« 当麻曼荼羅と中将姫~奈良の伝説 | トップページ | 刀伊の入寇~外敵から日本を護った藤原隆家 »

2024年3月21日 (木)

秀吉の紀州征伐開始~1ヶ月に渡る戦いを時系列で見てみよう!

 

天正十三年(1585年)3月21日、約1ヶ月にわたる豊臣秀吉(当時は羽柴)による紀州征伐が開始されました。

・・・・・・・・

主君の織田信長(おだのぶなが)亡き後、明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府向日市付近)に倒して(6月13日参照>>)織田家内での力をつけた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、

織田家臣の筆頭であった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月21日参照>>)で、信長三男・神戸信孝(かんべのぶたか)自刃(5月2日参照>>)に追い込んだ後、信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)徳川家康(とくがわいえやす)の支援を受けて起こした小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦いを何とか納め(11月16日参照>>)後、

Toyotomihideyoshi600先の小牧長久手戦いでの岸和田城(きしわだじょう=大阪府岸和田市)攻防(3月22日参照>>)の際に、

信雄&家康側に立って抵抗した雑賀(さいが・さいか)根来(ねごろ)といった紀州(きしゅう=和歌山県)一揆勢力の撲滅に着手するのです。

雑賀衆というのは、紀州の紀の川流域一帯に勢力を持つ土着の民・・・農業に従事する者もいれば水産&海運に従事する者もあり、彼らは自らを守るために武装し、鉄砲を自在に操り、水軍も持っていて、今は亡き信長をも何度も手こずらせた相手です。
【孝子峠の戦いと中野落城】参照>>
【丹和沖の海戦】参照>>

もう一つの根来衆は、現在も和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院=根来寺(ねごろじ=根來寺)の宗徒たちが集った宗教勢力で、この戦国時代には50万石とも70万石とも言われる膨大な寺領を所有しており、それらを守るために、一部が僧兵として武装していた集団です。

さらに、根来寺より少し東=紀の川の上流に位置する粉河観音宗総本山の粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)←コチラも寺務を司るだけでなく、武力も保有する集団でした。

雑賀衆が独立独行を目指す(3月7日参照>>)のに対し、根来衆は、これまで度々起こっていた紀州守護(しゅご=県知事みたいな?)畠山(はたけやま)の権力争い等に積極的に参加する中央介入派(7月12日参照>>)、粉河寺は根来ほどの規模や積極性を持たないものの、各地へ遠征してチョイチョイ戦乱に参戦していたわけで・・・

これから各地を平定し最終的には中央集権体制を目指す事になる秀吉にとっては、こういった独立的な勢力は、規模の大小&抵抗のあるなしに関わらず、そのままにしておくわけにはいかない集団であったわけですが、

そんな彼らを一掃させる戦いが、天正十三年(1585年)3月21日に開始される紀州征伐(きしゅうせいばつ)です。

Kisyuuseibatukouiki 紀州征伐広域位置図クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

その中で最も大きな戦いがあった太田城(おおたじょう=和歌山県和歌山市太田)4月22日陥落するところから、概ね紀州征伐のあった時期は3月21日~4発22日とされます。

攻めるのが豊臣秀吉で、守るのが根来衆や雑賀衆や地侍などの紀州の面々である事や、

上記の通り約1ヶ月ほどの戦いである事から、ドラマや小説などでは「紀州征伐」の言葉だけで一括りだったり、描かれたとしても太田城の攻防のみだったりと、比較的スルーされがちな紀州征伐ですが、

どうしてどうして…よく見てみると、秀吉は、かなり広範囲に同時攻撃やってます。

それぞれの個々の戦いの細かな部分については、これまでいくつか書かせていただいております(↓の参照>>を参照)し、

まだ書いてない戦いに関しては、これからおいおい、それぞれの日付にてご紹介していきたいと思っておりますが…

とりあえず、今回は、
紀州征伐を時系列でご紹介し、全体像を確認してみる事に致しましょう。

まずは、この時期、大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)を居城としていた秀吉は、傘下の岸和田城へ移動し、そこを拠点として約10余万人を動員し、それを3隊に分けて行軍・・・

