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2024年6月26日 (水)

関東管領か?北条か?揺れる小山秀綱の生き残り作戦

 

慶長八年(1603年)6月26日、関東管領北条との間で揺れる関東地方にて、戦国を生き抜いて来た小山秀綱が死去しました。
(慶長七年(1602年)説もあり)

・・・・・・・・・・

本日主役の小山秀綱(おやまひでつな)は、
藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れを汲み、鎌倉時代下野(しもつけ=栃木県)小山(おやま=栃木県小山市)を領するようになった小山氏(おやまし)18代目

ただし、最終的に小山秀綱に落ち着くまで、小山氏朝(うじとも)と名乗ったり小山氏秀(うじひで)と名乗ったり。。。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

これ、偏に鎌倉公方(かまくらくぼう=室町幕府が関東支配のために派遣した身内:関東公方)足利〇〇さんの諱をいただいた名乗り・・・

この頃の関東地方に生きる武将としては、鎌倉公方と、その補佐役である関東管領(かんとうかんれい)影響をきく受けながらでないと生きていけないわけで【小山義政の乱】参照>>)

ところが、そんな中で第4代鎌倉公方足利持氏(あしかがもちうじ)永享の乱(えいきょうのらん)を起こし(2月10日参照>>)、その遺児である足利成氏(しげうじ)古河公方(こがくぼう)自称して関東で大暴れした(9月30日参照>>)事により、

中央政府が幕府公認の公方を派遣するも、その公認公方が鎌倉に入れず、やむなく堀越公方(ほりごえくぼう)と名乗る…てな事態が。。。

しかも、その堀越公方を、関東支配を狙う北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)倒した事で(10月11日参照>>)、ここらあたりからは、この関東地方は関東公方&関東管領と、早雲に始まる北条氏との取り合いなるわけです(6月23日参照>>)

そうなると、その立ち位置に困るのが、二つの大企業に挟まれた中小企業。。。

多くの地方領主が、この関東公方と北条氏という二つの大企業の間で揺れ動く事になります。
 ★参考:すでにブログに登場した揺れ動く人たち↓
  小田氏治(おだうじはる)さん>>
  佐野昌綱(まさつな)さん>>
  成田長泰(なりたながやす)さん>>
  三田綱秀(みたつなひで)さん>>

そんな中で小山秀綱が家督を継いだ永禄三年(1560年)頃は、
上杉憲政(うえすぎのりまさ)から関東管領職を受け継いだ上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎)(2011年6月26日参照>>)足利藤氏(ふじうじ=4代古河公方の足利晴氏の長男)を古河公方に推せば、
北条氏康(うじやす=早雲の孫)が異母弟の足利義氏(よしうじ=足利晴氏の次男)を推すという一触即発ぶり。。。

Oyamahidetuna700a 立ち位置微妙な小山秀綱は、永禄4年(1561年)には上杉謙信の味方をして北条氏の小田原城の攻撃に参加しているのですが、

2年後の永禄六年(1563年)3月には、太田資正(すけまさ=太田道灌の曾孫・三楽斎)松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡)を落とした北条氏康の勢力が増したために、上杉から離反して北条に寝返りますが、、、

しかし、これに激怒した謙信により、翌4月に居城の小山城(おやまじょう=栃木県小山市:祇園城とも)を攻められ、やむなく人質を差し出して降伏しています。

ところが、その翌年の永禄七年(1564年)には、北条氏照 (うじてる=氏康の四男)に攻め込まれ小山城を開城・・・

イコール一旦北条側に寝返ったわけですが、この時は、すぐさま自力で城を奪回して、またもや上杉LOVEに路線変更。。。(ここは上記の佐野昌綱さん絡み>>)

ところが、翌永禄八年(1565年)2月にはまたまた北条側に転身。

ものすっごい日和見行動ですが、これは、
上記の「揺れ動く人たち」のページにも書かせていただいたように、上杉謙信は関東管領として毎年のように関東遠征を繰り返してますが、これはあくまで「遠征」。。。

つまり謙信は常駐ではなく通い・・・関東で色々やった後は越後(えちご=新潟県)に帰っちゃうわけで、謙信がいなくなった関東は北条の天下・・・けど、謙信が遠征してくりゃ、やはり越後の龍は強いわけで、、、

