斎藤妙純VS石丸利光の船田合戦~正法寺の戦い
明応四年(1495年)6月19日、斎藤妙純と土岐成頼+石丸利光の間で起こった船田合戦で、石丸利定が討死する正法寺の戦いがありました。
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今回の船田合戦(ふなだがっせん)は、先日書かせていただいた近江(おうみ=滋賀県)での磨磨針峠(すりはりとうげ=滋賀県彦根市)の戦いの原因となる戦いですので、戦いに至る経緯のお話である冒頭部分の内容が丸カブリではありますが、ご了承くださいませm(_ _)m
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明応三年(1494年)頃、美濃(みの=岐阜県南部)の守護(しゅご=幕府公認の県知事)であった土岐成頼(ときしげより)は、これまで後継ぎとしていた嫡子の土岐政房(まさふさ)を廃嫡(はいちゃく=後継者指名を撤回)して、末っ子で庶子(しょし=側室の子)の土岐元頼(もとより)に後を継がせたいと思い、守護代(しゅごだい=副知事)の斎藤氏の家臣=石丸利光(いしまるとしみつ=斎藤利光 )に相談します。
…というのも石丸利光は、文明十二年(1480年)に亡くなった先代守護代=斎藤妙椿(さいとうみょうちん=※斎藤家は代々守護代の家系ですが妙椿自身は守護代になっていない説もあり)につき従って数々の先攻を挙げた斎藤家臣の第1人者であるものの(10月21日参照>>)、
その斎藤妙椿の後継を巡って、二人の養子(2人とも甥っ子)=斎藤利藤(としふじ=妙椿兄の利永の長男)と斎藤妙純(みょうじゅん=当時は利国:利永の三男)の間で争いが起きると、その混乱に乗じて主家に取って代わる野望を抱いていたのです。
実は、この斎藤家の後継者問題は、幕府の決定により斎藤利藤が守護代に就く事で一応決着していたのですが、その幕府が連絡を取る時に、まずは斎藤妙純に命令し、それを守護の土岐成頼に伝え、さらに斎藤利藤に…という姿勢を取ったため、実際には実権は斎藤妙純が握っているという、ここのところ妙な主従関係になっていたのでした。
斎藤の混乱に乗じたい石丸利光にとっては、この土岐成頼&元頼父子の相談は渡りに船・・・なんせ、目下実力No.1の斎藤妙純は土岐政房推しだったのですから。。。
かくして土岐家臣は、
土岐成頼&元頼→斎藤利藤→石丸利光
土岐政房→斎藤妙純
と、真っ二つに分かれ対立する事になります。
そんな明応三年(1494年)の12月、斎藤妙純は大宝寺(だいほうじ=岐阜県岐阜市)というお寺を創建し、瑞龍寺(ずいりょうじ=同岐阜市)の僧=悟渓宗頓(ごけいそうとん)を招いて12月11日に開堂式を行う事にしたのですが、この参詣の道筋で斎藤妙純を襲撃しようと石丸利光が画策・・・
幸いな事に、これを察知した土岐成頼の直臣=西尾直教(にしおなおのり)によって未然に発覚した事で斎藤妙純がスケジュールを変更し、事なきを得たのですが、
一方で発覚した側の石丸利光らにとっては、もはや後には引けない。。。
すかさず居城の船田城(ふなだじょう=岐阜県岐阜市水主町)に入って兵を集めた石丸利光は、その北に位置する斎藤妙純の加納城(かのうじょう=岐阜県岐阜市加納)を襲撃しようとますが、すでに、石丸利光の行動を予想していた妙純が城の防備を徹底的に固めていたため、襲撃する事ができませんでした。
しかし、振り上げ損ねたその拳が丸見え状態で、すっかりバレてしまってる以上、
「このままではヤバイ!」
と思った石丸利光は、土岐成頼を通じて斎藤妙純に、とりあえずの和睦を申し入れます。
