織田信長と清須の変~織田信友の下剋上
天文二十三年(1554年)7月12日、尾張守護代家の織田信友が、守護の斯波義統を討つ下剋上を果たした清須の変がありました。
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室町幕府政権下における尾張(おわり=愛知県西部)では、初め方こそ、土岐(とき)だったり今川(いまがわ)だったりと様々な武家が守護(しゅご=県知事みたいな)を務めましたが、
応永七年(1400年)に、前年の応永の乱(おうえいのらん)(12月21日参照>>)で功績のあった斯波義重(しばよししげ)が守護に就任してからは、代々斯波氏がその座を世襲していました。
しかし斯波氏14代の斯波義統(よしむね)が守護を務めていた天文末年の頃になると、清洲城(きよすじょう=愛知県清須市:清須城)に居を構えながらも、もはや守護は有名無実状態で、
実権は守護代(しゅごだい=副知事)の織田信友(おだのぶとも)が握っていたのです。
織田信友の織田は、清洲織田氏もしくは織田大和守家と呼ばれ、室町幕府初期の建武の新政(けんむのしんせい)(6月6日参照>>)の頃から、幕府管領家(かんれいけ=諸軍補佐の管領を輩出する家柄)の一つとして有力大名だった斯波氏が、
政権発足直後に越前(えちぜん=福井県東部)守護を命じられた際に、越前の国人(こくじん=地侍)だった事で、織田が被官(ひかん=家臣)として斯波氏に仕え、
その後、斯波氏の領地が越前に加えて尾張、そして遠江(とおとうみ=静岡県西部)と増えるにつれ、斯波氏の筆頭家臣で執事(しつじ=No.2)だった甲斐氏(かいし)が越前と遠江の守護代を世襲し、織田が尾張の守護代を世襲していく事になったのです。
ちなみに、後に越前守護となる朝倉(あさくら)も、もとは斯波氏の守護代家です。
その尾張の守護代家であった織田が、応仁の乱(おうにんのらん)(5月20日参照>>)の混乱で内紛に至り、清洲織田氏(大和守家)と岩倉織田氏(伊勢守家=岩倉城を本拠とし尾張上4郡を治める)に分かれた後、
戦国時代に入ると、その清洲織田氏の下(庶流)に清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)体制が出来、有名な織田信長(のぶなが)は、この三奉行家の一つである弾正忠(だんじょうだい)家の人で、
今回の織田信友全盛の頃は、三奉行の1人であった信長父の織田信秀(のぶひで)が、主家や他の奉行と戦う一方で今川(いまがわ=駿河守護)の那古野城(なごやじょう=名古屋市中区:名古屋城)を奪って(2月11日参照>>)居城とし、勢力拡大しつつあった時期だったわけですが、
残念ながら、その父は志半ばで病に倒れ、天文二十年(1551年)3月に、この世を去ってしまいます(3月3日参照>>)。
…で、ご存知のように、この父の死を受けて信長は18歳で家督を継承するわけですが、当然、父の代からの守護家をはじめとする他の織田家とのゴタゴタも継承するわけで・・・
まして信長には、優秀だと評判の弟=織田信行(のぶゆき=信勝・達成・信成)がいて、家臣の中にも、この信行を当主に推す勢力がある中で、くだんの守護代=織田信友も信行派だったため、家督を継いだばかりの信長とは、ますます対立構造になっていたのです。
そんな中、この翌年の天文二十一年(1552年)には、亡き信秀から鳴海城(なるみじょう=愛知県名古屋市緑区:別名=根古屋城)を任されていた城主=山口教継(やまぐちのりつぐ)が今川に寝返った事で起こった三の山・赤塚の戦い(4月17日参照>>)。。。
そのドサクサに乗じて織田信友も兵を挙げますが、この時は守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)の織田信光(のぶみつ=信秀の弟)に阻まれ、退却をせざるを得ませんでした。
一方、ここに来て一強だった守護代家の織田信友に抵抗できる存在の信長が出て来た事に、俄然はりきる守護=斯波義統。。。
名ばかりとなった守護とは言え、そこは名門のプライドも失ってはいないわけで、これを機に斯波義統は信長に近づくのです。
