北条氏康の華麗なる初陣~上杉朝興との大沢原の戦い
享禄三年(1530年)6月12日、江戸城奪回を目指す上杉朝興が、初陣の北条氏康と多摩川河畔の小沢原で戦うも敗退しました。
・・・・・・・
もともとは京都にて幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)が、自らの嫡男の足利義詮(よしあきら)に2代将軍の座を譲り、四男の足利基氏(もとうじ)に地元を治める鎌倉公方(かまくらくぼう)として支配させ、主に上杉家が関東管領(かんとうかんれい=公方の補佐約・執事)として補佐をして治めていた室町時代の関東地方。。。(9月19日参照>>)
しかし、そこに、甥っ子(姉もしくは妹の息子)の今川氏親(いまがわうじちか)に、先代の急死(4月6日参照>>)で空席となった駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)の今川宗家を継がせるべく関与して来た北条早雲(ほうじょうそううん=当時は伊勢盛時)が(11月9日参照>>)、
これを機に京都に戻る事無く幕府奉公衆から独立して今川当主となった氏親を支えて遠江(とおとうみ=静岡県西部)奪取にまい進(6月21日参照>>)しつつ、
伊豆にいた堀越公方(ほりごえくぼう=本来は5&6代目の鎌倉公方:系図参照)を倒す下剋上を果たして(10月11日参照>>)関東支配を目指し始めた事で、
室町幕府公認の支配者=公方&管領と、群雄割拠の戦国武将=北条との関東取ったり取られたりの戦いが始まったわけです。
北条は、
この早雲の時代の明応四年(1495年)に小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を奪取してからは、ここ小田原を拠点に合戦を展開し、永正十三年(1516年)には相模(さがみ=神奈川県)を制覇。。。(7月13日参照>>)
やがて早雲の死を受けて2代目を継承した2代目=北条氏綱(うじつな)が武蔵(むさし=東京都・埼玉&神奈川の一部)に侵出・・・
大永四年(1524年)の正月の江戸高輪の原(たかなわのはら=品川区高輪)の戦いに勝利(1月13日参照>>)。
この勢いに江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を支えきれなくなった上杉朝興(うえすぎともおき=扇谷上杉家)は江戸城を退いて河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)へと逃走しました。
そこで北条氏綱は江戸城に遠山直景(とおやまなおかげ)を、小机城(こづくえじょう=神奈川県横浜市)に笠原信為(かさはらのぶため )を置いて上杉の報復に備えます。
大沢原の戦い・位置関係図 ↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>
1ヶ月後の2月には上杉朝興と同盟関係にある甲斐(かい=山梨県)の武田信虎(たけだのぶとら)とも一戦交える(2月11日参照>>)北条氏綱でしたが、そんな中、朝興を救援すべく、この年の10月には上杉憲房(のりふさ=山内上杉家)が関東に乗り込んで来ます。
しかし、ここは山内上杉家の家宰(かさい=家政担当)である長尾憲長(ながおのりなが)が間に入ってウマく立ち回ってくれた事で、北条氏綱は上杉憲房と一戦も交える事無く和睦する事ができました。
しかし、そのまま収まらないのが上杉朝興・・・その後も、ずっと挽回の機会を狙っていた上杉朝興は、大永五年(1525年)8月に白子原の戦い(しらこばらのたたかい)で北条を破り、
翌年の6月には氏綱方の渋川(しぶかわ)氏を襲い、蕨城(わらびじょう=埼玉県蕨市)を奪回します。
さらに、その年の9月には、上杉憲房の死を受けて家督を継いだ養子の上杉憲寛(のりひろ=実父は足利高基)を味方につけ、ともに上野(こうずけ=群馬県)から武蔵に侵出し、小沢城(おざわじょう=神奈川県川崎市)を落としたのです。
それでも…まだまだ足りない上杉朝興は、河越城に戻った後も、何とか北条氏綱自身を討つべく
享禄三年(1530年)6月、家臣の難波田憲重(なんばだ・なばたのりしげ=善銀)や上田蔵人(うえだくろうど=上田政盛?)に500騎の兵をつけて武蔵府中まで攻め入ったのです。
これを受けた北条氏綱は、嫡子の北条氏康(うじやす=後の3代目)を差し向けます。
この時、氏康は未だ16歳の初陣で、しかも、若き後継者に従った者たちも乳母子(めのとご=氏康の養育者の子)の清水吉政(しみずよしまさ)をはじめとする氏康付きの若者ばかりだったとか。。。
かくして享禄三年(1530年)6月12日、北条氏康勢は武蔵府中の多摩川(たまがわ)の端に位置する小沢原(おざわがはら)に布陣していた上杉軍に突入していったのです。
※(ただし…)場所は特定されておらず…
神奈川県川崎市麻生区の金程(かなほど)付近と同じく麻生区の千代ケ丘(ちよがおか)付近の2ヶ所候補がありますが…
とにもかくにも、
氏康の指揮のもと一致団結して整然と戦う北条の若武者たち。。。
その勢いは…
「大山の崩れるように抜き連ねて、
十文字に割って通り、
巴の字を追い回し、
東西南北に打ち破り馳違う」(『相州兵乱記』より)
てな様子だったのだとか。。。
(馳違う=はせちがう:あちこちへ入り乱れて走るさま)
それに比べて、なぜか上杉軍は、それぞれに思い思いの戦いぶり・・・猛者もいる中でも全体の統率が取れず、北条勢に押されまくり。。。
結局、あたりが夜になる頃には、もはや軍団の様相を呈さないまま、バラバラになって退いていったのです。
見事、初陣を飾った北条氏康は、
「勝った!勝った!」
と叫びながら、金程から細山(ほそやま)へと続く坂道を駆け上がったのだとか・・・
(そこは16歳の少年っぽくってイイゾ(^o^))
この大沢原の戦いは、上杉派による北条包囲網の一画を破った形となり、関東支配を目指す北条氏綱にとっては大きな一歩となりました。
とは言え、この先も北条が志村城(しむらじょう=東京都板橋区)を落とせば、上杉が、かつて奪われた(2月6日参照>>)岩槻城(岩付城:いわつきじょう=埼玉県さいたま市岩槻区)を奪回するなど、まだまだ攻防は続きますが・・・
やがて、ご存知のように、
天文十五年(1546年)、今回初陣の北条氏康が戦国三大奇襲の一つに数えられる河越夜戦(かわごえやせん)にて上杉に引導を渡す事になりますが、そのお話は4月20日のページ>>で・・・
★前後の出来事は→【北条五代の年表】>>を参照
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