元禄曽我兄弟~石井兄弟の伊勢亀山の仇討
元禄十四年(1701年)5月9日、石井源蔵&石井半蔵兄弟が、父と兄の仇である赤堀源五右衛門を伊勢亀山城下で討ち取りました。
・・・・・・
この伊勢亀山の仇討事件は、実際に起きた出来事ではありますが
『元禄曽我』(げんろくそが=鎌倉時代に起きた有名な曽我兄弟の仇討になぞらえ→参照>>)と呼ばれて持てはやされ、
複数の写本が残り、江戸時代を通じて浄瑠璃や歌舞伎、小説等でもヒットした事から、様々な逸話が付け加えられたりして、もはやどこまでが史実で、どこからがフィクションなのか?微妙な部分もありますが、
とりあえず、今回は明和七年(1770年)に完成したとされる『常山紀談(じょうざんきだん)』(1月9日参照>>)を基にご紹介させていただきます。
(※常山紀談では「実際にあった出来事」として紹介されています)
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寛文年間(1661年~1673年)に大坂城代(おおさかじょうだい=将軍に代って大坂城主を務める役)に任ぜられた小諸(こもろ=長野県小諸市)藩主の青山宗俊(あおやまむねとし=青山忠俊>>の長男)の家臣に、石井宇右衛門政春(いしいうえもんまさはる)という者がおり、親しくしていた医者の赤堀遊閑(あかほりゆうかん)から
「甥っ子で養子にしてる子の教育をお願いできひんやろか?」
と頼まれ、赤堀源五右衛門(げんごえもん)を預かります。
しかし、しばらくして、その源五右衛門が、あちらこちらで『槍教室』を開いている事を知った石井宇右衛門は、
「お前、まだ他人に教えるほどウマないやん。もうちょっと修行してからにしたら?」
と指摘したところ、
怒った源五右衛門が
「ほな、今ここで勝負せいや!」
と勝負を挑んで来ます。
「いや、君のために言うてんねんやん。
しかも勝負…て
年老いた俺に勝っても大した事ないやろ」
と宇右衛門ははぐらかしますが、もはや血が頭に登り切った源五右衛門は、
「いざ!」
と飛びかかって来ます。
…で、いとも簡単にコテンパンにやられちゃう源五右衛門クン。。。
言うとおりに勝負したのに、そして負けたのに、怒りが収まらない源五右衛門は、その後、外出中の宇右衛門宅に忍び込み、何も知らずに帰宅した宇右衛門を背後から槍で一突き!
この時、18歳ですでに出仕していた嫡男の三之丞(さんのじょう)は、運悪く夜勤で留守・・・
寝室で寝ていた次男の彦七(ひこしち)が飛び起きて犯人を捕まえようとしましたが、源五右衛門が扉に何かを仕掛けてすぐに開かないようにして外へ逃げてしまったため、そこを破って出て行った時には、もうすでに源五右衛門の姿は無く。。。
これを知った三之丞は、早速、殿様から暇を貰い、弟の彦七とともに仇討の旅に出る事になります。
石井家には、さらに二人の弟=源蔵吉政(げんぞうよしまさ)と半蔵友時(はんぞうともとき)とがいましたが、この子たちは未だ5歳と3歳・・・さすがに旅に連れて行くわけにはいかず、三之丞はすぐ下の弟だけを連れて、各地を訪ね歩きます。
大それた事をしておいて、そのまま逃げ隠れしているワリには、どこにいるか?の情報がない・・・
「…って事は、養父の遊閑も協力してるんやないか?」
と疑った三之丞は、伏見(ふしみ=京都市伏見区)から大津(おおつ=滋賀県大津市)へと訪ね歩き、そこで見つけた遊閑を殺害して
「お前の親父を討った…逃げ回るのはやめよ!出て来て勝負しろ!赤堀源五右衛門へ」
と記し、自ら兄弟の姓名を書いた立札を用意し、それらを、大津はもちろん、京都の五条大橋や伏見の目立つ所に設置して待ったのです。
しかし源五右衛門が姿を現す事はありませんでした。
それから8年経った天和元年(1681年)・・・その頃の三之丞は、美濃(みの=岐阜県南部)に住む母の姉の夫である犬飼瀬兵衛(いぬかいせべい)の世話を受け、しばらくの間、その屋敷に滞在していたのですが、
ある夜、風呂に入っている所を、扉に隠れていた源五右衛門に背後から襲われて三之丞は死亡・・・源五右衛門は、駆け付けた瀬兵衛も斬って、またもや逃走します。
たまたまその場にいなかった彦七は悔しがり、今度は伊予(いよ=愛媛県)の親類のもとに身を寄せようと向かいますが、海上にて嵐に遭って船が沈没し、彦七も帰らぬ人となってしまいます。
これを知ってか?
