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2024年2月29日 (木)

坂本龍馬とお龍が鹿児島へ~二人のハネムーン♥

 

慶応二年(1866年)2月29日、寺田屋事件で負傷した坂本龍馬と妻のお龍が、身の安全と怪我の療養を兼ねて鹿児島へ向かうため京都を発ちました。

・・・・・・・・

慶応元年(1865年)3月、幕府軍艦奉行勝海舟(かつかいしゅう)が失脚し、わずか1年足らずで海軍訓練所が閉鎖されてしまったため、神戸にいた坂本龍馬(さかもとりょうま)らは、その勝の計らいで西郷吉之助(さいごうきちのすけ=西郷隆盛)に預けられ、薩摩藩(鹿児島県)の大坂屋敷に身を潜めます。

そしてその2ヶ月後の閏5月、薩摩藩の後援で長崎にて貿易会社=亀山社中(かめやましゃちゅう)を設立します。

それこそ、支援する者される者…それぞれの思惑&儲けどころは様々でしょうが、訓練所の生徒にとっては物資を運ぶことによって航海技術を磨く事ができるし、薩摩藩としてはここで恩を売っとけば、必要な時に彼らの航海技術を使用する事もできるし、

相手によっては武器や兵器などの調達を表だってできないグラバー(イギリス人貿易商)(8月23日参照>>)の代わりに密かに動く事も可能・・・

なので、亀山社中は貿易会社でありながら血気盛んな志士を抱える武士集団という事になります。

しかも、薩摩藩の息のかかった。。。。

そんな中、元治元年(1864年)の禁門の変(7月19日参照>>)によって朝敵(ちょうてき=国家の敵)となった長州藩(山口県)に対しての幕府による第二次長州征伐が模索され始めた頃(5月22日参照>>)

この第二次征伐には反対の意を薩摩藩が持っている事を聞かされた坂本龍馬は、すでに、長州で保護されている三条実美(さんじょうさねとみ)を説得して薩長同盟への内命を取り付けていた、同じ土佐(高知県)出身の中岡慎太郎(なかおかしんたろう)(8月6日参照>>)とともに仲介に入り

慶応二年(1866年)1月22日に薩長同盟の成立(1月21日参照>>)へと漕ぎつけました。
(※薩長同盟における龍馬の活躍ぶりがヒーロー過ぎる…と思う方はコチラ>>もどうぞ)

…で、その翌日の23日、伏見(ふしみ=京都市伏見区)寺田屋にて、長府(長州の支藩)三吉慎蔵(みよししんぞう)同盟の経緯について説明していた龍馬が、伏見奉行配下の役人の襲撃を受ける、あの寺田屋事件が起こるのです(1月23日参照>>)

指に深手を負いながらも脱出して薩摩屋敷に逃げ込んだ坂本龍馬。。。

その薩摩屋敷にて家老小松帯刀(こまつたてわき=清廉)(7月17日参照>>)から身の安全と療養を兼ねて
「ともに九州へ…」
と誘われた龍馬は、寺田屋で働いていたお龍(楢崎龍)を連れ、慶応二年(1866年)2月29日京都を出発したのです。

その後、3月4日に大坂港に停泊していた薩摩藩の三邦丸(みくにまる)に乗船し、一路、九州へ・・・

途中、一緒に来た友人の中岡&三吉と下関で別れ、龍馬とお龍はそのまま鹿児島へ向かいますが、
これが龍馬とお龍の日本初の新婚旅行と言われています。

…と、有名なお話に水を差すようで恐縮ですが、一応歴史ブログなので、重箱の角を突かせていただくと、

まずは
この頃の龍馬とお龍は内縁関係になってすでに1年以上も経ってるので、新婚さんと言えるかどうかは人によって微妙なところ。。。

また、日本初というのも、
もう10年前くらいに、かの小松帯刀が、それこそ新婚の時に霧島の温泉旅行に行ってるし、あの木戸孝允(きどたかよし)も元治元年(1864年)に幾松(いくまつ)さんを連れて城崎温泉に行ってるので(4月10日参照>>)

