何かが起こる?年に一度の賀茂祭~花山さんちの前を通るな事件
長徳三年(997年)4月17日、昼間の賀茂祭見物で目立っていた花山院の邸宅が、夜になって検非違使に囲まれました。
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現在は葵祭(あおいまつり)と呼ばれて、毎年5月1日~5月15日にかけて様々な行事が行われ、京都三大祭の一つに数えられている有名なお祭り。。。(8月30日参照>>)
今は5月15日行われる王朝行列が1番有名ですが、そもそもは五穀豊穣を願う賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ=下鴨神社)と賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ=上賀茂神社)の「賀茂祭(かもまつり)」という例祭で、
毎年4月(陰暦)の2回目の酉の日に、天皇の「お祭り開催宣言」を受けた勅使(ちょくし=天皇の使い)が、その命を告げるために神社に向かう行列がメインで、その行列を見物する人が多く集まってだんだん盛大になり、平安の頃は、ただ「祭り」と言えば、この賀茂祭の事を指すくらいの一大イベントだったわけですが、
有名な『源氏物語』にも、祭りでのモメ事シーンが登場しますし、
昨年のブログでも「見物場所争奪戦」のお話を書かせていただきましたように(参照>>)、
とにかく、この賀茂祭は、毎年のように平安貴族がハメを外して大暴れするお祭りだったのです。
永延元年(987年)の4月17日には、
いつものように使者の行列を見物しようと牛車に乗って 一条大路を東に向かっていた藤原道長(ふじわらのみちなが)と異母兄の藤原道綱(みちつな)が、
ただ良い見物場所を探していただけなのに、たまたま左大臣の藤原為光(ためみつ)の牛車の前を横切ってしまったため、怒った為光の従者20~30人が一斉に道長らの牛車に石を投げたおすという事件も起こりました。
ご存知のように、後には、欠ける事無き望月の栄華を極める道長ですが、この時は未だ22歳で左少将・・・兄の道綱も33歳の右近中将でしたから、ただただ牛車の中で震えつつやり過ごすしか無かったようです。
そんなこんなの賀茂祭。。。
長徳三年(997年)4月17日にトラブルを起こしたのが花山院(かざんいん=第65代天皇・花山法皇)です。
すでに10年ほど前に出家して譲位した花山院ですが、そのお歳はまだ30歳・・・
かつてはハメを外しがちで浮名を流した性格は未だ健在のようで・・・なんせ、この前年には、藤原伊周(これちか)とのアノ「カノジョ寝取られ勘違い事件=長徳の変(ちょうとくのへん)」をやらかしちゃってますから…(1月16日参照>>)
この年は、その前日の4月16日が賀茂祭の日だった中で、
今回の花山院は、その翌日に戻って来る勅使の行列を見物しようと牛車に乗って紫野(むらさきの=京都市北区紫野)へと繰り出したのです。
ただし、帰りの行列とは言え、見物しようとする人出は多く、貴族を含む老若男女がひしめき合うように詰めかけていたのですが、そんな中で花山院の牛車は、かなり目立っていたのだとか・・・
というのも派手好き花山院は、この日のためにミカン(柑子)を一つ一つ紐でつないだ特大の数珠(じゅず)を用意・・・
それが、あまりにも大きくて、数珠の一部が牛車からはみ出ていたのです。
「数珠って事は中の人は坊さん?」
「坊さんで、こんな派手な事するのって~」
てな事で、周囲の見物人には、この牛車が花山院の牛車だって事がバレバレなうえに、
この日は、その牛車の周囲を何十人という大勢の屈強な従者が囲んでいたのです。
いや…普通の従者なら、護衛でもあるわけですから、屈強でも不思議では無いのですが、その従者たちは、ただ屈強なだけでなく、いかにも無頼漢漂う、うさん臭さ丸出しの男たちばかりだったので、先ほどのミカン数珠と相まって目立つ事この上ない状態。。。
ま、花山院としては
「我、ここにあり!」
とばかりに存在感をアピールしたかったんでしょうが、なんか異様な雰囲気に、町の人もジロジロ見るばかり。。。
そんな時、誰かからの通報を受けて現場に駆け付けた検非違使(けびいし=警察)軍団。。。
すると、蜘蛛の子散らすように花山院の牛車の周囲にいた従者たちが一斉に逃げ出したのです。
この様子を『大鏡』では、
「蜘蛛の子を風の吹き払う如く…」
って表現してますが、
この時代に、すでにこういう表現の仕方あったんですね~😃
