとんどが生け捕りにされる中、太田資頼は石戸(いしと=埼玉県北本市)へと逃れたとか・・・
その後、
「上杉朝興からの援軍要請を受けて上野の軍勢が出陣した」
との知らせがもたらされますが、北条氏綱は渋江三郎に岩槻城を任せて江戸城へと帰還したのでした。
その上野の軍は、報告通り、その後国境に陣を張り、5日~6日にかけて渋江三郎と懇意にしている金田某(かねだなにがし)が城主を務める菖蒲城(しょうぶじょう=埼玉県久喜市)に攻め寄せますが、
準備万端な氏綱は、すぐさま新しい兵を岩槻城に派遣すると同時に、岩槻に残したままにしていた城兵を援軍として菖蒲城へ移動させて防御を固める一方で、
自身は、扇谷上杉家の家宰(かさい=家長代理)であった大石石見守(おおいしいわみのかみ)が守る葛西城(かさいじょう=東京都葛飾区青戸)へと駒を進めるのでした。
とにもかくにも、一進一退な中、関東支配を巡ってのゴタゴタは、まだまだ続き、北条&武田&両上杉家の関係も、同盟結んじゃ破棄して・・・と、
その関係が目まぐるしく変わる中、
そこに関東公方や
安房(あわ=千葉県南部)の里見(さとみ)(【鶴岡八幡宮の戦い】参照>>)、
さらに守護(しゅご=県知事)の上杉家に代って越後(えちご=新潟県)を仕切り始めた守護代(しゅごだい=副知事)の長尾為景(ながおためかげ)が加わって(5月25日参照>>)、
さらにややこしくなっていくのは、皆さまご存知の通りですが、そこらあたりはコチラ↓で…
VS武田・小山田【八坪坂の戦い】>>
VS上杉【河越城の戦い】>>
VS上杉【松山合戦】>>
など【北条五代の年表】参照>>
ちなみに、今回、岩槻城を追い出された太田資頼が、渋江三郎を討ち取って岩槻城を奪回するのは、享禄院年(1531年)9月の事ですが、そのお話は、またいずれかの日付にて書かせていただきますねm(_ _)m
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