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2024年3月27日 (水)

刀伊の入寇~外敵から日本を護った藤原隆家

 

寛仁三年(1019年)3月27日、船団を組んだ賊船隻が対馬に来襲し、島の各地で殺人や放火&略奪し、島民を拉致した刀伊の入寇が勃発しました。

・・・・・・・・・

長保元年(999年)に長女の彰子(あきこ・しょうし)を第66代一条天皇(いちじょうてんのう)皇后(11月1日参照>>) 、

寛弘七年(1010年)に次女の妍子(けんし・きよこ)を第67代三条天皇(さんじょうてんのう)皇后に、

長和五年(1016年)には一条天皇と彰子との間に生まれた皇子を第68代後一条天皇(ごいちじょうてんのう)としてわずか8歳で践祚(せんそ=皇位を継ぐ事)させて自らが摂政(せっしょう=幼天皇の補佐役)になり、

2年後の寛仁二年(1018年)には四女の威子(いし・たけこ)を、その後一条天皇の中宮(ちゅうぐう=皇后並み)にして、

Fuziwaranomitinaga300a…と、まさに我が世の春を迎え 
♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば♪
の歌を詠むほどの絶頂期を迎えた藤原道長(ふじわらのみちなが)。。。

しかし、その翌年、国家を揺るがす出来事が起こります。

寛仁三年(1019年)3月27日、船団を組んだ賊船約50隻が、突如として対馬(つしま=九州と朝鮮半島の間にある島:長崎県に属す)に来襲し、島の各地で殺人や放火&略奪に及んだのです。

世に言う刀伊の入寇(といのにゅうこう)です。

刀伊(とい)とは高麗(こうらい=朝鮮半島の国)の言葉で言う 「東夷(とうい=東に位置する異民族)の発音を、そのまま当て字で表現した物で、実際に、海賊の如くやって来た人たちは女真族(じょしんぞく=後に清を建国する中国東北・旧満州あたりの民族)と呼ばれる人々であったと言います。
(新羅人がいたとも)

当時の女真族は契丹(きったん=モンゴルや中国東北部の民族)の侵攻圧迫を受けていて、そこから逃れた人たちが海賊となって朝鮮半島周辺を荒していたのです。

そんな賊徒は対馬に続いて壱岐(いき=対馬の南に位置:長崎県壱岐市)を襲撃し、同じく、老人や子供を殺害して若者や女性を拉致し、民家に火をつけて家畜を荒したのです。

この時の壱岐の国司(こくし=中央から派遣された役人:知事)藤原理忠(まさただ)という人で、この急報を聞いて、すぐさま兵を率いて討伐に向かいますが、なんせ相手は武装した大軍(約3000人?)・・・

対して、壱岐に常駐する兵は、わずか・・・多勢に無勢でどうしようもなく、147名の兵士とともに藤原理忠も討死してしまいました。

そのため壱岐の島民はほぼ全滅状態で、殺されたり拉致された以外の生存者は、わずかに35名だったとか・・・

そんな状況が、朝廷の出先機関である大宰府(だざいふ=現在の福岡県に設置されていた地方行政機関)にもたらされたのは最初の入寇から9日後の4月7日・・・しかも、まさにその日に賊徒は博多湾に現れて大暴れしていたのです。

この時の大宰権帥(だざいのごんのそち=大宰府の長官)だったのが、これまでチョイチョイとブログに登場している藤原道長の甥っ子=藤原隆家(たかいえ)です。

Fuziwarasikeizumitinagavskoretika5 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

甥っ子という事は、隆家は道長の兄弟の息子・・・

そもそもは兄弟の父で、太政大臣(だいじょうだいじん=朝廷のトップ)にまで上り詰めた藤原兼家(かねいえ)が亡くなった時、その後を継いだのは長男だった藤原道隆(みちたか)で、もちろん、同時に藤原家のトップの座も引き継ぎ関白に・・・

その勢いは凄まじく、当然、家族全員出世街道まっしぐらで、娘の藤原定子(さだこ・ていし=道隆の長女で伊周の妹)一条天皇の中宮となり、嫡男である藤原伊周(これちか)が、その父の後を継ぐものと考えられ、その弟である隆家の前途も洋々であったわけす。

