本能寺の余波~佐々成政の賤ヶ岳…弓庄城の攻防
天正十一年(1583年)4月3日、佐々成政が土肥政繁の弓庄城を包囲しました。
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天正十年(1582年)6月2日に起こった本能寺の変(ほんのうじのへん)(6月2日参照>>)・・・今や武士として頂点に君臨していた織田信長(おだのぶなが)の死は、各地の諸将に多大なる影響を与える事になります。
信長の命で備中高松城(びっちゅうたかまつじょう=岡山県岡山市)を攻めていた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、早々に和睦を結んで(6月4日参照>>)中国大返し(6月6日参照>>)で畿内へ戻り、仇となった明智光秀(あけちみつひで)を討ちます(6月13日参照>>)。
信長が、わずか3ヶ月前に武田勝頼(たけだかつより)倒して得た(3月11日参照>>)甲斐(かい=山梨県)などの武田旧領では、未だ織田勢での統治が完了しておらず、
武田の残党に襲撃される【河尻秀隆】>>
残党を振り切りつつ畿内へ急ぐ【森長可】>>
美濃(みの=岐阜県南部)を押さえる【稲葉一鉄】>>
など、配下の武将も様々・・・
一方、これを機に
旧武田領を狙う北条と対峙の【滝川一益】>>
北条に乗っかって旧武田領を狙う【徳川家康】>>
直前に信長に屈した【雑賀でも内紛が起こり】>>
攻められ直前だった【長宗我部元親が阿波平定】>>
そんな中で、本能寺の出来事を知らないまま、翌日の6月3日に魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を落とした(6月3日参照>>)柴田勝家(しばたかついえ)をはじめとする北陸担当の織田家武将たちは、
魚津城の救援に駆けつけていた越後(えちご=新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)の動きや、ドサクサで起こった能登(のと=石川県北東部)での一揆に対処せねばならず(6月26日参照>>)、
七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)の前田利家(まえだとしいえ)、
金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)の佐久間盛政(さくまもりまさ)、
富山城(とやまじょう=富山県富山市)の佐々成政(さっさなりまさ)、
らも、すぐには畿内へと動く事ができませんでした。
そんな中、上杉の支援を受けた松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)の須田満親(すだみつちか)が、(おそらく7月頃に)かの魚津城を奪回・・・
すると、織田の勢いに惹かれて、ここしばらくは佐々成政に従っていた弓庄城( ゆみのしょうじょう=富山県中新川郡上市町)の土肥政繁(どいまさしげ)が、この状況を見て離脱し、上杉方に寝返ったのです。
どうやら、当時は土肥政繁の臣となっていた有沢五郎次郎(ありさわごろうじろう=図書助)なる武将が、人質として幼少期に上杉領で暮らした縁があった事で仲介役を買って出たらしい・・・
とにもかくにも、ここまで信長配下として頑張って来た佐々成政にとしては、せめて越中(えっちゅう=富山県)領内は自身の勢力圏内に維持しておきたいわけで、、、
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そこで8月6日、自ら手勢を率いて弓庄城を囲んだ佐々成政は、かつての同盟の証として預かっていた土肥政繁の次男=土肥平助(へいすけ)を、わざと敵から見えるように磔(はりつけ)にして見せますが、土肥政繁の心中は動かぬ様子・・・
哀れ平助は、未だ13歳の若さで処刑されてしまうのです。
逆に、この仲間の死に奮い立つ弓庄城兵たちは、籠城死守の意気込み荒く、佐々成政勢の攻撃にも怯む事無く抵抗し、佐々成政は攻めあぐねるのです。
そうこうしているうちに季節は変わります。
上記の8月は旧暦の8月なので、またたく間に秋となり、北陸は、そろそろ雪の季節に・・・
9月に入って、佐々成政はやむなく兵を退き、翌年の春を待つ事にしますが、翌年の春って???
