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2024年2月14日 (水)

武田信玄の重臣~板垣信方、上田原に散る

 

天文十七年(1548年)2月14日、武田信玄の重臣=板垣信方が上田原の戦いにて戦死しました。

・・・・・・・・

板垣信方(いたがきのぶかた=板垣信形)は、甲斐(かい=山梨県)守護(しゅご=県知事)である武田信虎(たけだのぶとら)信玄(しんげん=晴信)父子2代に仕えた家臣で、武田二十四将武田四天王の1人に数えられ、もう一人の譜代家老である甘利虎泰(あまりとらやす)とともに「両職」という武田家最高職を任されていた重臣です。

戦国屈指の名将として知られる武田信玄ですが、その若き頃には、合戦はもちろん領国経営や政事にもまったく興味がなく、自分の気に入った者だけを家に呼び、遊び惚けて昼夜逆転生活を送っていた引き籠り兄ちゃんだったのです。
(一人で引き籠ってないのでちょっと違うかもしれんが…)

主な遊びは、仲間内で詩歌を創っちゃぁワイワイがやがや・・・ただ、それで身を立てようと、ちゃんとしたバンド活動やってたなら、まだワカランでも無いが、そうではなく、完全遊び感覚の坊ちゃんの趣味だったわけで。。。

Itagakinobukata400as 当時から信玄の傅役(もりやく・ふやく=世話係&教育係)であった板垣信方は、再三に渡って、その生活ぶりを正すよう信玄に忠告するのですが、
「あくまで一家臣やん!」
と、はなから信方を小バカにしている信玄が言う事を聞くワケもなく。。。

そこで信方は、自身が武勇を誇る武人であるため、これまで文芸にはまったく興味が無かった中、一念発起して知り合いの僧侶のもとに通って詩歌のアレコレを教えてもらうのです。

やがて猛勉強した信方は、詩歌の創作に没頭している信玄のもとに向かい、目の前で一首の詩歌を創って披露・・・

武勇一本で芸術方面の事は疎いと思っていた信方が見事な歌を詠んだ事で驚く信玄に、

「苦手な事も頑張ればウマくなる」
「やれば、できる!」
と説得して、信玄を改心させたのだとか・・・(ホンマかいな?)

とは言え、弟が優秀過ぎて、父の興味が弟にばっかり向いて、遅めの赤ちゃん帰りでふてくされていた信玄が、ここらあたりから武将としての道に目覚めて本腰を入れ始めた事は確か。。。

やがて、ご存知のように、信玄は、父の信虎を追放して武田家を継ぎ(6月14日参照>>)甲斐の虎となっていくわけですが、もちろん、この信虎追放劇の時にも、信玄にピッタリ寄り添う信方の姿があったのです。

信玄が天文十一年(1542年)から行った信濃(しなの=長野県)攻略(7月3日参照>>)にて新たな領地となった諏訪(すわ=長野県諏訪郡)では、重臣として信玄の補佐をし、その領地経営を軌道に乗せ

その後の天文十三年(1544年)から始まる伊那侵攻(10月29日参照>>)でも、福与城(ふくよじょう=長野県上伊那郡箕輪町)攻め(11月2日参照>>)にて敵に与する支城を攻略して福与城を孤立させたり、

天文十六年(1547年)の志賀城(しがじょう=長野県佐久市)攻略(8月17日参照>>)でも、別動隊を指揮して信玄の勝利に貢献しました。

ちなみに、
「駿河(するが=静岡県東部)に築城技術に長けた牢人がいる」
と、後に名軍師として知られる事になる、あの山本勘助(やまもとかんすけ)を見つけて来て信玄に紹介したのも板垣信方だとされています。

とは言え、
あまりの信頼度に慢心したのか?
歳いって「老」が出て来ちゃったのか?
晩年の板垣信方は、合戦でミスしたりルール破りがあったりして、

信玄から
♪誰もみよ 満つればやがて 欠く月の
 十六夜ふ空や 人の世の中 ♪
「月も満ちたら欠けるだけやねんで~」
てな歌を送られて諌められています。
(信方の馬印が三日月なので「月」にかけてます)

それでも信玄は信方を重臣として重用し続けました。

そんなこんなの天文十七年(1548年)2月14日、信玄が、北信濃村上義清(むらかみよしきよ)を討つべく出陣した上田原(うえだはら=長野県上田市上田原)の戦いにて、

先陣を切った板垣信方は、猛攻撃を仕掛けて村上勢を打ち払い、見事勝利を収めたものの、なぜか、すぐさま敵前にて首実検を開始・・・

その油断を突いて反撃に出た村上勢に、フイを付かれた板垣勢は大混乱に陥り、信方は、慌てて馬に乗ろうとしたところを討ち取れたと言います。

こうして先陣が崩れた事によって後方の本隊も乱れはじめ、やがて信玄自身も負傷し、この日の戦いは武田軍の敗北となってしまったのです。

初めての敗戦に納得がいかない信玄は、わざと勝鬨(かちどき)を挙げて、なかなか戦場を離れようとしなかったとか。。。(2008年2月14日参照>>)

若き信玄の傅役として気を配り、常に傍らで戦い、両職として重用された板垣信方は、

おそらく60歳くらいで、その生涯を閉じますが、武勇の将として戦場で散るのは、ある意味本望であったかもしれません。

♪飽かなくも なほ木のもとの 夕映えに
 月影宿せ 花も色そふ ♪ 板垣信方:辞世
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