平清盛の計画通り~高倉天皇から安徳天皇へ譲位
治承四年(1180年)2月21日、時の高倉天皇が、次代の安徳天皇に譲位しました。
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第80代の高倉天皇(たかくらてんのう)は、第77代の後白河院(ごしらかわいん=元天皇)の第7皇子です。
生母は、堂上家(どうじょうけ=桓武平氏高棟流)の平時信(たいらのときのぶ)の娘=平滋子(しげこ=後の建春門院)ですが、この堂上家というのは、桓武平氏(かんむへいし=桓武天皇の子孫)の中でも、
都に留まり公卿(くぎょう=上級貴族)として政務を行う家柄の平氏で、平滋子の姉に、あの平清盛(きよもり)の継室(けいしつ=後妻)となった平時子(ときこ=後の二位の尼)がいます。
ちなみに平清盛の家系は、同じ桓武平氏でも伊勢平氏(いせへいし)で、地方に下って武士となった中の関東地方(坂東)に下った坂東平氏(ばんどうへいし・坂東=関東)の家系です。
…て、事で、つまりは高倉天皇は、平清盛&時子夫妻の甥っ子という事になります。
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そもそもは、自身の第1皇子である二条天皇(にじょうてんのう=第78代)に皇位を譲って院政をやっていた後白河院・・・
平清盛が隆盛を誇るキッカケにもなった平治元年(1159年)の平治の乱(↓参照)では、
●【乱勃発と信頼】参照>>
●【さらし首になった信西】参照>>
清盛が敵方に捕らわれた二条天皇を救出して(12月25日参照>>)勝利に導く大活躍をするほど、後白河×二条×清盛の仲は良好だったわけですが、
しかし応保元年(1161年)9月に後白河院の第7皇子として憲仁(のりひと=後の高倉天皇)が生まれた事で、未だ皇子のいなかった二条天皇の後継に、その第7皇子を擁立しようという動きが起こったため、
この動きにお怒りの二条天皇は、皇子誕生直後の9月15日に、これまで重要な役どころを担っていた平時忠(ときただ=時子の弟)と平教盛(のりもり=清盛の弟)を解雇し、後白河院の院政を停止させ、自らの手で親政を行う方向に持って行くとともに、周囲を親二条天皇派で固め始めたのです。
ところが長寛三年(1165年)2月に、二条天皇を支え続けてくれていた太政大臣(だいじょうだいじん=政務の長官)の藤原伊通(ふじわらのこれみち)が亡くなり、
ほどなく二条天皇自らも病に倒れた事から、6月には前年に生まれたばかりの実子=順仁(のぶひと=当時は生後7ヶ月)を皇太子に立てて、その日のうちに譲位して順仁を第79代=六条天皇(ろくじょうてんのう)として自らは太上天皇(だじょうてんのう=天皇経験者)となったのですが、残念ながら翌月の7月に、二条天皇は崩御されたのです。
皇位に着いた六条天皇は生後7ヶ月の天皇なので、当然、後継者はおらず・・・こうして、3歳年上の憲仁親王が皇太子に立ったのです。
もはや先が見えた展開ですが、その予想通り、、、
六条天皇は、仁安三年(1168年)2月、わずか2年で退位させられ(当時は満3歳)、8歳の憲仁親王が第80代の高倉天皇となって、政務は父の後白河院が院政を敷く事に。。。
もう、完全に後白河×清盛の強力タッグの独壇場!
