伊達政宗の大崎攻め~窪田の激戦IN郡山合戦
天正十六年(1588年)7月4日、伊達政宗が佐竹義重&蘆名義広らと山王館で激突し、苦戦の末に撃退しました。
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天正十三年(1585年)11月・・・わずか8千の兵力で佐竹義重(さたけよししげ)率いる3万の軍勢と戦った人取橋(ひととりばし)の戦い(11月17日参照>>)で九死に一生を得た伊達政宗(だてまさむね)。
この時は、
更なる決戦を明日に控えながら、なぜかの佐竹の撤退で幕を閉じ、勝利では無かったものの、全滅もしなかった事に安堵しつつ
小浜城(おばまじょう=福島県二本松市)にて新年を迎えた政宗は、雪解けの春を待った翌天正十四年(1586年)の4月、再び二本松城(にほんまつじょう=福島県二本松市)を攻め立てます。
そもそも人取橋の戦いは、和睦の挨拶のフリして近づいて来ておいて、そのまま伊達輝宗(てるむね=政宗の父)を拉致しようとした畠山義継(はたけやまよしつぐ)を、
やむなく父もろとも撃ち殺してしまった(10月8日参照>>)政宗が、弔い合戦とばかりに畠山の居城である二本松城を包囲していた時に、
そのスキを狙って同盟者の佐竹義重が攻めて来て起こった戦いなのですから、当然、その城攻めは継続せねばならないわけで・・・
しかし、先の人取橋のページ>>にも書かせていただいたように、天然の要害である二本松城は攻め難く、やはり今回も持久戦となってしまいます。
とは言え、いくら堅固な城でも籠城が長くなると維持するのも難しくなって来るわけで・・・
7月に入って、小高城(おだかじょう=福島県南相馬市)の相馬(そうま)の仲介で和睦交渉が始まり、
二本松城の明け渡しと退去の際に本丸を焼き払うという2つの条件をつけて和議が結ばれ、
亡き畠山義継の後を継いでいた畠山国王丸(くにおうまる)は、この2つの条件を呑み、黒川城(くろかわじょう=福島県会津若松市・後のの若松城)の蘆名(あしな)を頼って落ちて行ったのです。
こうして手に入れた二本松城を片倉景綱(かたくらかげつな=小十郎)に任せた政宗は、1年ぶりに居城の米沢城(よねざわじょう=山形県米沢市)へと帰還したのでした。
ところが、その翌年の天正十五年(1587年)、
伊達家臣の鮎貝盛次(あゆかいもりつぐ)の長男=鮎貝宗信(むねのぶ)が、
山形城(やまがたじょう=山形県山形市)の最上義光(もがみよしあき)に寝返って謀反を起こします。
幸い、父の鮎貝盛次は政宗に忠誠を誓っており、息子の謀反は速やかに鎮圧されて大事には至りませんでしたが、当然の事ながら、裏で糸を引いていた最上義光との関係は悪化します。
この最上義光・・・ご存知のように伊達政宗の母である義姫(よしひめ)の兄。。。
つまり伯父と甥なので、これまでは同盟関係にあり、政宗が領地を留守にしたとて領地を脅かす事も無くウマくいってたわけですが、こうなってしなうと、もはや関係修復はムリというもの。。。
それでなくても政宗の周囲には、先の人取橋の佐竹や蘆名をはじめ、名生城(みょうじょう=宮城県大崎市)の大崎(おおさき)など、この時期に敵対していた相手が複数いたわけですが、これからは、そこに最上も加わる事に、、、
そこで翌天正十六年(1588年)1月、政宗は浜田景隆(はまだかげたか)を総大将に据え、留守政景(るすまさかげ)と泉田重光(いずみだしげみつ)の両将をつけて、少し弱体化の見えた大崎義隆(おおさきよしたか)を攻めたのです。
しかし、これが大失敗に終わってしまいます。
…というのも、決戦前から浜田景隆と留守政景の意見が対立して軍の統率が取れなかった事に加え、
味方になってくれると思っていた鶴楯城(つるたてじょう=宮城県黒川郡大和町:鶴巣館とも)の黒川晴氏(くろかわはるうじ)が直前に寝返った事や、