ところが、そんな中で道隆とその弟の藤原道兼(みちかね=兼家の三男)が相次いで亡くなった事から、
藤原の後継は、
さらに弟の道長(兼家の四男が五男)か?道隆息子の伊周か?
(七条大路の合戦>>)となった時、

伊周は長徳の変(ちょうとくのへん)という事件を起こして墓穴を掘ってしまうのです。

これは、すでに退位していた花山法皇(かざんほうおう=第65代天皇)が、自分のカノジョを奪おうとしていると勘違いした伊周(実際には、そのカノジョの妹を狙ってた)花山法皇一行を襲撃した事件です長徳の変>>)

さすがに法皇に矢を放った罪は重く、伊周は大宰府に、隆家は出雲(いずも=島根県東部)に左遷されてしまったのです。

翌年、大赦となって両人とも都に戻って来ますが、もはや朝廷に居場所はなく(そのワリには道長の宴会>>にチャッカリ出てるww)、しかも唯一の希望だった妹の藤原定子も亡くなってしまい

不満ムンムンの伊周&隆家兄弟は道長の暗殺計画(道長暗殺計画>>)まで立てる事態となる中、失意の伊周は寛弘7年(1010年)1月28日、37歳の若さで、この世を去ったのでした。

残された隆家・・・長和元年(1012年)頃から眼病を患う中で、自ら進んで大宰権帥への任官を望んだのです。

上記の伊周や、かつての菅原道真(すがわらのみちざね)の例(1月25日参照>>)でもお察しの通り、この大宰府への転勤は、言わば左遷・・・隆家ほどの中央の貴族ともなれば完全に流罪にも等しいものですが、

それこそ、落ち目となって地方へ行ったとて、本人の努力次第では、また盛り返せる可能性があるのは令和の今でもご承知の通りですし、

なんなら、中央でスネてるより、いっそ地方に行った方がチャンスな場合もあるわけで・・・

しかも、大宰府には眼の治療に長けた唐人の名医がいるとの話もあって、彼は一念発起して自ら大宰府へ向かったのです。

都では暴れん坊でゴンタクレで問題多しだった隆家ですが、大宰府では善政を施して評判も良く、5年の任期を終える頃には、在地の勢力もすっかり隆家のファンになっていたのだとか・・・

そんな中で起きたのが今回の刀伊の入寇。。。

Toinonyuukou
Toinonyuukou2
刀伊の入寇関連地図クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>

こういう場合、都から派遣されている貴族なら、大抵はアタフタして何もできないでいるものですが、どうしてどうして、隆家は都での暴れん坊が功を奏したのでしょうか?
これを見事に受け止めるのです。

それは、
隆家に従って都から共にやって来た平致行(たいらのむねゆき=平致光?)
九州在住の大蔵種材(おおくらのたねき)
隆家の下で大宰少弐(しょうに=次官)を務めていた藤原政則(まさのり=蔵規)など、
にわか仕込みの武者たちで、そこに大宰府の文官で初めて武器を持った者までもが招集された寄せ集め隊でありましたが、

しかし、そんな彼らを率いて、自ら出陣して討伐に当たった隆家。。。

4月9日、両者はぶつかり激戦となって、またたく間に歩兵同士が相まみえるのですが、幸いな事に、船でやって来ていた敵は馬を備えておらず、歩兵同士は争うものの、相手は騎馬武者には手を出せぬ様子・・・

そんな中で、コチラが常識と思っていた武器が、意外な効果を発揮したのです。

それが鏑矢(かぶらや)・・・

ご存知のように、これは矢の先に(かぶら)という笛のような武具をつけて放つ矢で、大きな音が出る事から、日本では開戦の合図に用いる物でしたが、どうやら女真族は、この鏑矢を知らなかった?

