天文法華の乱へ~細川晴元の石山本願寺攻め…三好長慶の登場
天文二年(1533年)5月2日、法華宗徒の援軍を得た細川晴元が証如が本拠とする石山本願寺に攻撃を仕掛けました。
・・・・・・・・・
室町幕府政権下で将軍を補佐すべき役どころの管領(かんれい)でありながら、時の将軍=足利義稙(あしかがよしたね=義材:10代)の留守を狙ってクーデターを決行し、自らの望む足利義澄(よしずみ=義稙の従兄弟)を11代将軍に擁立した細川政元(ほそかわまさもと)・・・(【明応の政変】参照>>)
まさに将軍をも凌ぐ実力者となった政元ですが、彼に実子がいなかった事から、
細川澄之(すみゆき=九条政基からの養子)、
細川澄元(すみもと=阿波細川家からの養子)、
細川高国(たかくに=野洲細川家からの養子)、
の3人の養子たちによって後継者争いが勃発するのです。
まずは永正四年(1507年)に、澄元と高国の連合によって澄之が追い落とされますが(8月1日参照>>)、当然、その後は澄元と高国の争いに・・・
永正八年(1511年)の 船岡山の戦い>>にはじまり、
永正十七年(1520年)の腰水城の戦い>>から
永正十七年(1520年)の等持院表の戦い>>
で澄元を破った高国は、足利義澄の息子である足利義晴(よしはる)を第12代室町幕府将軍として擁立して、事実上の高国政権を樹立。。。
一方、敗れた澄元は地元の阿波(あわ=徳島県)へと敗走し、その地にて死去・・・その後を継いだ息子が細川晴元(はるもと)です。
晴元は大永六年(1526年)に起きた高国政権内のゴタゴタ(10月23日参照>>)に乗じて上洛し、父の遺志を継いで高国と戦う事になるのです。
阿波時代からの家臣=三好元長(みよしもとなが=長慶の父)や、山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)=木沢長政(きざわながまさ)らを率いた晴元は、大永七年(1527年)の桂川原の戦い>>にて高国と義晴を近江(おうみ=滋賀県)へと追いやって、堺公方に足利義維(よしつな=義晴の弟)を擁立して、堺幕府(3月1日の真ん中あたり参照>>)とも言える政権を立ち上げ、
やがて享禄四年(1531年)に大物崩れ(だいもつくずれ)の戦い>>で高国を亡き者にすると、
強敵がいなくなったからか?
なにやら、晴元政権下内で亀裂が生まれ始めるのです。
高国との戦いで晴元と急接近した木沢長政が、もともとの主家であった畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)からの独立を企てた事で激怒した畠山義堯が、元長の一族の三好一秀(かずひで=勝宗)に命じて長政の居城を攻撃させると、長政が晴元に救援要請・・・
すると、そこに一族でありながらも元長と敵対していた三好政長(まさなが)が手助けをする。。。
さらに、そんな中で晴元は足利義維を棄て、排除したはずの足利義晴に急接近。。。
そんなこんなで、政権内に
「細川晴元+木沢長政+三好政長」
VS
「畠山義堯+三好元長+三好一秀」
の構図が出来上がるのですが、分が悪い晴元&長政らは、
血気盛んな大勢の衆徒を抱える山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)の第10世法主=証如(しょうにょ=蓮如の曾孫)に救援を要請するのです。
ご存知のように、本願寺は、あの一向一揆の総本山・・・加賀一向一揆は100年続き(6月9日参照>>)、後には、あの織田信長(おだのぶなが)をも悩ませる(8月2日参照>>)一大武装勢力ですから。。。
早速、救援要請を快諾する証如ですが、もちろん協力する本願寺証如にもワケがある。。。
実は、この頃の京都の宗教界を本願寺と二分していたのが法華宗で、
その法華宗の大スポンサーだったのが三好元長だったのです。
こうして教祖の呼びかけに集まった約3万と言われる本願寺衆徒は、天文元年(1532年)6月に木沢長政の飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を囲んでいた三好勢に猛攻撃を開始し、まずは三好一秀、次に畠山義堯、そして三好元長までもを自刃に追い込んだのです。
しかも、その勢いのまま大和(やまと=奈良県)に侵攻し、古くからの一大宗教勢力=興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)の伽藍(がらん=寺院の主要建築群)を焼き、春日神社(かすがじんじゃ=現在の春日大社)までもブッ壊してしまうのです(7月17日参照>>)。
それは、たぶん。。。「細川晴元+木沢長政+三好政長」組にしてみたら、
「おいおい、そこまでヤレとは言うてない」
「こっっわ(∂O∂;)あいつらブレーキ効かへんやん」
「えらい奴に頼んでもた~」
って、なった?