(この前年に清盛は太政大臣に就任)
承安元年(1171年)12月には、清盛と時子の娘である徳子(とくこ=後の建礼門院)が入内 (じゅだい=正式に宮中に入る事)し(12月14日参照>>)して、高倉天皇の中宮(ちゅうぐう=皇后並みも妃)となりました(2月10日参照>>)。
しかし、
ここに来て、後白河院と清盛を繋いでいた糸が切れます。。。
そう、両者の間に立って潤滑剤の役割を果たしていた高倉天皇の生母で時子の妹=平滋子が亡くなったのです(7月8日参照>>)。
徐々に表れ始めた後白河院と平清盛との間の亀裂が露わになるのは、滋子の死からわずか1年後の治承元年(1177年)5月・・・あの鹿ヶ谷の陰謀が発覚するのです(5月29日参照>>)。
そんな中で、翌治承二年(1178年)11月に徳子は待望の高倉天皇の皇子を産む事に・・・この皇子=言仁(ときひと)が後の安徳天皇(あんとくてんのう=第81代)です。
さらに早くも誕生の翌月には 言仁親王が皇太子に立てられ、もはや完全にレールは敷かれました。
そして治承三年(1179年)11月、清盛は、突如として後白河院を幽閉し、その近臣や関白以下・公卿39名を解任して政権を掌握するクーデター=治承三年の政変を決行したのです(11月17日参照>>)。
かくして、その翌年の治承四年(1180年)2月21日、弱冠二十歳の高倉天皇が、三歳(満1歳)の安徳天皇に譲位したのです。
『平家物語』には、人々が口々に
「早すぎる譲位だ」
と噂した事が記されています。
これにより、天皇の外戚(がいせき=母方の親戚)=外祖父母となった平清盛&時子夫婦は、准三宮(じゅさんぐう=天皇の近親者に相当)の宣旨を受け、年爵(ねんしゃく=爵位権)を与えられた事で、
清盛は、宮中の出仕者を自らの使用人として使う事ができたたため、彼らの屋敷は、まるで御所のように華やかになったのだとか・・・まさに、清盛全盛期ですね。
一方、皇位を譲った高倉上皇は、退位した天皇がまず行幸する通例の場所となっている石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)や春日大社(かすがたいしゃ=奈良県奈良市)などではなく、今回は厳島神社(いつくしまじんじゃ=広島県廿日市市)への行幸を希望・・・
異例の場所への参拝を、人々は、
「やっぱり、平家に気ぃつかってはるんちゃう?」
と、平清盛が愛してやまない厳島神社をチョイスした事に違和感を覚えて噂し合ったのだとか・・・
そして、3月上旬の出立の際、高倉上皇は未だ幽閉状態にある後白河院に面会した後、旅の途に・・・参詣を終えた後は、これまた清盛が愛してやまない福原(ふくはら=兵庫県神戸市・後に遷都される場所)の地にわざわざ立ち寄って、清盛の山荘をご覧になるというサービスまで。。。
こうして高倉上皇が都にお戻りになったのは4月8日・・・そして、その約半月後の4月22日に、清盛の仕切りによる安徳天皇の正式な即位式が行われる事になるのです。
しかし、この一連の流れを苦々しく見ていた人が・・・
それが、後白河院の第3皇子でありながら、30歳になった今でも親王宣下(しんのうせんげ=皇位を継ぐ事ができる皇子の称号)さえ受けていない不遇の人生を送っていた以仁王(もちひとおう)でした。
この以仁王が、全国の反平家に対して平家討伐の令旨(りょうじ=天皇家の人の命令書)を発するのが4月9日(4月9日参照>>)。。。
その令旨は5月10日に、伊豆(いず=静岡県)にいる源頼朝(みなもとのよりとも)(頼朝がなぜ伊豆にいるか?は2月9日参照>>)に届きますが、すぐには動かなかった事で、残念ながら5月26日に以仁王は敗退(2009年5月26日参照>>)・・・
やがて3ヶ月後の8月17日に頼朝が挙兵し(8月17日参照>>)、
遅れる事半月の9月7日に木曽(きそ=長野県)の源義仲(よしなか=頼朝の従兄弟)(義仲がなぜ木曽にいたかはが8月16日参照>>)が初陣を飾り(9月7日参照>>)、
いよいよ治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)=源平の争乱が始まる事になります。
その後のお話については…
●平安後期・源平争乱の年表>>
●平清盛と平家物語の年表>>
●源頼朝の年表>>
●源義経の年表>>
●木曽義仲(源義仲)の年表>>
の、お好きな年表からどうぞm(_ _)m
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