迎え撃つ紀州勢も、数か所の砦や城壁を新たに構築して受けます。

※以下、日付と主戦場と主力(色=秀吉軍紀州勢
    〇=勝者、●=敗者 ◎=引き分け

  • 3月21日~23日=沢城(さわ城=大阪府貝塚市澤)
    高山右近中川秀政などVS●雑賀衆
  • 3月21日~22日=積善寺城(しゃくぜんじじょう=大阪府貝塚市橋本)
    細川忠興大谷吉嗣などVS●根来衆
  • 3月21日=千石堀城(せんごくぼりじょう=大阪府貝塚市橋本)
    羽柴秀次などVS●根来衆
  • 3月21日=畠中城(はたけなかじょう=大阪府貝塚市畠中)
    中村一氏ほかVS●神前(こうざき)ほか泉州地侍
  • 3月23日=根来寺焼き討ち(参照>>)
    秀吉本隊VS●根来寺衆徒
  • 3月24日=粉河寺焼き討ち
    秀吉本隊VS粉河寺衆徒
  • 3月23日~=雑賀合戦(和歌山県和歌山市各地)
    秀吉本隊VS●雑賀衆
  • 3月28日~4月22日=太田城攻防戦(参照>>)
    明石則実宇喜多秀家などVS●太田左近宗正など
  • 3月頃~=長藪城(ながやぶじょう=和歌山県橋本市細川)
    秀吉VS●牲川義清(にえかわよしきよ)など
  • 3月頃=白樫城(しらかしじょう=和歌山県有田郡湯浅町)
    白樫某VS〇湯河直春など
  • 3月下旬=鳥屋城(とやじょう=和歌山県有田郡金屋町)
    仙石秀久などVS●畠山貞政など
  • 3月下旬=岩室城(いわむろじょう=和歌山県有田市宮原町)
    白樫某などVS●畠山貞政など
  • 3月20日~手取城(てとりじょう=和歌山県日高郡日高川町)
    玉置直和などVS〇湯河直春など
  • 3月下旬=亀山城(かめやまじょう=和歌山県御坊市湯川町)
    白樫某などVS●湯河直春など
  • 3月下旬=泊城(とまりじょう=和歌山県田辺市芳養町)
    仙石秀久などVS●湯河直春など
    ※ここから奪った泊城を主に拠点とす
  • 3月または4月=竜口山城(たつのくちやまじょう=和歌山県田辺市三栖)
    藤堂高虎などVS●熊野山衆徒
  • 4月1日~=塩見峠(しおみとうげ=西牟婁郡中辺路町)
    仙石秀久などVS〇湯河直春など
  • 4月頃=高野攻め回避(参照>>)
    秀吉VS●高野山衆徒
  • 4月~7月=近露(ちかつゆ=西牟婁郡中辺路町)
    仙石秀久などVS◎湯河直春など
  • 4月=三宝寺河原(さんぽうじがわら=西牟婁郡上富田町)
    杉若越後守VS〇山本康忠
  • 4月~7月=下川(しもかわ=西牟婁郡大塔)
    杉若越後守VS◎山本康忠(講和成立)
  • 4月~=中峯城(なかみねじょう=田辺市秋津川)
    秀吉配下の将VS●目良淡路守(めらあわじ)
  • 4月頃=宮代山(みやしろやま=日高郡龍神村宮代)
    秀吉配下の将VS●玉置盛重など
  • 6月1日=小野辻(おのつじ=西牟婁郡中辺路周辺)
    杉若越後守VS〇周辺郷民
  • 7月=周参見城(すさみじょう=和歌山県西牟婁郡すさみ町)
    秀吉配下の将VS●周参見氏長
  • 7月=泊城奪回作戦
    杉若越後守VS●湯河&山本の残党

とまぁ…ザッと、こんな感じです。
(洩れてる所は見つけ次第追記します)

先に書いたように太田城の攻防が1番の押さえ所であるので、一般には紀州征伐は3月21日~4発22日までとされますが、こうして視ると残党処理に7月頃までかかってる事がわかりますね。

途中、さすがの秀吉軍も勝ったり負けたりしてますが、最後に奪われた泊城を奪回しに来た残党を倒した事で、秀吉の完全勝利が成された…といった所でしょうか。。。

このあと、同年の7月には四国(7月26日参照>>)
8月には飛騨(ひだ=岐阜県北部)(8月10日参照>>)越中(えっちゅう=富山県)(8月29日参照>>)を立て続けに平定し、

翌年には聚楽第(じゅらくだい=京都府京都市)を構築(2月23日参照>>)しつつ、九州征伐に着手する(4月6日参照>>)のですから、

秀吉の全国制覇のスピードたるや、凄まじいですね~

(前後の流れについては【豊臣秀吉の年表】を参照>>)
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 当麻曼荼羅と中将姫~奈良の伝説 | トップページ | 刀伊の入寇~外敵から日本を護った藤原隆家 »

戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

今回は珍しく「時系列」の記載ですね。
3月の部分がかなり詳しく載っていて、1日単位で交戦があったんですね。


ところで先日、再来年の大河ドラマが「豊臣兄弟!」と決まりましたね。
仲野太賀くんが主役に抜擢されました。

投稿: えびすこ | 2024年3月24日 (日) 10時21分

えびすこさん、こんばんは~

豊臣兄弟…楽しみですね~😊

投稿: 茶々 | 2024年3月25日 (月) 04時26分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 当麻曼荼羅と中将姫~奈良の伝説 | トップページ | 刀伊の入寇~外敵から日本を護った藤原隆家 »