とは言え、もとからメッチャ味方している土岐成頼もバツが悪いので、ここは一つ西尾直教に全責任を負わせて追放処分とし、何とか斎藤妙純に手すりゴマスリで持ち上げて、和睦を成立させたのでした。
こうして何とか、この件は治まりましたが、当然、モメ事のおおもとが根絶されたわけではありません。
しかも、石丸利光の船田城と斎藤妙純の加納城は荒田川(あらたがわ=木曽川水系)を挟んでわずか数百メートルほどしか離れておらず、同じく近くにある革手城(かわてじょう=同岐阜市正法寺町:川手城)には、石丸利光の弟の石丸利元(としもと)も斎藤妙純の弟の斎藤利綱(としつな)も出仕しているという密着ぶり。。。
相容れない両者が近くにいる事で、再びの近隣トラブルが発生するのは時間の問題でした。
舩田合戦~正法寺の戦い・位置関係図↑クリックで大きく
背景は「地理院地図」>>
そんなこんなの翌・明応四年(1495年)3月・・・両者はいよいよ小競り合いからおっぱじめてしまいます。
そんな小競り合いの末に、4月に入って斎藤利綱が一族を率いて正法寺(しょうぼうじ=同岐阜市薬師町)の北詰に陣を敷くと、石丸利元も負けじと正法寺へ移動・・・
両者は、正法寺を挟んで北と南に陣取り、しばらくの間対陣します。
そんな中で石丸利光は、斎藤利藤の嫡孫の斎藤利春(としはる)を船田城に迎え入れて自軍の看板ししようとしますが、この6月6日に斎藤利春が風をこじらせて亡くなってしまったため、
斎藤利藤の末子の日運(にちうん=当時は毘沙童)を船田城に迎え入れ、さらに同時期に土岐元頼も船田城に入った事で、
「コチラが正統」
とばかりに士気上がる石丸陣営・・・
この勢いに乗った石丸利元は、正法寺の門東に柵を構築して加納城と革手城との交通を遮断すると、付近に放火して商家を焼き払いました。
かくして、
その5日後の明応四年(1495年)6月19日、西方寺(さいほうじ=同岐阜市加納)に陣を構えていた石丸一族の石丸利定(としさだ)が先鋒として出陣し、妙純方の安養寺(あんようじ)を急襲した後、きびすを東に向け加納城を包囲したのです。
加納城を守る城将の長井秀弘(ながいひでひろ)は、城門を開いて迎撃をしましたが、石丸利定があえて城内に攻め込まなかったため、東門の周辺で激しい戦闘となります。
固く護る加納城兵に苦戦する石丸勢は、やがて石丸利定が討死するほか500余名に及ぶ死傷者を出した事で、やむなく退却・・・ともに出陣していた石丸利元も船田城へと戻りました。
その後、
6月22日に尾張(おわり=愛知県西部)から織田寛広(おだとおひろ・ひろひろ=尾張守護代・織田伊勢守家の養子)が約数千の手勢を率いて駆け付け、安養寺の西南に布陣して睨みを効かせた事から、加納城=斎藤妙純方の勝利が確定的となったのです。
さらに7月1日には、妙純弟の利綱と斎藤利安(としやす=妙純の甥っ子?)が土岐元頼方の古田氏討伐を成功させた事で、船田城の運気はだだ下がり・・・
度々の敗戦に、やむなく石丸利光らは7月7日に船田城に火を放ち、かねてより親交のある六角高頼(ろっかくたかより)を頼って近江へと逃れ、六角重臣の伊庭貞隆(いばさだたか)の保護を受ける事になります。
これが舩田合戦正法寺の戦いと呼ばれる戦いですが、わざわざ「正法寺の戦い」と銘打ってるからには、当然、舩田合戦自体はこのままでは終わらないわけですが、そのお話は、また、その日付にて書かせていただきますね。
一方で、ここで石丸方が近江へ逃れた事で、彼らそれぞれに協力する者同士=六角高頼VS京極高清(きょうごくたかきよ)による先日の大清水山・磨針峠の戦いに発展していくわけですが、そのお話は、やはりソチラのページ>>でどうぞm(_ _)m
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