そうです。
すでにこの年の暮れから始まっている織田家内の勢力争い・・・
主君の仇を取った事で、信長の死後に行われた清須会議(きよすかいぎ)(6月27日参照>>)での発言が強まった秀吉と、
織田家家臣の筆頭だった柴田勝家の主導権争いとなる、
あの賤ヶ岳(しずがたけ~滋賀県長浜市)の戦いが、もう始まっていて、コチラも春を待ってる冬休み状態に入っていた(【賤ヶ岳岐阜の乱】参照>>) わけです。
この冬休みの間に、配下の石田三成(いしだみつなり)や増田長盛(ましたながもり)らに何通もの書状を書かせて越後へと送り、上杉景勝に
「越中に侵攻してきてちょ!」
と、勝家の背後を脅かすように要請し、すでに景勝から「OK!」の返信を得ていた秀吉。。。
そうなると、当然、秀吉と対抗する勝家は成政に越中方面の備えを依頼するわけで。。。
(おそらく、この時期か少し前に佐久間勝之(さくまかつゆき=勝家の将・佐久間盛政の弟)が佐々成政の娘と結婚している)
なので、成政は、あの賤ヶ岳の本チャンには参加してませんが、一連の戦いでは勝家側として参戦していた事になります。
かくして天正十一年(1583年)、雪が解け始めた2月初めに、須田満親から魚津城を奪回して勢いづく佐々成政。
とは言え、
「春になったら、ヤッタルで!」
と思っているのは誰しもが同じ。。。
早速の2月8日、これまで冬眠していた土肥政繁が動き出し、富山城外に火を放ったり、新庄城(しんじょうじょう=富山県富山市新庄町)を陥落させたり、一族挙げての大暴れ。
しかし成政も戦上手と謳われた猛将です。
★弓庄城攻防戦の位置関係図 ↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>
ここぞとばかりに出て来た土肥勢を迎え撃ち、かなりの損害を与える中、天正十一年(1583年)4月3日、再び弓庄城を囲んだ成政は、
柿沢(かきざわ=富山県中新川郡上市町)や新屋(あらや=富山県富山市新屋)などをはじめ、周辺に複数の付城(つけじろ=攻撃するための城)を構築し、8月5日から本格的に攻撃を開始します。
この時の成政の戦法は「八方崩し(はっぽうくずし)」であったとか・・・
それは、
複数の付城の周辺にたくさんの幟旗(のぼりばた)を立てて、どこに主力がいるかわからないように偽装し、
敵が北へ向かえば東や南から鬨(とき)の声を挙げ、別方向に向かえば、また別の場所から…というようなかく乱作戦です。
血気盛んな弓庄城兵も、最初こそ1日に幾度となく出撃して来て小競り合いを展開してはいましたが、それもだんだん少なくなり、
やがて弓庄城の詰の城(つめのしろ=戦時の最後の拠点となる城)となる稲村城(いなむらじょう=富山県中新川郡上市町)を落とされたうえ、期待していた上杉の援軍も現れず・・・
やむなく土肥政繁は、決死の覚悟を決め、自らが全城兵を率いて出撃し、柿沢野にて白兵戦を展開しますが、上記の通り、「八方崩し」の形を維持している佐々勢相手では、逆に八方からの攻撃を受ける事になり、少ない兵数では、到底太刀打ちできません。
しかも成政は、すでに弓庄城の周りに虎落(もがり=竹を筋かいに組み合わせて縄で縛った柵さくや垣根)を構築しており、
「そこから外には鼠一匹たちろも通すまい」
と長期戦を見据えての完全包囲を完成していたのです。
「もはや弓庄城落城は時間の問題!」
となった、その時、、、
4月21日の賤ヶ岳本チャン(4月21日参照>>)と、
それに続く
北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市)の落城と勝家の自刃(4月23日参照>>)の一報を得る佐々成政。。。
もはや形勢は秀吉一本です。
5月に入って、娘を人質に秀吉に降った成政に対し、秀吉は、素直に軍門に下った事を評して越中一国を安堵して傘下に加えるのです。
一方の土肥政繁も、
「これ以上の戦いは無意味」
と判断し、有沢采女(うねめ=有沢五郎次郎の弟)を人質に差し出して佐々成政と和睦して弓庄城を明け渡し、上杉を頼って越後へと去って行きました。
めでたしめでたし・・・
…と言いたいところですが、ご存知のように、この後の、あの小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦い(3月6日参照>>)の時に、成政は、またもや秀吉の反対側につく事になるのですが、そのお話は下記リンク↓からどうぞm(_ _)m
※もちろん土肥政繁は秀吉側として参戦ww
●末森城攻防戦>>
●鳥越城の攻防>>
●北アルプスさらさら越え>>
●阿尾城の戦い>>
●秀吉越中征伐~富山城の戦い>>
●佐々成政が秀吉に降伏>>
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