そんな両者の近づきを見て取った織田信友は、重臣(小守護代)の坂井大膳(さかいだいぜん)と、密かに主家を追い落とす計画を立てるのです。
それは天文二十三年(1554年)7月12日の事。。。
この日、斯波義統の嫡男の斯波義銀(よしかね)が、家臣を連れて川狩りに出かける事を知った織田信友は、坂井大膳と腹心の織田三位(おださんみ)らと相談・・・
調べたところ、屈強な若武者らは皆斯波義銀の狩りに同行し、清洲城に残るのは老侍や女子供ばかりという事がわかります。
「これは絶好のチャンス!」
とばかりに城兵が少なくなった清洲城に信友勢が押し寄せて、またたく間に守護館を包囲し、一斉に攻撃を仕掛けました。
これを受けて護る守護家側は、中央の広間では僧形の某阿弥(?あみ)が立ち向かい、その横では森刑部丞(もりぎょうぶのじょう)兄弟が敵を迎え撃ち、裏口では柘植宗花(つげむねはな?)なる者が打って出ますが、もとより多勢に無勢。。。
(それを狙っての7月12日の攻撃ですから…)
守護館を囲む四方の屋根の上にて構える信友方の弓の衆が、文字通り矢継ぎ早に散々射掛けた事で、守護側の彼らは次々と討死し、
「もはや防ぎきれない」
と悟った守護側は、館に火を放ち、斯波義統以下一門&家臣の数十人が次々と切腹していったのです。
残された侍女たちは堀へ飛び込み、ある者はうまく逃げおおせたものの、多くの女性は溺れ死んだのだとか。。。
まさに狩りの最中に、この異変を聞いた斯波義銀は、川の中から湯帷子(ゆかたびら=麻でできた浴衣の原型)のまま急ぎ、走って走って那古野城へと向かい、信長に事件の報告をするとともに保護を求めます。
斯波義銀の弟であるもう一人の若君(後の毛利秀頼?)は、毛利十郎(もうりじゅうろう)なる武将に救い出され、やはり那古野城へと送り届けられたと言います。
これが織田信友による下剋上・・・清須の変(きよすのへん)と呼ばれます。
しかし、ここ尾張では、
その他の戦国下剋上と同様の展開になる=つまり守護の斯波氏に織田信友の清洲織田氏(大和守家)が取って代わるという事にはならなかった。。。
そうです。
ここ尾張には、
この前年に美濃(みの=岐阜県南部)のマムシと恐れられた斎藤道三(さいとうどうさん)を驚かせ(4月20日参照>>)、
この年の正月には村木砦(むらきとりで=愛知県知多郡東浦町)を奪取し(1月24日参照>>)、
もはや織田信友に対抗できるほどの力をつけた信長がいたからです。
ここで守護の息子たちを保護した信長にとっては、むしろ、主家にあたる織田信友を謀反人として討つ大義名分が転がり込んで来たわけです。
早速、信長は、この事件の5日後に配下の柴田勝家(しばたかついえ)に足軽衆をつけて清洲城に向かわせたのです。
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これを受けた清洲側・・・
まずは山王口(さんのうぐち=三王口)にて防戦しますが、勢いのある柴田勢に追いまくられ安食村(あじきむら=愛知県名古屋市北区)へ、
しかし、ここも支えきれず、誓願寺(じょうがんじ=同北区:成願寺)前にて最後の防戦を展開しますが、ここも突破されて、とうとう大堀の中へと追い込まれてしまいます。
ここで大活躍したのが、有名な信長の長槍です。
なんとか踏ん張る清洲勢ですが、清洲の槍は短く信長の槍は長い・・・一歩も退かぬ清洲勢も何度も突き立てられる長槍に、しだいに一人…二人と倒れ込み、織田三位をはじめとする約30騎が討死します。
ちなみに織田三位を討ち取ったのは、亡き主君の仇を討つべく信長勢とともに参戦していた斯波義統の小姓(こしょう=側近の少年)だったのだとか・・・
こうして主だった者を失って弱体化する織田信友以下清洲織田氏(大和守家)。。。
このあと信長が、この清洲城を乗っ取るのは、翌年の4月の事ですが、そのお話は、その4月20日のページで>>どうぞ
(前半の内容が、ほぼカブッってますが、ご了承くださいませ)
信長にとって清洲織田氏は主家ですから、まさに下剋上を下剋上で返した…って事になりますかね。
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