そのため、はなから北条寄りの弟=結城晴朝(ゆうきはるとも=叔父の家督を継承)とも度々ぶつかっていたと言いますが、

とにもかくにも小山秀綱さんは、独立領主として存続しつつ小山の家名と血脈を守りたいだけなんです。

その後も、
元亀三年(1572年)正月には、北条氏政(うじまさ=氏康の次男)に城下に放火され小山城を囲まれていますので、おそらくどこかの時点でまたまた謙信に寝返った物と思われますが、この時は見事、北条勢を撃退しています。

しかし、
天正3年(1575年)に上杉方の簗田持助(やなだもちすけ)関宿城(せきやどじょう=千葉県野田市関宿 )を北条が攻めた3次関宿城の戦い(1月16日参照>>)絡みで、関宿城を落として勢いづいた北条氏政の攻撃を受けて、やむなく小山秀綱は小山城を棄て佐竹義重(さたけよししげ)を頼って常陸(ひたち=茨城県)へと落ちました。

こうして小山城は北条の物となり、城主として北条氏照が入城しますが、ご存知のように、ここらあたりから戦国の政情が大きく変わり始めます。

天正六年(1578年)に上杉謙信が亡くなった(3月13日参照>>)事で、北条から婿養子に入っていた上杉景虎(かげとら=氏康の七男)上杉景勝(かげかつ=謙信の甥で養子)の間で後継者争い(3月17日参照>>)が起きる中、

 天正八年(1580年)には北条が、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)を倒して(8月2日参照>>)勢いづく織田信長(おだのぶなが)協定を結んだ事で、

織田家臣の滝川一益(たきがわかずます)の仲介により、天正十年(1582年)5月、小山城は平和的に小山秀綱に変換されますが、残念ながら、これは事実上、小山城&小山秀綱が、(織田の下で)北条氏照の指揮下に入った事を意味する事に他なりません。

ところが、その1ヶ月後に、あの本能寺の変です(6月2日参照>>)

またもや政情急展開・・・北条が、信長が武田討伐(3月11日参照>>)で奪い取った旧武田領地を狙う中(8月7日参照>>)

天正十二年(1584年)には佐竹義重と北条氏直 (うじなお=氏政の息子)合戦が小山城近くで行われ、行軍する佐竹軍に矢を射かけて幾人かの敵を討ち取った事で、小山家臣に対して、氏直から感状(かんじょう=先攻を讃える書状)が出されてますので、さすがの小山秀綱も、この頃は北条傘下となって生き残るしか無かったように見えます。

その流れからでしょうか?
天正十八年(1590年)の豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原征伐(おだわらせいばつ)(3月29日参照>>)では、小山秀綱は北条側として参陣する事になります。

小山城は開戦からひと月ちょっと経った5月に、あっけなく落城となりますが、それには小山秀綱以下、城兵のほとんどが北条本城の小田原城の防御に駆り出されていたため、はなから守りが手薄であった事に加え、

秀綱弟の結城晴朝が秀吉側で参戦している事から、多くの小山兵が結城晴朝のもとに走ったから…などと言われています。

とにもかくにも北条側で参戦しちゃった以上、勝利した秀吉によって小山秀綱は改易・・・旧小山領は結城晴朝の物となります。

ただ、そこはやはり兄弟・・・結城晴朝は、秀綱の息子=小山秀広(ひでひろ)を、自身の重臣として迎え入れてくれます。

しかし、その息子が慶長五年(1600年)に病死してしまい、失意の小山秀綱は隠居・・・

その2年後の慶長七年(1602年)、
もしくは慶長八年(1603年)6月26日小山秀綱は70代半ばで、その生涯を閉じる事になります。

幸い、家督と家名と血脈は小山秀広の息子の秀恒(ひでつね・ひでひさ)に引き継がれますが、

残念ながら独立領主としての小山氏は、小山秀綱の死を以って消滅する事となりました。

頑張った秀綱さんではありますが、世は戦国・・・
大手企業の狭間では、なかなか生き残るのは難しいようです。
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