さらにエスカレートしていく本願寺衆徒は、半月後の8月4日には堺にいた晴元に、続いて木沢長政にも攻撃を仕掛け・・・と、本願寺門徒は京都や畿内で大暴れ!
やむなく晴元らは約1ヶ月後に、なんと今度は、かの法華宗徒らに頼んで、山科本願寺を攻撃するのです(8月23日参照>>)。
堂塔はもちろん、約六町(一町=100m)に渡って軒を連ねていた宿坊や商家が炎に包まれ、あたり一帯は焦土と化しました。
何とか難を逃れた証如は、曾祖父の蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)が晩年暮らした隠居所=大坂御坊(おおさかごぼう=大阪府大阪市)へと移り、ここを新たな拠点とするのです。
これがご存知、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大坂本願寺)です。
京都の本拠地を失い、法華宗徒どころか細川晴元まで敵に回した証如・・・
今度は、敵の敵は味方とばかりに京都の鞍馬(くらま)で挙兵して挽回を目指していた細川高国の弟(息子とも)=細川晴国(はるくに)と接触し(そこは武士の力を借りるのね(-_-))、
摂津(せっつ=大阪府北中部)一帯に起こした一揆勢とともに進軍させ、山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町周辺)まで押し進めます。
さらに年が明けた天文二年(1533年)正月には、尼崎(あまがさき=兵庫県尼崎市)で細川晴元傘下の松井宗信(まついむねのぶ)と、
富田(とんだ=大阪府高槻市)では薬師寺国長(やくしじくになが)と交戦し、2月10日には、ついに堺の細川晴元を堂々攻撃・・・やむなく晴元は淡路(あわじ=淡路島)へと敗走するのでした。
それでも本願寺門徒は止まらず・・・今度は、やはり晴元傘下の伊丹親興(いたみちかおき)の伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)を囲みますが、
ようやくここに来て法華宗徒を率いた木沢長政が援軍として駆け付け、伊丹城を包囲した本願寺門徒を包囲して激戦を展開し、なんとか本願寺門徒を蹴散らしました。
これをキッカケに淡路から舞い戻った晴元は、木沢長政や法華宗徒と合流し、全力で以って堺を奪回し、4月26日に本願寺門徒を大坂へと退去させたのです。
かくして天文二年(1533年)5月2日、細川晴元は諸如ら本願寺門徒の拠点となっていた石山本願寺攻めを開始したのです。
とは言え、この石山本願寺・・・ご存知の方も多かろうと思いますが、その場所は現在の大阪城が建っている場所。
当時は、北に淀川、東に大和川、西は大阪湾に面し、攻撃できる場所は南側だけの天然の要害。。。しかも、そこを信仰心に燃えた命惜しまぬ信徒たちが守るのですから、陥落させるのは至難のワザです。
晴元は四天王寺(してんのうじ=大阪市天王寺区)近くに砦を構築し、そこを拠点に何度も攻撃を仕掛けますが、最終的に総勢4万もの兵を要しながらも、結局は、石山本願寺を崩す事ができなかったのです。
攻撃開始から2ヶ月足らず経った6月20日・・・ようやく講和が成立し、この戦いは終結するのですが、
この講和成立に奔走し、両者の橋渡しをしたのは、なんと、かつて晴元に仕えながらも対立して死んだ三好元長の息子=三好長慶(ながよし)なのです。
もちろん、この時の長慶は未だ12歳ですから、彼がやった・・・というよりは、彼を主君と仰いだ先代からの家臣団という事になるのでしょうが、
後に戦国初の天下人になるべき少年が(6月9日参照>>)、この重要な局面に登場した事は、戦国ファンとしては、かなりの胸アツですな!
とまぁ、今回は何とか終結したものの、法華宗に本願寺に・・・と、自身の都合でいくつもの宗教系パンドラの箱を開けてしまった細川晴元さん。
これが、
やがて京都全土を焦土と化す天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)に突き進んで行く事になるのですが、
その話は7月27日【天文法華の乱…祇園祭の長刀鉾は】>>でどうぞm(_ _)m
※直後の晴元VS晴国の【仁和寺の戦い】はコチラ>>から
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