実は、花山院の従者たち、ただ単に
「無頼漢漂う…」
「うさん臭さ丸出し」
な一般人ではなく、
本物のならず者&ごろつきたちで、今で言う指名手配中の犯人ばかりだったのです。
なので検非違使登場で一斉に逃げました。
こうして警備の人全員がいなくなって事で、このあとの花山院は、彼らを捕まえに来た検非違使に警固されて帰宅するという、めっちゃカッコ悪い状況となってしまったのでした。
さらに、この日の夜にもひと悶着。。。
夜になって、時の一条天皇(いちじょう てんのう=第66代)の命を受けた検非違使が花山院の邸宅を取り囲むのです。
もちろん、これは花山院を捕縛しようというのではなく、ほとぼり冷めて戻って来ているであろう昼間逃げちゃったヤツらを捕縛するためです。
それは、この前日に起こっていた暴力事件。。。
花山院の邸宅は平安京の近衛大路(このえおおじ=現在の出水通)に面していて、けっこう人通りがある場所なのですが、
前日の夕方、友人の藤原道長クンち(土御門第=京都府京都市上京区京都御苑内)から帰る途中の藤原公任(きんとう)と藤原斉信(ただのぶ)という二人の参議(さんぎ)が乗った牛車が、
この花山院の邸宅前を通りがかったところ、その邸宅からわらわらと出て来たの数十人の男たちに取り囲まれ、いきなりの投石攻撃に遭ったのです。
従者たちは、それぞれに杖やら弓やらの武器を持ち、牛車には投石、従者には暴力を加え、そのうちの幾人かの従者は拉致されて花山院の邸宅内に引っ張り込まれてしまっていたのです。
実は、これ以前にも、花山院から
「ワイの家の前、通れるもんなら通ってみぃや!」
と徴発された藤原隆家(たかいえ=道長の甥)が、
「おぉ!受けて立ったらぁ」
と意気込んで、通常よりは頑丈な車輪を施した牛車に、数十人の従者に警備させて花山院の邸宅にやって来た事があったのですが、何やら、近くまで来たものの、結局、前を通らずに帰って行った…てな出来事があったとか・・・
どうやら、近くまで来て邸宅の前を伺ったところ、屈強で荒々しい法師7~80人が周囲を囲むその異様な雰囲気に
「これはアカン」
「絶対、痛い目に遭うパターンやん」
と思ったらしく、
以来、平安貴族の間では、
「花山院の家の前は通ったらアカン場所」
てな噂になっていたようです。
ま、藤原公任と藤原斉信は、それを、まだ知らなかったので通っちゃったんでしょうけど。。。
たぶん、これからは気をつけるでしょうね~
これは、いわゆる
「花山天皇の奇行」(2月8日参照>>)
の一つなのかも知れませんが、
一方で、思いのままにならない世の中への、悲しい叫びのようにも思えて…なかなか複雑です。
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コメント
永延元年(987年)の騒動については「光る君へ」では触れていませんでしたね。
記事後半の部分に関しては今月の回で触れるかな?
それにしても今年のGWは大変に暑い日が多かったですね。
投稿: えびすこ | 2024年5月 5日 (日) 15時26分
えびすこさん、こんばんは~
光る君へ~の道長さんは、聖人君子で野心無しっぽいキャラですからね
昨日の放送では、七条大路の合戦>>は飛ばされて、すでに右大臣になっちゃいましたね。
暴れるとこも、ちょっと見てみたかったので残念!
投稿: 茶々 | 2024年5月 6日 (月) 04時15分
茶々さん、こんにちは!
大河ドラマでこの騒動がたとえ語られなくても、自分の頭の中ではドラマの役者さん達でその光景が再現されました。
酷い目にあってるけど、ドラマで花山院が再登場して嬉しいです。
ドラマがとても面白くて、秀吉といえば竹中直人、家康といえば津川雅彦のように、スッカリと中の人のイメージで染み付いちゃってます。
「登場人物が藤原氏ばかりで、誰が誰だか分からない」という意見もありますが、そんなことはないと反論できるぐらい覚えやすいドラマだと思います。
投稿: 禿鼠 | 2024年6月12日 (水) 11時46分
禿鼠さん、こんばんは~
ホント!おもしろいですよね~今年の大河。。。
あちらこちらに史実を織り込みながらも一つのストーリーにしていく手腕はお見事です。
衣装や小道具もステキだし、演出も良いし、創作も無理強いではなくほど良き加減です。
今は、(イケおぢと結婚する事は知ってるので…ww)
松下宋人の国際ロマンス詐欺もどきが、どこに行きつくのか?
個人的な楽しみです。
投稿: 茶々 | 2024年6月13日 (木) 03時05分