桶狭間の前哨戦~織田信長の品野城の攻防
永禄元年(1558年)3月7日 、織田信長が今川傘下となっている品野城攻めに失敗しました。
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鎌倉時代の築城とされる品野城(しなのじょう=愛知県瀬戸市)は、 尾張(おわり=愛知県西部)領にありながらも、その立地から度々奪い合いに逢う城でした。
戦国時代にも尾張の織田信秀(おだのぶひで=信長の父)と、三河(みかわ=愛知県東部)の松平清康(まつだいらきよやす=徳川家康の祖父)との間で奪い合いになっていましたが、
享禄二年(1529年)に信秀の家臣である坂井秀忠(さかいひでただ)から清康が奪ったのを最後に、清康亡き後に(12月5日参照>>)松平が駿河(するが=静岡県西部)の今川義元(いまがわよしもと)の傘下となってしまったため、そのまま今川の城となっていたのです。
一方、天文二十年(1551年)の父ちゃん=信秀の死(3月3日参照>>)を受けて後を継いだ織田信長(のぶなが)。。。
翌年の赤塚(あかつか=名古屋市緑区)の戦いに苦戦しながらも(4月17日参照>>)、2年後の天文二十三年(1554年)には今川方の村木砦(むらきとりで=愛知県知多郡)を落とし(1月24日参照>>)、
弘治元年(1555年)4月には 清洲城(きよすじょう=愛知県清須市:清須城)を乗っ取ります(4月20日参照>>)。
もちろん、まだ尾張統一とは行かず、尾張の守護(しゅご=幕府公認県知事)は斯波義銀(しばよしかね)で、守護代(副知事)は本家の織田信友(のぶとも)ですが、この清洲は尾張の覇府(はふ=政治の中心地・首都)ですから、
そこを取ったという事は、名目上は尾張の一武将でも、事実上、上り調子な事は一目瞭然。
当然…信長自身もヤル気満々!
この機会に一つでも多く今川の拠点を叩き潰しておきたい・・・その中には、もちろん父ちゃんの時代に取られたまんまになってる品野城も含まれています。
そこで品野城を攻撃すべく、近くに付城(つけじろ=攻撃用の仮の城)を構築する信長。。。
一方、永禄元年(1558年)正月、前年に、祖父の一字を取って、その名を松平元康(もとやす)と改めた後の徳川家康(とくがわいえやす=ややこしいのでここから家康呼びします)は、今川義元から
「ここんとこ、信長が三河を狙てチョッカイ出して来よるけど、もともと三河は松平の領地やさかい、どや?君がいっちょやってみぃひんか?」
と、ここに来て織田へと通じた鈴木日向守(すずきひゅうがのかみ=重辰)が守る寺部城(てらべじょう=愛知県豊田市)の奪取を打診されます。
先に書いた通り、祖父の清康が亡くなってから父の代で今川の傘下となっていた松平から人質として今川にやって来た身である家康は(3月6日参照>>)、この今川義元の下で元服し、今川家の重臣である関口親永(せきぐちちかなが=瀬名義広)の娘で、今川義元の姪にあたる瀬名姫(せなひめ=後の築山殿)(8月29日参照>>)を娶っている、もはや立派な今川の人。。。
ここで、
17歳で初陣となる戦いを家康は見事にやってのけ、永禄元年(1558年)2月5日、織田方に寝返った寺部城を陥落させたのでした(2月5日参照>>)。
歓喜の義元は、家康を駿府(すんぷ=静岡県静岡市)に呼び、自らの太刀を与えたほか、旧領のうち300貫文の地を家康に返還し、信長に対抗すべき品野城を、松平一族の松平家次(いえつぐ)に守らせたのです。
この時、家康譜代の家臣たちは、
「もう1~2回勝利したらもともとの本拠である岡崎城に戻れるかも!」
と大いに期待していたとか・・・
「品野城の戦い・広域位置関係図」↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>
そんなこんなの永禄元年(1558年)3月7日、付城には約1000の兵を備えて、いよいよ品野城へ攻撃を開始する信長。。。
しかし、すでに家康の命を受けて籠城の準備も万端な松平家次は一歩もひるまず、そのタイミングをうかがいます。
それは、未だ未明の頃、、、家次は密かに城を抜け出して織田軍に奇襲攻撃を仕掛けたのです。
準備万端整えたものの、
「合戦は朝になってから…」
と考えていた織田勢が、フイを突かれて慌てふためき、軍を整える事ができない中を、
家次は猛攻撃を仕掛けて、付城主の竹村長方(たけむらながかた)や磯田金平(いそだかねひら)をはじめ50人ほどを、またたく間に討ち取ったのです。
やむなく織田勢は敗走・・・結果的に家次は、品野城を守ったばかりか、敵の付城まで手に入れる事ができたのです。
一方の信長は、これまで上り調子だった対今川との戦いで、初とも言える大敗北を喰らい、まずは尾張統一を急ごうと方向転換。。。
2ヶ月後の5月には浮野(うきの=愛知県一宮市千秋町)の戦いに勝利して勢いを取り戻し(5月28日参照>>)、
2年後の永禄三年(1560年)の1月に再び品野城を猛攻撃して、今度は見事陥落させ、近隣の品野三城と呼ばれた桑下城(くわしたじょう)・秋葉城(あきばじょう)・落合城(おちあいじょう=いずれも愛知県瀬戸市)も手に入れたのでした。
そう・・・この永禄三年(1560年)と言えば、、、
結果的に、この2度目の品野城の戦いが、3ヶ月後に起こる、あの桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市・名古屋市緑区)の前哨戦となったのです。
●【一か八かの桶狭間の戦い】>>
●【二つの桶狭間古戦場】>>
●【毛利良勝と服部一忠】>>
そして、この桶狭間のおかげで
「もう1~2回勝利したらもともとの本拠である岡崎城に戻れるかも!」
と胸を弾ませていた家康の家臣たちの願いが、別の形で叶えられる事になるのは、皆さまご存知の通りです。
●【桶狭間の戦いの家康は…】>>
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