残念ながら、今では日本初の新婚旅行は小松帯刀夫婦って事になってるようです。

ま、そもそも平安の昔から、事あるごとに「○○詣」や「○○参り」なんてのが定期的に流行ってますし、これも旅行と言えば旅行なので、お公家さんや殿様なんかが、昔々からすでにやってた気がしないでもない・・・なので日本初というのは棚の上に置いときましょう。

・・・で、話が少しソレましたが、

鹿児島に着いた龍馬とお龍は、薩摩藩士の案内で当山温泉塩浸温泉栄之尾霧島などを約1か月半かけて廻ったと言いますが、何と言っても有名なのは、二人で高千穂峰に登った時の、あのお話ですね。

これまた有名な乙女(おとめ)姉さん(8月31日参照>>)宛ての龍馬の手紙に詳細に書かれていて、なんだか和むエピソードとして知られています。

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姉乙女宛書状(京都国立博物館蔵)

そう・・・高千穂峰の山頂にあった天ノ逆鉾(あめのさかぼこ)を引き抜いてしまうアレです。

この高千穂峰の山頂には、いつのほどからか天ノ逆鉾と呼ばれる剣が突き立てられていて、これは天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が天から地上へと降り立った=いわゆる「天孫降臨(てんそんこうりん)した時に目印として投げたのが刺さったという伝説のあるシロモノ。。。

ところが、手紙によると、これを龍馬が
(略)…はるばるのぼりしに かよふなる
 おもいもよらぬ天狗の面があり
 げにおかしきかおつきにて
 大いに二人り笑たり
 …(略)
 両人が両方よりはなおさへて
 エイヤと引ぬき候時は
 わずか四五斗のものにて候間
 又また本の通りおさめたり…(略)

「山頂に登ってみると、
逆鉾には変な天狗の面がついてて、
それが、またオモロイ表情してたから
二人でメッチャ笑てん…
ほんで二人で両端を押さえて
エイッっ引き抜いてみたら、
1mチョイの長さしかなくて(←たぶんオモロなかった?)
また、もとに戻しときましたわ」

前も、お龍さんのページ(11月15日参照>>)に書かせていただきましたが、コレ、けっこうDQNですよね?

由緒や歴史ある史跡に落書きしたり汚したり・・・今だと警察沙汰ですが、ま、坂本龍馬だし昔の事だし…で、許されてる感ありますな。

まぁ、ドコドコ行ったという記録だけでけなく、なんとなく楽し気な二人の雰囲気が、この手紙によって垣間見えるところが、この鹿児島旅行が「日本初のハネムーン」と称される所以なのでしょうね~

とは言え、先に書いた通り、この旅行は、わずかひと月半・・・

6月には、龍馬は一人で下関へと向かい、亀山社中も参戦した関門海峡での長州征伐を、高杉晋作(たかすぎしんさく)ともに観戦する事になるのですが、そのお話は2009年6月16日の【小倉石州口攻防戦】のページ>>でどうぞ。

前後の出来事については【幕末維新の年表】>>からくわしく
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コメント

鹿児島だと「日本最初の新婚旅行は小松夫妻」と定着しているのでしょうか?
20年程前であれば「日本最初の新婚旅行は坂本龍馬とお龍」でしたね。
いま再放送している「篤姫」でもその場面があったかな?

ところでいまも新婚旅行は「風習」として残っているのでしょうか?コロナ前の時点で、10年ほど前には下火になってたように思いますが…。

投稿: えびすこ | 2024年3月11日 (月) 10時13分

えびすこさん、こんばんは~

>鹿児島だと「日本最初の新婚旅行は小松夫妻」と定着しているのでしょうか?

鹿児島だと…ではなく、今では「一般的に小松夫妻が日本初」とされるみたいです。

「篤姫」のHITで小松さんが有名歴史人物の仲間入りされた?感じなので、そうなったんじゃ無いでしょうか?

それまでは「小松帯刀って誰?」状態な一方で、龍馬は超有名人物だったので知名度優先みたいな感じだったのでしょうね~知らんけど

「篤姫」は忘れましたが「龍馬伝」ではやってましたね~

今では、やる人はやるし、やらない人はやらない感じなのでは?
結婚式さえやらないか、やっても親戚呼ばない友人同志だけって感じの人が増えてますから…

これも多様性なのでは?

投稿: 茶々 | 2024年3月12日 (火) 02時37分

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