源五右衛門は名を赤堀水之助(みずのすけ)と改め、今は板倉重常 (いたくらしげつね=亀山(かめやま=三重県亀山市)藩主)の家臣となっている親戚の青木安右衛門(あおきやすえも)を頼って亀山藩に潜り込むのです。
亀山藩は赤堀水之助を受け入れて彼を保護する事とし、他国の者には宿を提供する事を禁止し、城内に入る事も許さない厳しい姿勢で水之助を助けるのです。
その翌年、赤堀水之助が亀山藩に保護されている事を知る源蔵&半蔵兄弟。。。
事件当時は幼かった兄弟は、石井家から嫁いだ女性の夫である丹波三太夫(たんばさんだゆう)なる人物に養育されて安芸(あき=広島県)にて過ごしていましたが、この赤堀の情報を得た天和二年(1682年)、源蔵はすでに15歳。。。
翌天和三年(1683年)、弟の半蔵を広島に残して大坂へと出た半蔵は、
そこから旅人の姿で亀山を目指し、ある時は行商人、ある時は物売りの恰好をして探りを入れますが、上記の通り、厳重に守られておる赤堀には、なかなかたどり着けません。
空しく月日が流れる中、元禄九年(1696年)、ようやく源蔵は、板倉家臣の平井才右衛門(ひらいさいもん)の下男として奉公する手づるを得たのです。
成長した半蔵とも連絡を取りあい、何とかチャンスを伺う半蔵でしたが、そうこうしてるうちに平井才右衛門が病死・・・
「同じ藩内で親交があった赤堀水之助が葬儀に来るかも」
と狙っていましたが水之助はやって来ませんでした。
その後、鈴木柴右衛門(すずきしばえもん)なる人物に奉公する事になった兄弟は、人目を忍んで仇の様子を探る中、
「赤堀が番役に出た時の帰り道を狙うのがベスト」
との考えにたどり着き、その機会を待ちました。
かくして元禄十四年(1701年)5月9日、そのチャンスがようやく到来します。
前日からの亀山城内での夜勤シフトに赤堀の出勤を確認した兄弟・・・
宵の口に主家から暇をもらって町に出て、近くの八幡宮に立ち寄った源蔵が、そこで鎖帷子(くさりかたびら=着物の下に着る防護服)を着込んだ後、神前に向かって
「今日こそは父の仇を討たせ給え」
と祈ると、ほどなく夜が白々と明け始めます。
その中を亀山城に到着した源蔵は、二の丸にて寝たふりをしながら半蔵を待ちます。
一方、半蔵は、ちょうど出ようとした時に主人から用事を頼まれたうえ、友人も来てしまったため鎖帷子を着込む時間がなく、その後に慌てて隠していた刀を取って遅れて飛び出して源蔵に合流します。
その日の赤堀・・・めずらしくただ一人で広間から出て帰り道を急ぐ中、城門をくぐった時に、背後から走り抜けた源蔵が、その行く手を塞ぎます。
「石井宇右衛門の息子、源蔵と半蔵である!」
と言うが早いか、源蔵が抜き打ちに赤堀の眉間を斬りつけると、
なんとか赤堀は自身の刀で受け止めますが、源蔵がすかさず二の太刀で斬りつけ、そこに走って来た半蔵が赤堀の頭に向け一太刀・・・
倒れ込むところを畳みかけてとどめの一太刀を浴びせた事で、赤堀は立ち上がる事も無く、その場で息絶えたのでした。
父の死から29年、兄たちの死から20年・・・兄弟は、ようやく仇を討ったのでした。
その後、この場で切腹しようか?と考える兄弟でしたが、
「せっかく本望を遂げたのだから、その事を広く知ってもらうためにも、城外に出て追手を待ち、町中で大立ち回りをして見せれば、その話が京に伝わり、残された一族の皆の知る所となり、彼らも安心するだろう」
と思い、城外へと走り去るのですが、
いっこうに追手は来ない。。。
そのため、普通に亀山を後にし、伊賀上野に出て、そこから笠置をを通って伏見に行き、
そこで本望を遂げた事を手紙にしたためて諸国に散らばる一族に報せる準備を整え、木曽路から江戸へと向かいます。
そう・・・父の仇とは言え、人一人斬ってるわけですから・・・
時の江戸町奉行=保田越前守宗郷(やすだえちぜんのかみむねさと)の許へ向かい、仇討の旨を伝えると、
尋問などの後に宗郷本人が出て来て、兄弟に一部始終を詳しく聞いた後、兄弟を大いに労い、饗応の膳を設けてくれるほどの熱烈歓迎ぶり・・・
その後、この話を伝え聞いたかつての藩主=青山宗俊の後を継いでいた青山忠雄(ただお)によって、青山家の新たなの領国=浜松(はままつ=静岡県浜松市)に迎え入れられた兄弟は、その地で寵愛され、後には重職も任される藩士になったとの事です。
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・・・て、『常山紀談』では、ここで終わってるんですが、、、
コレってお咎め無し…いや、むしろ称賛されてる?
