真理谷武田家の後継者争い~上総錯乱
天文六年(1537年)5月16日、真理谷武田家の後継者争いの上総錯乱で真里谷信応が真里谷信隆の峰上城を攻撃しました。
・・・・・・・
あの八幡太郎(はちまんたろう)源義家(みなもとのよしいえ)の弟=新羅三郎(しんらさぶろう)源義光(よしみつ)を祖とする源氏の流れを汲む武田氏の家系で、その11代目=武田信重(たけだのぶしげ=信重から6代目が信玄です)の弟=武田信長(のぶなが)が、例の甲斐(かい=山梨県)の無守護状態(7月22日参照>>)から逃れて房総半島に移転したのが始まりとされる真里谷(まりやつ)武田家。。。
そんなこんなの永正15年(1518年・もしくは前年)、当時、真里谷武田家の当主であった真里谷恕鑑(まりやつじょかん=武田信清)は、
古河公方(こがくぼう=鎌倉公方を自称※公方の系図参照→)の後継者争いに敗れた足利義明(あしかがよしあき)を小弓城(おゆみじょう=千葉県千葉市中央区)(←場所は生実城の説あり)に迎え入れて
小弓公方(おゆみくぼう=鎌倉公方を自称)と称し、
自身も「房総管領(かんれい=将軍・公方の補佐役)」を名乗って、足利義明を冠とする関東支配を目論んでおりました。
しかし、やがて義明と恕鑑が不和になる中で、 天文三年(1534年)に恕鑑は死去。。。
残念ながら、この御大の死去により、真里谷武田家では後継者争いが勃発するのです。
長男の真里谷信隆(のぶたか=武田信隆)は長子ではあるものの庶子(しょし=側室の子)、次男の真里谷信応(のぶまさ=武田信応)は弟だけど嫡男。
しかも、二人はある程度歳が離れていた?(←信隆の生年が不明)らしく、信応が誕生した時には、すでに信隆が長子として後継者に決まっていたのです。
なので、当然、父の死を受けて信隆が、峰上城(みねがみじょう=千葉県富津市上後:峯上城)にて真里谷武田家を継ぐわけですが、やはり嫡子の信応は、それに納得がいかない・・・
しかも、そんな信応を、父とモメた足利義明が推し、さらに、その義明を支える安房(あわ=千葉県南部)の里見義堯(さとみよしたか)もが信応側について介入して来るのです。
そこで信隆は、関東支配を巡って里見と絶賛争い中の相模(さがみ=神奈川県)の北条氏綱(ほうじょううじつな)と結び、後ろ盾とします。
天文四年(1535年)とその翌年には、北条主導で行う鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市雪ノ下)の修理や造営の費用を負担したり、清澄山(きよすみやま=千葉県大多喜町)にて木を伐採して造営用材として送り届けたりして親交を深めています。
そんな中で弟の信応は、足利義明を後ろ盾に、新しく構築した真里谷城(まりやつじょう=千葉県木更津市真里谷)に籠って対抗するのです。
こうして天文六年(1537年)、異母兄弟による真里谷武田家の後継者争い=上総錯乱(かずささくらん)が勃発します。
天文六年(1537年)5月16日、義明から援助を受けた信応は、真里谷城を出陣して峰上城へと馬を走らせますが、なんせ峰上城は岩盤が直角に切り立った標高130mほどの山の頂にあり、天険(てんけん=地形が険しい)の城と呼ばれる自然の要害で、攻めるに厳しい城だったのです。
しかし、一方で、信応の味方についた里見義堯が、信隆の息子=真里谷信政(のぶまさ)の拠る造海城(つくろうみじょう=千葉県富津市竹岡:百首城)を包囲して徹底抗戦の予感。。。
この頃は、すでに房総三国(ぼうそうさんごく=安房・上総・下総)は、ほとんど足利義明の勢力下に入っていましたが、そのワリには峰上城&造海城の城兵は良く守り、苦境の中で踏ん張るのでした。
やがて北条氏綱も信隆救援のための兵を出し、鶴岡八幡宮の快元(かいげん=鶴岡八幡宮の供僧)も勝利の祈祷を行います。
●↑上総錯乱・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
とは言え、結局は、信隆側が負けてしまい、降伏して峰上城も造海城も開け渡す事になってしまいます。
合戦の詳細な記録が残っていないので、その様子は不明なのですが、5月24日付けの書状にて北条氏綱が足利義明の姉に宛てた手紙の中で
「真里谷に出した兵を回収する」
旨の内容を書いていますので、
この24日には、すでに合戦は終焉に向かっていた物と思われます。
和睦の交渉を行ったのは里見義堯とされ、5月27日には峰上城&造海城の両城の兵たちも許されて解放されています。
また、主導となっていた信隆と信政父子は、北条を頼って金沢(かなざわ=神奈川県横浜市金沢区)に逃れたと言います。
こうして真里谷武田家当主の座は信応の物となりますが、世は戦国・・・
この翌年の第1次国府台(こうのだい=千葉県市川市)の戦い(10月7日参照>>)で、頼みの足利義明が討死してしまい、後ろ盾を失った信応の勢力は、やや下降気味に・・・
これをチャンスと見た信隆は、北条をバックに上総へと戻り、椎津城(しいづじょう=千葉県市原市)を拠点に信応に対抗するのですが、そんなこんなの 天文二十年(1551年)に、息子の信政に後を託して信隆は死去・・・
しかし、この頃になると、ここンとこ力をつけて来た里見義堯が、
「なんなら真里谷武田家ごとぶっ潰して房総半島全部を手に入れてやる!」
と思ってる事に信応が気づき始めます。
そうなると敵の敵は味方・・・しかも、本来身内だった者同士の結びつきは早い・・・
叔父さんと甥っ子=信応と信政は、北条の助けを受けつつ里見と対抗する事になるのですが、そのお話は天文二十一年(1552年)11月4日の【椎津城の戦い】のページ>>でどうぞm(_ _)m
.
「 戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事
- 川中島真っ只中に謙信から信玄へ寝返る~北条高広の乱(2025.02.13)
- 宇喜多直家による三村家親の暗殺~弔い合戦が始まる(2025.02.05)
- 宇都宮から結城を守る~水谷正村の久下田城の戦い(2025.01.23)
- 流れ公方の始まり…放浪の将軍となった足利義稙と大内義興(2024.12.25)
- 斎藤道三の美濃取り最終段階~相羽城&揖斐城の戦い(2024.12.11)
コメント