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2024年5月23日 (木)

六角義賢・初陣~浅井亮政と六角定頼の佐和山合戦

 

天文七年(1538年)5月23日、六角定頼に攻められていた浅井亮政佐和山城が落城しました。

・・・・・・・

鎌倉時代以前より、近江源氏の流れを汲む武家の名門として出雲(いづも=島根県東部)隠岐(おき=島根県隠岐諸島)飛騨(ひだ=岐阜県北部)近江(おうみ=滋賀県)守護(しゅご=県知事)だった京極(きょうごく)。。。

しかし、あの応仁の乱(おうにんのらん)【応仁・近江の乱】参照>>)に端を発する家督争い京極騒乱(きょうごくそうらん=文明の内訌とも)のせいで家内はすっかり混乱し、他家から狙われ、騒乱が終わった後に残ったのは、なんやかんやの北近江(きたおうみ=滋賀県北部)だけ【祇園館の戦い】参照>>)

Kyougokusourankeizu ←京極騒乱・関係系図

しかも、その争乱終結後にやっとこさ家督を継承した京極高清(きょうごくたかきよ・乙童子丸)のとこも、その息子たちによる覇権争いが起き(高広VS高吉)、もう京極氏はグダグダ状態。。。

そんな京極氏に根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)として代々仕えていたのが、北近江の国人であった浅井(あざい・あさい)で、

その浅井氏の庶流に生まれながらも、本家に婿入りして惣領後継者となったのが浅井亮政(すけまさ)です。

そんな中で大永三年(1523年)3月に開かれた高清の後継者会議が粉飾してゴタゴタした事で、たまりかねた国人衆がクーデターを決行し、何とか後継者は京極高広(たかひろ=当時は高延)に決定するも、この時に国人衆の筆頭だった浅見貞則(あさみさだのり)が調子に乗りはじめた事から、

警戒した亮政は、小谷山(おだにやま・滋賀県湖北町)に城を構築して(後の小谷城、先のクーデターで尾張(おわり=愛知県西部)へと逃げていた京極高清を迎え入れて旗印とし、浅見貞則を追放して国人衆のトップに立つのです(3月9日参照>>)

配下が自分の思い通りの主君を仰ぐ→こうなると、やがては主家を凌ぐほどの勢いになって行くのは戦国の常・・・

浅井亮政に、いずれ主家を倒す思惑があったか?無かったか?はともかく、そんな浅井の台頭を警戒したのが、京極氏と同じ近江源氏の流れを汲み、近江の南半分を束ねていた六角氏六角定頼(ろっかくさだより)でした。

そのため六角定頼は、度々北近江へ出陣しては亮政の頭を抑えるという事を繰り返すようになるのですが、

そんな中、大永七年(1527年)の桂川原(かつらかわら)の戦い(2月13日参照>>)にて、細川晴元(ほそかわはるもと=元管領・細川政元の養子=澄元の息子)に敗れて京都を追われ、近江にやって来た足利義晴(あしかがよしはる=第12代室町幕府将軍)細川高国(たかくに=細川政元の養子)から支援を頼まれた京極高清のもと、

享禄四年(1531年)には、箕浦(みのうら=滋賀県米原市)河原にて足利義晴派の六角定頼と戦い、手痛い敗北を喰らいます(【箕浦合戦】参照>>)

そんなこんなの天文七年(1538年)1月、京極高清が亡くなった事で、またもや高広VS高吉兄弟の後継者争いが再燃。。。

これに乗じて、京極の後継者云々…よりも何が何でも浅井亮政をぶっ潰したい六角定頼が出兵し、早くも翌月の2月頃から、六角VS浅井の小競り合いが何度も繰り返される事に。。。

5月になると、六角定頼は自らの嫡子=六角義賢(よしかた=後の承禎)や弟の大原高保(おおはらたかやす=六角高盛→同族の大原政重の養子となる)を伴って本格的な出陣を決行します。
(ちなみに六角義賢は、これが初陣となります)

これを受けた浅井亮政方は、周辺には六角派の者らが多く点在する事から、野戦を展開する事は不利と考え、佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)以下、周辺の支城に籠って六角軍を迎え撃つ事にします。

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佐和山城跡(滋賀県彦根市)

しかし六角定頼も然る者・・・兵力の消耗を押さえるべく、力攻めを避けて持久戦といきます。

佐和山城を取り囲み、その補給路を断った事で、やがて佐和山城内では兵糧が欠乏し、徐々に飢えていくのです。

かくして天文七年(1538年)5月23日血路を開いて打って出る浅井勢でしたが、そもそも対等に野戦できる兵数は備えてはいないわけで…残念ながら佐和山城は落城し、城は六角の物となりました。

9月には、浅井の本城である小谷城近くでも合戦が行われますが、これも六角氏の勝利・・・

やむなく浅井亮政は六角定頼に従い、その傘下となって生き残る事になるのです。

とは言え、以前のページ(上記の3月9日のページ>>)に書かせていただいたように、なぜか負ける度に強くなる浅井亮政・・・というより、家臣団や国人衆の結束が固くなるんでしょうね~

その後、、、
戦いから4年後の天文十一年(1542年)1月に浅井亮政は死去し、家督は息子の浅井久政(ひさまさ)が継ぎますが、この時点でもまだ六角の傘下・・・(1月10日参照>>)

そんな浅井氏が六角の手を離れる事になるのが、永禄三年(1560年)8月・・・孫の浅井長政(ながまさ)野良田(のらだ=滋賀県彦根市野良田町付近)の戦いでやっちゃってくれちゃいます! …ので、どうぞコチラでご覧あれ→(8月18日参照>>)
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