見た事も無い大きな音を出す武器に恐れおののいた賊徒は、一旦退却して博多沖にある能古島(のこのしま=福岡県福岡市)にて態勢を整える事にしたのです。

ところが、その翌日の4月10日から2日間、猛烈な北風が吹き賊徒たちは動けず・・・

その2日の間に隆家は、おそらく次に賊徒が狙って来るであろう博多の西(現在の糸島半島の西岸)にある大きな港=船越の津(ふなこしのつ=福岡県糸島市志摩船越付近)陸戦の武者を配置するとともに、陸側と能古島の間の海に38層の兵船を並べます。

4月12日、案の定、賊徒は船越にやって来ますが、準備万端整えた武者が迎撃・・・さらに急を聞いて駆けつけた兵船で挟み撃ちの海戦を決行して立ち向かった事で、賊徒はむなく上陸を諦めて撤退を開始したのです。

翌13日には、さらに西の肥前松浦(ひぜんまつうら=長崎県佐世保市付近)に上陸しようとする賊徒たちでしたが、これも地元の武者たちに阻まれ

しかたなく女真族は海の彼方へと戻っていきました。

こうして刀伊の入寇は終結しました。

この事件の一報は、8日後の4月17日に都の朝廷にもたらされ、

翌日の会議にて、
 ●功績のあった者に恩賞を与える
 ●街道の整備をする
 ●伊勢神宮や石清水八幡宮などで平安祈願する
という3つの項目が決定しますが、

「そんな遠いとこの事、俺ら知らんわ」
とばかりに、朝廷内はごくごく普通・・・恒例の賀茂祭(かもまつり=葵祭参照>>)も通常通り、盛大に開催されます。

その後、隆家は、事の経緯を詳しく書き、活躍した武将の名も一人一人丁寧に紹介した正規の報告書を朝廷に提出しますが、
報告を受けた朝廷では、
「会議で決まる前に戦いは終結してるから、会議での決定事項は無効ちゃうん?」
てな事で、恩賞云々は、ほぼウヤムヤにされてしまいます。
(↑大蔵種材が、討死した藤原理忠の代わりに壱岐守に任ぜられたくらい?)

グチ&文句満載の赤裸々日記『小右記(しょうゆうき)でお馴染みの藤原実資(さねすけ)(1月28日参照>>)なんかは、この朝廷の態度に憤慨し、
「こんな事してたら、何かあった時に命かけて戦うヤツおんらんようなんゾ!」
と忠告しますが、
やはり朝廷はまったく聞く耳持たず・・・

この年の暮れに、5年間の大宰府勤務を終えた隆家は、都へと戻りますが、彼への昇進の沙汰もありませんでした。

いやいや~
それはクレーム入れた方がえぇで~隆家クン。。。

と、思いますが、いわゆる御恩と奉公 (ごおんとほうこう)と呼ばれるような主従関係が生まれるのは、やはり鎌倉時代から。。。

この頃には、未だ無かったのでしょうね~

しかし、一方で、実際に参戦した九州の武将たちは、事の重要さをハッキリと実感したはず。。。

なんとなく、この後に訪れる武士の時代が見える気がする出来事でした。

とにもかくにも、若き日には、ただヤンチャな貴公子だった隆家クンが、見事に外敵をやっつけてくれたことは感謝しなければ!

ちなみに、今年の大河ドラマ『光る君へ』では俳優の竜星涼(りゅうせいりょう)さんが隆家を演じられます。

ドラマには日本を護ったカッコイイ隆家クンは出て来るのかな? 楽しみ~
 .

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コメント

「光る君へ」で取り挙げられるなら最終盤の回ですね。ところで、今年の大河ドラマでの紫式部はいつごろまで存命した設定になるでしょうか?
この記事の「刀伊の入寇」の頃には亡くなっているとの説もあります。あるいは「刀伊の入寇」時点では存命していて、この事件時の摂政で翌年に関白となる藤原頼通(演者・渡邉圭祐くん)が、「朝廷の第一人者」になったその姿を見届ける設定となるか?

最後に1月の「光る君へ」開始前の記事の時にも言及していますが、略系図にある藤原敦敏は摂政・関白ではないです。

投稿: えびすこ | 2024年3月30日 (土) 10時18分

えびすこさん、こんばんは~

以前のご指摘の時に新しいのに変更してたのですが、なぜか以前の破棄した物を使用してしまってたみたいです。

差し替えておきました。
ありがとうございますm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2024年3月31日 (日) 03時19分

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