生まれる前から家督争い~畠山政長の生涯
明応二年(1493年)閏4月25日 、叔父の畠山義就との家督争いに身を投じた畠山政長が自刃しました。
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畠山政長(はたけやままさなが)の畠山氏は、室町時代の足利政権下で河内(かわち=大阪府東部)・紀伊(きい=和歌山県)・越中(えっちゅう=富山県)・山城(やましろ=京都府南部)の守護(しゅご=今でいう県知事)を務め幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)も輩出する名家です。
管領で当主だった、当時の畠山持国(もちくに)は、未だ実子に恵まれていなかったため、自らの弟である畠山持富(もちとみ)を自身の後を継ぐべき嗣子(しし=後継者・養子)に予定していましたが、
永享九年(1437年)に実子の畠山義就(よしひろ・よしなり)が誕生した事から、息子を後継者にしたい持国によって持富の嗣子は無かった事に。。。
本日主役の政長は、この無かった事にされた持国の次男として嘉吉二年(1442年)に誕生します。
そんな中、義就が庶子(しょし=側室の産んだ子)で嫡子(ちゃくし=後継者)では無かった事もあって、畠山家内では、従来通り持富を推す者と義就を推す者によって内紛が勃発するのです。
そんなこんなの宝徳四年(1452年)に持富が亡くなり持富長男(つまり政長の兄)の畠山弥三郎(やさぶろう=政久)が後を継ぎますが、大モメのもとを作った持国も享徳四年(1455年)に死去・・・弥三郎を追い落とした義就が父=持国の後を継ぎます。
しかし、そんな中で長禄三年(1459年)には、その弥三郎が死去してしまいますが、持富&弥三郎足推しの者たちによって、その弟である政長が擁立されて、家督争いは継続される事になるのです。
その翌年の長禄四年(1460年)、義就が領国の一つである紀伊の根来寺(ねごろでら=和歌山県岩出市)と合戦を起こして大敗した事から、将軍=足利義政(あしかがよしまさ=第8代室町幕府将軍)によって、家督を政長に譲るよう命じられて義就は河内へと没落していきます。
(【龍田城の戦い】参照>>)
将軍を味方につけて義就の追討命令を得た政長は、寛正四年(1463年)には義就の籠る嶽山城(だけやまじょう=大阪府富田林市)を陥落させて義就を吉野(よしの=奈良県)へ逃亡させました。
その後、政長は嫁の従兄弟の細川勝元(ほそかわかつもと)の援助により管領に上り詰めます。
一方、文正元年(1466年)の大赦(たいしゃ=国家の吉凶により罪を許される)にて罪を許された義就は、
政長の細川勝元に対抗できるような後ろ盾を求めて幕府大物の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)のもとへ行き、その支援を獲得して大和(やまと=奈良県)から河内への侵攻を開始するのです。
(【高田城の戦い】参照>>)
河内の諸城を落としつつ、この年の12月に上洛した義就は、将軍=義政に謁見して、政長へ畠山邸の明け渡しを要求したうえ、管領職を辞任させます。
これに不満を持った政長が上御霊神社(かみごりょうじんじゃ=京都市上京区)に立て籠もり、そこを義就が攻撃して政長を敗走させ・・・と、これが応仁の乱の口火を切る御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)なのですが、
この時、お互いに両者を支援していた山名宗全と細川勝元は「他家のモメ事には不介入=参戦しない」約束していた事で、今回の御霊合戦にあえて参戦しなかった細川勝元でしたが、合戦後に義就側に山名政豊(まさとよ=宗全の息子)が参戦していた事を知った事で怒り心頭・・・
そのため、
「都を荒す山名から将軍を護る」
として義政から「宗全追討」の命を取り付けて将軍旗を掲げ、花の御所(はなのごしょ=京都府京都市上京区:将軍の邸宅)に陣を置いて武装し、総大将に足利義視(よしみ=義政の弟)を任命します。
とは言え、実はこの時、将軍家にも後継者争いが勃発していたのです。
長年子供がいなかった足利義政が、すでに僧になって寺に入っている弟=義視に
「次期将軍になって欲しい」
と還俗(げんぞく=出家した人が一般人に戻る事)までさせていたにも関わらず、
そんな矢先に嫁の日野富子(ひのとみこ)との間に男児(後の足利義尚)が誕生した事で、義政はともかく富子は当然自身の息子を次期将軍にしたいわけで・・・
で、そんな日野富子は密かに山名宗全に援助を依頼。。。
以来を受けた山名宗全が、花の御所より約500mほど西にある自宅に陣を置いた事からコチラが西軍(西陣)、花の御所の細川勝元が東軍。。。
当然、畠山政長と畠山義就も、それぞれの支援者の下で参戦し、そこに同じく家督争いを抱える大物=斯波氏(しばし)も参戦し、さらにそれぞれの派閥に属する全国の武将が東西に分かれて参戦・・・