そうなんです。
講談本や浄瑠璃などなら、称賛で終わっても納得ですが、実際にあった出来事として書かれている=所謂ノンフィクション扱いの書簡でも、アッパレ扱いなんですよね~
おそらくは、まだ、そういう時代だったのでしょうね。
後々は、さすがの江戸時代でも、仇を討ったほうも討たれたほうも、なんやかんやと突っ込まれ、結果的に「喧嘩両成敗」となる時代がやって来るのでしょうが、
未だ、この元禄では、29年もの歳月をかけて父の仇を討った兄弟の話は、むしろ称賛にあたいする出来事だったのでしょうね。
そら、赤穂浪士もやりまっせ!(【元禄赤穂事件】参照>>)
そう、この仇討ちがあったのは、あの浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が松の廊下の刃傷事件で切腹した(3月14日参照>>)、わずかひと月半後の出来事ですからね~
翌年の12月に討ち入りを決行する赤穂浪士たちも(12月14日参照>>)、
ひょっとして
「称賛されまくりのお咎め無し」
って思ってた?可能性も無きにもあらず・・・
ま、ご存知のように、赤穂浪士の方は一人を除いて46人全員切腹ってなるのですけど(2月4日参照>>)、元禄とは、そういう価値観が変わって行く過渡期でもあったのかも知れませんね。
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コメント
江戸幕府は大人数で徒党を組むことを禁止していましたから、赤穂浪士が全員切腹という処罰になったのはこれも原因ともいわれます。
実際赤穂浪士事件よりも前に発生した浄瑠璃坂の仇討も重罪になっているそうですから。
この事件の場合、少人数で行ったから寛大だったというのもあるでしょうね。
投稿: ベルトラン | 2024年5月 9日 (木) 09時26分
ベルトランさん、こんばんは~
おっしゃる通り、浄瑠璃坂の仇討>>の時には、すでに徒党を組んでの仇討は禁止されていたみたいですね。
ただ、そのワリには死罪では無く遠島で、しかも6年後には恩赦となって戻って来て、その頃にはアッパレと評判になっていたおかげで、ほとんどのメンバーが他家に召し抱えられています。
なので今回の石井兄弟の場合は、さらに寛大だったのかも知れません。
投稿: 茶々 | 2024年5月10日 (金) 04時36分
赤穂浪士の仇討ちの少し前の出来事ですが、この記事の仇討ちは知りませんでした。
テレビ時代劇で触れたことはないのでは?
投稿: えびすこ | 2024年5月10日 (金) 10時40分
赤穂事件に関してさらに言うと、この討ち入りは松の廊下事件での将軍綱吉の決定に異議を申し立てたといえなくもない事件である上に、松の廊下刃傷事件は勅使接待の最中の事件であり、朝廷との関係も意識する必要があったりと、この伊勢亀山仇討ち事件や浄瑠璃坂仇討ち事件に比べると政治的にはるかに微妙な問題を抱えた事件であることも大きいように思います。
総じていえばこの伊勢亀山の仇討事件と赤穂浪士事件は、同じ仇討と言っても事件の背景や状況が違いすぎて価値観の違いとはあまり関係がない気がします。
投稿: ベルトラン | 2024年5月10日 (金) 12時31分
えびすこさん、こんばんは~
確かに…時代劇では忠臣蔵ばかりですね。
ただ、本文にも書いた通り、浄瑠璃や歌舞伎にはなってますので、知ってる人は知ってるという感じかと思われます。
投稿: 茶々 | 2024年5月11日 (土) 04時15分