かの最上義光が大崎に援軍を出した事などが重なってしまい、一般にはそれらが敗因とされますが、
原因よりなにより、
政宗にとって痛手となったのは、勢いづく伊達を恐れて味方となっていた小高城(おだかじょう=福島県南相馬市)の相馬義胤(そうまよしたね)や小浜城(おばまじょう=福島県二本松市)の大内定綱(おおうちさだつな)などが、
「俺らも行けるんちゃう?」
とばかりに離反する動きを見せ始めた事でした。
そこで、何とか彼らをつなぎとめるべくけん制に出る政宗・・・
5月に入って相馬義胤に寝返った石川光昌(いしかわみつまさ)の小手森城(おでもりじょう=福島県二本松市)を陥落させた政宗は、その翌日からは、次々と相馬方の諸城を攻略していき、5月19日には相馬義胤の籠る船引城(ふねひきじょう=福島県田村市)をも陥落させますが、
この忙しさを好機と見たのが、人取橋で戦った佐竹義重と、その息子で、この前年に蘆名に婿養子として入って家督を継いだばかりの蘆名義広(あしなよしひろ)でした。
6月に入ると、佐竹義重&蘆名義広連合軍は4000の兵を率いて北上し、郡山方面に向かって来ます。
これを迎え撃つべく、自らも郡山方面へと向かう伊達政宗でしたが、上記の通り、政宗は他にも兵を割かねばならない状況で、この連合軍に向けて発進した兵数は、わずかに600ほどでした。
とは言え今回は、すぐに大きな合戦となる事はなく、両者それぞれに砦を築きつつ対峙し、しばらくの間は鉄砲を撃ち合う小競り合い続いていたのでした。
動きがあったのは天正十六年(1588年)7月4日・・・山王館(さんのうだて=同郡山市富久山町:窪田城)付近で激しい戦闘が開始されます。
窪田を守っていた片倉景綱と伊達成実(しげざね)の近くを蘆名方の部隊が通過するのを見過せなかった彼らは、
そこに一部の軍勢を派遣したところ、深追いして敵勢に囲まれてしまい、やむなく片倉景綱&伊達成実ら自らが助っ人に駆けつけますが、
これがなかなかの苦戦・・・重臣の伊東重信(いとうしげのぶ)をはじめとする60~70名の戦死者を出してしまいます。
ただし、敵方の戦死者も約50名ほどいて、両者痛み分けのまま・・・今回は、それ以上の大規模大戦に至る事もありませんでした。
…というのも、この戦いのおおもとであった最上&大崎との間で和睦交渉が持ち上がっていて、最上&大崎の進軍がストップしていたからです。
そもそも、それが無ければ佐竹&蘆名も動かなかったですから・・・
その和睦交渉をけん引したのは、やはり両家の架け橋=義姫でした。
兄と息子の戦いを止めたい義姫は、最上と伊達の国境付近に輿(こし)で乗り入れ、
「君らが仲良くするまで動かへんからな!」
と80日間も座り込みを続けたのだとか・・・
結局、兄の最上義光が、
「妹のためならば…」
と折れて、和睦が成立。。。蘆名や佐竹もその決定に従う事となり、
政宗は9月18日に、ようやく米沢城へと帰還しました。
今回の合戦・・・
伊達政宗が大崎を攻める天正十六年(1588年)初めの戦いから和睦が成立するまでの一連の戦いを
大崎合戦(おおさきがっせん)
からの郡山合戦(こおりやまがっせん)と呼んだり、
今回の7月4日のピンポイントの戦いを窪田の激戦(くぼたのげきせん)と呼んだりしますが、
お察しの通り、問題が根本的に解決されたわけではありませんから、当然、ほどなく=この翌年に再びのドンパチが始まるわけですが、そのお話は
天正十七年(1589年)6月5日の
●摺上原(すりあげはら=福島県磐梯町&猪苗代町)の戦い(2007年6月5日参照>>)
●金上盛備摺上原に散る(2023年6月5日参照>>)
で、ご覧あれ。
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