船田合戦に連動した京極高清VS六角高頼の大清水山~磨針峠の戦い
明応五年(1496年)5月29日、美濃で起こった船田合戦に連動した近江での戦いで、弥高山に布陣した京極高清が六角高頼方の伊庭貞隆に突撃を開始しました。
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応仁元年(1467年)に全国の武将が東西に分かれて戦った応仁の乱(おうにんおらん)(5月20日参照>>)は、室町幕府将軍職を頂点にしながらも、それぞれの武将一族がそれぞれに抱える後継者争いの集まりでもありました。
文明五年(1473年)に、西軍大将の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)と東軍大将の細川勝元(ほそかわかつもと)が相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事や、
室町幕府将軍職を8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の息子=足利義尚(よしひさ=第9代将軍)が継いだ事(3月26日参照>>)などで戦いはかなり下火になり、
翌・文明六年(1474年)の4月に、双方大将の後継者である細川政元(まさもと=勝元の嫡男)と山名政豊(まさとよ=宗全の息子か孫)が和睦した事で、応仁の乱は名目上終結・・・
さらに、長享二年(1488年)には、その山名政豊に赤松政則(あかまつまさのり=勝元の支援を受けていた東軍)が勝利して播磨(はりま=兵庫県)押さえ(4月7日参照>>)、
明応二年(1493年)には管領(かんれい=将軍の補佐役)となっていた細川政元が明応の政変(めいおうのせいへん)(4月22日参照>>)を起こして実権を握った事で中央政府での争いに終止符が打たれた感が出て来ました。
(赤松が東軍で東軍大将の息子が実権を握ったので、結果的に東軍の勝利?と言えるのか)
しかし、
だからと言って、乱に参戦したそれぞれの武将一家が抱える後継者争いが鎮まる事は無いわけで…
★参考
●加賀(かが=石川県)=富樫家>>
●近江(おうみ=滋賀県)=京極家>>
●河内(かわち=大阪府)他=畠山家>>
などなど…
そんな彼らは、大乱が終わった後も、かの東西のラインがほぼ崩れる事無く、東西のつながりのまま、自分ちに合戦が起こると他家から援軍を呼び、逆に頼まれると援軍に出陣し・・・てな事を繰り返していたわけです。
そんなこんなの明応三年(1494年)、美濃(みの=岐阜県南部)の守護(しゅご=幕府公認の県知事)であった土岐(とき)氏にも内乱が勃発します。
実は、その実力から中央にも一目置かれ、主家を凌ぐほどの御大だった守護代(しゅごだい=副知事)の斎藤妙椿(さいとうみょうちん=※斎藤家は代々守護代の家系ですが妙椿自身は守護代になっていない説もあり)が、この少し前に亡くなった事で、
二人の養子(2人とも甥っ子)=斎藤利藤(としふじ=妙椿兄の利永の長男)と斎藤妙純(みょうじゅん=当時は利国:利永の三男)の間で後継者争いが起きる中、
翌・明応四年(1495年)には、土岐氏の当主であった土岐成頼(ときしげより)が嫡子の土岐政房(まさふさ)を廃嫡(はいちゃく=後継者指名を撤回)して末っ子で庶子(しょし=側室の子)の土岐元頼(もとより)に後を継がせようとしたところ、
この元頼を斎藤利藤が、政房を斎藤妙純が推した事で、争いが一気に表面化したのです。
で、やっぱり先に書いたように、
それぞれの味方になってくれる近隣の武将に援軍の声掛けをして、さらに戦いは拡大する事に・・・
元頼を推す斎藤利藤と家宰(かさい=家長の代理で家政する役)の石丸利光(いしまるとしみつ=斎藤利光 )らは尾張(おわり=愛知県西部)の織田敏定(おだとしさだ=清洲織田家:信長の曾祖父?とも)や南近江(おうみ=滋賀県南部)の六角高頼(ろっかくたかより)などに援軍を依頼する一方で、
政房を推す斎藤妙純らが頼ったのは、越前(えちぜん=福井県東部)の朝倉(あさくら)や北近江(きたおうみ=滋賀県北部)の京極高清(きょうごくたかきよ)など・・・
こうして始まったのが、船田合戦(ふなだがっせん)と呼ばれる戦いです(6月19日参照>>)。
この時、美濃における複数の戦いに敗れた土岐元頼&石丸利光らが近江に逃れて来て、六角の重臣=伊庭貞隆(いばさだたか)が彼らを保護した事で、
船田合戦に連動した近江における六角VS京極の戦いが勃発するのです。
六角に保護されながら再起の時期を画策していた石丸利光は、六角高頼はもちろん、あの細川政元も味方につけた事で、
明応五年(1496年)5月…今が勝機とばかりに元頼を冠に掲げて伊勢(いせ=三重県)を北上し美濃へと侵入し、城田寺城(きだいじじょう=岐阜県岐阜市)にて土岐政房&斎藤妙純らと戦います。
そんな中、自らの配下である近江武士たちを石丸方の援軍として美濃に派遣しようとする六角高頼でしたが、
土岐政房&斎藤妙純を助ける京極高清が、配下の浅井直種(あざいなおたね=浅井長政の曾祖父)らを美濃の鵜飼(うかい=岐阜県岐阜市黒野)へと派遣し、自らは美濃と近江の国境に近い伊吹山系の弥高山(やたかやま=滋賀県米原市)に布陣したため、高頼は思うように動けなかったのです。
この京極高清の作戦は、六角の援軍が美濃へ侵入するのを防ぐとともに越前からやって来る朝倉方の道筋を確保する役目もあったのです。
そこで六角高頼らは、京極材宗(きむね=京極高清と家督を争った政経の息子)を石丸の援軍として美濃へと向かわせる一方で、伊庭貞隆らに、まずは京極高清らを破ってから美濃に入らせようと考え、
5月11日、伊庭をはじめとする九里(くのり)や青地(あおち)など配下となる江南(こうなん=琵琶湖の南)の武士たちを大清水山(おおしみずやま=滋賀県彦根市)に布陣させて弥高山の京極方に対抗しました。
やがて両軍は衝突・・・激戦に次ぐ激戦となる中で京極高清は六角方の退路を断つべく、密かに兵を動かし、、、
明応五年(1496年)5月29日、京極高清自ら軍勢を指揮して弥高山を下り、六角勢に向かって突撃したのです。
受けて立つ伊庭貞隆もよく防ぎ、容易に崩される様子もなく、戦いは押しつ押されつの五分五分に見えました。
…が、しかし、そこに美濃の城田寺城で戦っていた石丸利光が、まさに、この29日に降伏、翌30日に切腹したとのニュースが飛び込んで来ます。
さらに畳みかけるように
「まもなく朝倉からの援軍が殺到する」
との情報も飛び交い、
やむなく伊庭貞隆は撤兵を決意・・・しかし、もちろん京極勢は、それを追撃します。
追いすがる敵兵を払いながら敗走する六角勢は、戦場から磨針峠(すりはりとうげ=滋賀県彦根市)までの約十里(約40km)を撤退する中で名のある武将だけでも80余人、約500名の兵を失ってしまったのでした。
この船田合戦の勝利によって美濃は、すでに主家を凌ぐ勢いとなっていた斎藤妙純によって平定される事になりますが、
それでも続く近江のゴタゴタ関連によって、この約半年後に、その妙純も命を落とす事になるのですが、そのお話は2017年12月7日のページ>>で…
また、ここでは六角氏の忠臣として戦った伊庭貞隆は、この9年後に、なんと!主君の六角高頼から攻撃される事になるのですが、そのお話は2021年3月24日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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