こうして応仁元年(1467年)5月20日、約10年に渡る応仁の乱(おうにんのらん)が始まるのです(5月20日参照>>)。
大乱中の政長は、最も激しかったと言われる相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)の戦い(10月3日参照>>)をはじめ、河内や紀伊を奪還したり・・・と東軍として活躍しますが、
ご存知のように、この応仁の乱は最初こそ激しかったものの、早くも翌年には東軍総大将=義視がトンズラ(11月13日参照>>)したりなんぞして、合戦の内容がどんどん小競り合い程度になって行き、
やがて文明五年(1473年)に宗全と勝元が相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事、
そして、この年の12月に足利義政が将軍職を息子の足利義尚(よしひさ)に譲った事などで、ここかへんからの大乱は、ほぼ名ばかりとなります(正式な終結は文明九年(1477年)→参照>>)。
しかし、次期将軍が決まろうが、両巨頭が亡くなろうが、畠山の後継者争いは終わりません。
はなから講和に反対の義就が河内や大和に侵攻して政長方の諸城を陥落させ、ほぼ実効支配をした事を受けて、
文明十四年(1482年)には幕府からの『義就追討命令』を取り付けて、亡き細川勝元の後を継いだ息子=細川政元(まさもと)とともに、政長は義就討伐に向かい戦い続けますが、
文明十七年(1485年)には、いつまで経っても終らない戦いに疲弊した南山城(みなみやましろ=京都府南部)の国人(こくじん=地侍)たちが
「俺らの土地で戦争すなや!」
と蜂起し、あの山城の国一揆(くにいっき)(12月11日参照>>)が勃発した事で
幕府から撤退命令が出て、とりあえずは両名ともに矛を収めるものの、ほとぼり冷めたら、結局は、両者の小競り合いもぶり返し・・・
その経過状況は、
幕府を後ろ盾にした政長が有利な態勢な中で、
延徳二年(1491年)12月には義就が死去(12月12日参照>>)・・・しかし両者の戦いはキッチリ、その息子の畠山義豊(よしとよ=基家)に引き継がれます。
やがて明応二年(1493年)2月、4年前の義尚の死を受けて第10代将軍に就任していた足利義稙(よしたね=当時は義材:足利義視の息子)が、政長の依頼で各地の大名に「畠山義豊討伐」を呼びかけ、
政長もこの将軍とともに出陣し、畠山義豊の本城である高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市)を攻めに向かいました。
ところがドッコイ、この間に管領の細川政元が、将軍のいない京を制圧して、仏門に入っていた義稙の従兄弟を還俗させて足利義澄(よしずみ=当時は清晃→義遐)として第11代将軍に擁立したのです。
世に言う明応の政変(めいおうのせいへん)です。
その要因は様々にあろうかと思われますが、1番は、すでに室町幕府将軍という存在が、将軍自らが出陣しても一武家さえ倒せない(【将軍の六角征討】参照>>)程度の力になってしまっている現状を、
政元自身の力量で改変すべく自らの意のままに従ってくれる将軍を望んでいたのかも知れません(政変についてのくわしくは4月22日参照>>)。
とにもかくにも、これにて京に戻る事はできなくなった足利義稙と畠山政長・・・
しかも細川政元の政変は、計画的で根回しがバッチリ行われており、今回の出兵で義稙&政長に従っていた幕府軍の兵士も、これを機にほとんどが堺(さかい=大阪府堺市)へ撤退してしまい、逆に政長らを攻撃せんが姿勢を取ります。
やむなく、義稙とともに正覚寺城(しょうがくじじょう=大阪市平野区加美)に立て籠もる政長でしたが、もはや、わずかな援軍も望めない孤立無援の状態。。。
かくして明応二年(1493年)閏4月25日 、前日からの幕府軍の攻撃に耐えかねた正覚寺城は陥落・・・
一人息子の畠山尚順(ひさのぶ ・ ひさより)を逃した後、畠山政長は城中にて重臣らともに切腹して果てたのです。
政長の切腹を見届けた足利義稙は、その後敵陣に投降して幽閉の身となりますが、
この方がまだまだ屈しないのはご存知の通り・・・もちろん、そこには父の志を継ぐ息子=畠山尚順の姿も。。。(くわしくは【宇治木幡の戦い】参照>>)
…にしても、
室町&戦国のならいとは言え、生まれる前から戦いが始まっていて、最後に死ぬまで同じ戦いに明け暮れた51年の生涯・・・
一時的にも管領に就任したその時が1番の幸せだったかも知れませんが、きっと、それでも心が休まる事は無かったでしょうね。
・‥…━━━☆
という事で、本日は、そのご命日に因んで畠山政長さんを中心に、その生涯を追ってみましたが、これまで応仁の乱やら何やらで度々ブログに登場している方なので、そこここに内容がかぶっている場所もありますが、ご了承くださいませm(_ _)m
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