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2024年6月 5日 (水)

本能寺の変の後に…「信長様は生きている」~味方に出した秀吉のウソ手紙

 

天正十年(1582年)6月5日の日付にて、羽柴秀吉が中川清秀宛てに書状を出しています。

・・・・・・・・・

有名な書状なので、ご存知の方も多かろうと思いますが、とりあえず、この経緯を時系列にて紹介させていただきますと…

まずは、この3日前の6月2日早朝に、あの本能寺の変(ほんのうじのへん=京都府京都市)が起きて織田信長(おだのぶなが)横死します。

信長の側近は約100名、ともに討死する織田信忠(のぶただ=信長の嫡男)の馬廻りを足しても、わずか600名ほどの側近しかいない信長側に対し、

謀反を起こした側の明智光秀(あけちみつひで)1万3000の軍兵を率いて攻撃して来たのですから、もはや勝敗は明らか・・・(6月2日参照>>)

そんな中で、この一大事件を1番早く1番近くで聞いたであろう人物は、勢多城(せたじょう=滋賀県大津市)山岡景隆(やまおかかげたか)・・・

彼は、なんと、異変が落ち着いた頃に明知側から味方に寝返るように要求された事で、この一件を知りますが、寝返る気なかったのでキッパリ断り、すぐに勢田橋(せたばし=瀬田の唐橋)を落として明智軍を足止めし、自らは山中へと逃れます。

おかげで明智光秀は、この日の内に安土城へ入る事ができませんでした。

おそらく、その次に異変を知ったのは、信長の本拠である安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡字)留守居役だった蒲生賢秀(がもうかたひで)・・・

すでに京都で何かしらの異変があった噂は昼前頃に届いていたものの、京都から逃げて来た下働きたちによって午後4時ごろにハッキリした情報が伝わったので、

すぐさま蒲生賢秀は、信長の妻子たちを自らの居城である日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町)避難させて、いずれやって来るであろう明智軍との籠城戦の準備に入りました(山本さんと蒲生さんについては【その日の安土城】参照>>)
(ここは山本さんの橋落としが効いてますな~)

そして、その次に異変を聞いたであろう人は、あの甲州征伐(こうしゅうせいばつ=信長が武田勝頼を倒す戦い)(3月11日参照>>)に全面協力した御礼に、信長から安土城に招待され、

この前日まで嫡男の信忠とともに堺見物をして堺で一泊し、翌日から京都に向かっていた途中の徳川家康(とくがわいえやす)・・・穴山梅雪も一緒にいます>>)

家康は、変があった2日の夜に飯盛山(いいもりやま=大阪府四条畷市)で聞きます。
(けっこう近いゾ!どうする家康)

とは言え、家康は信長の家臣では無く同盟者なので、織田につくか?明智につくか?は自由・・・

ただ、同盟を結んでいる=味方と見られるわけですが、悲しいかな、家康も信長から安土城へ招待されてここに来てるので、周りにいるのは4~50名の側近だけ。。。

なんなら、信長派の中で明智軍の近くにいる自分自身は、最も危ない状態かも知れないわけですから、取るものもとりあえず、

まずは明智から身を隠して何とか領地まで戻って、どうするかは、それから考える話・・・って事で【神君伊賀越え】参照>> で何とか逃げます。

…で、その次に異変を知ったのが、信長の命で毛利輝元(もうりてるもと)傘下の備中高松城(たかまつじょう=岡山県岡山市)を攻撃中(5月5日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)・・・

秀吉は、おそらく遠征中の織田家臣団の中では1番早いであろう6月3日の夜に異変を知ります。

それは、毛利に加勢を求める光秀の密使が、間違って羽柴軍の陣地に紛れ込んでしまったために捕縛されのだと言われています。

「ホントに?そんな事あるんか?」
って思いますが、先の高松城攻めのページ>>に書かせていただいたように、この時すでに毛利方の吉川元春(きっかわもとはる=毛利元就の次男)小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男)

1万5000の兵を率いて高松城に駆け付けてはいたものの、城を囲む3万の羽柴軍に、もはや手が出せない状態だったわけですから、

密使が毛利の本拠に向かったならともかく、城攻めの所に来ていたのなら、無い話では無いでしょうし、現に秀吉は、京都からかなり離れた場所にいるにも関わらず、けっこう早めに異変を知っちゃってますから・・・

そして秀吉は、すぐに京都に戻るため、異変を隠したまま敵と交渉・・・城主の清水宗治(しみずむねはる)の切腹を条件に、翌6月4日に講和が成立(6月4日参照>>)、秀吉は清水宗治の死を見届けた後、6月6日の午後に撤退を開始するのです。

で、主君の仇=明智光秀を討つべく、脅威のスピードで畿内へと戻る、ご存知【中国大返し】>>が始まります。

ちなみに、毛利方が京都の異変を知ったのは、講和成立の2時間後と言われています。
(意外に早い!)

また、この時、やはり信長の命で魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を攻撃中の柴田勝家(しばたかついえ)前田利家(まえだとしいえ)らの北陸方面担当が、事件を知るのは6月4日ですが、

相対していた上杉景勝(うえすぎかげかつ)の動向や周辺に一揆の動きがあったため、すぐに動けませんでした。
【魚津城攻防戦】>>
【石動荒山の戦い】>>

★その他主要武将の動き↓
【稲葉一鉄】>>
【滝川一益】>>
【河尻秀隆】>>
【森長可】>>
(信長次男の織田信雄(おだのぶかつ)は居城の松ヶ島城(まつがしまじょう=三重県松阪市)から畿内で戻ろうとするも、伊賀者らに不穏な空気があったため鈴鹿で足止めされています)

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中川清秀宛て書状(梅林寺蔵)

…で、今回の書状は、その撤退の前日=天正十年(1582年)6月5日に書かれたもの。。。

相手の中川清秀(なかがわきよひで)は、秀吉と同じ信長の家臣で、この時、摂津茨木城(いばらきじょう=大阪府茨木市)の城主でした。

冒頭に
「なほ〱〱 野殿まで打ち入り候のところ 御状拝見申し候…」
とあるので、おそらく本能寺での異変を聞いた中川清秀から
「このあと、どないしはるんでっか?」
の書状が先にあり、その返信と思われます。

その内容を要約すると
備前(びぜん=岡山県東南部)野殿(のどの=岡山県岡山市北区)で手紙を拝見しました。
今日中には(ぬま=岡山県岡山市東区)まで行く予定です。
心配せんでよろしいよ。
京都からの報告やと、信長さんと信忠さんはアブナイところを脱出に成功して近江の膳所(ぜぜ=滋賀県大津市)まで逃れて、無事にしてはるとの事。
側近の福平三(ふくへいざ=福富秀勝)は明知勢と3回も戦ってメッチャ頑張ったらしいです。
僕らは急いで姫路(ひめじ=兵庫県姫路市)に帰還して準備に入ります。
君も油断せんように…」
てな感じです。

完全に、嘘つきまくりの手紙です。

出発の前日なので、秀吉は、まだ高松城にいますし、信長も信忠も亡くなちゃってます。

「敵を欺くには、まず見方から…」
なんて事言いますが、ここは、秀吉にとっても一か八かの賭けだったかも知れません。

なんせ、この中川清秀は、同じ織田信長の家臣ではありますが、直属の上司は光秀・・・

指揮命令系統を仰ぐのは光秀だったわけですから、ひょっとしたら、信長の死を知ったうえで、探りを入れるために、かの手紙を秀吉によこした可能性もゼロでは無いわけで。。。

しかし、実際には、清秀は本当に詳しいことは知らず、純粋に秀吉に指示を仰いでいたわけで、、、

ま、ここは秀吉も
「準備します」
「油断しないように」
と、ハッキリと明言せず、なんとなくはぐらかしたような書き方ですしね。

この手紙に続いて秀吉は、
「6月11日には兵庫西宮(にしのみや=兵庫県西宮市)に着く予定です。
高山右近(たかやまうこん)丹羽長秀(にわながひで)とも連絡とって着々と準備してます
と、先の物よりは具体的な内容の手紙を出しています。

実は高槻城(たかつきじょう=大阪府高槻市)主の高山右近も直属の上司は光秀。。。
右近を味方にした事で
「いける!」
と思ったのかも知れませんね。

また、丹羽長秀は、この時、信長三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)とともに四国攻め(6月11日参照>>)の準備のためににおり、

異変を聞いて、明智の共謀者との噂があった津田信澄(つだのぶずみ=信長の甥で光秀の娘婿)を討つべく大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市:石山本願寺跡)千貫櫓(せんかんやぐら)に乗り込んでいますが、

この信澄を殺害した一件が、今回、秀吉が手紙を書いた6月5日です。

これは、信長の息子=信孝も、そして織田家を代表する重鎮だった丹羽長秀もが、かなり動揺していた事がわかる一件ですね。

なんせ、翌日の6月3日には四国へ向けて出発する予定で、おそらく大軍の準備ができていたはず・・・

なのに、現場に信長の横死が伝わると、翌日からの四国攻めが中止となった事で兵たちに動揺が走り、それを大将である信孝がうまくまとめる事ができなかったため、離反する者が相次いで収拾がつかなくなり、

思わず、光秀娘婿の津田信澄をターゲットにした感じしますからね。

そんな中で、秀吉は堂々としたウソ手紙を中川清秀に送り、おそらく同様のやり方で高山右近を引き込み、

さらに、その堂々たる受け答えで以って、息子の信孝や先輩の丹羽長秀が動揺する中で、巧みに味方に引き入れる事に成功したわけです。

おかげで、明智光秀に打ち勝つ天王山=山崎の戦い(6月13日参照>>)では、息子の信孝を総大将に据え、「信長の仇討ち」という大義名分をしっかりと掲げる事ができたのでした。

この手紙に見る秀吉の巧みさは、ホント!お見事です。
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