日露戦争の最後の戦い~樺太の戦い
明治三十八年 (1905年)7月31日、日露戦争最後の戦いとなる樺太占領作戦でロシア軍が降伏・・・樺太の戦いが終結しました。
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明治三十七年(1904年)2月に開戦された日露戦争(宣戦布告=2月10日参照>>)
3月の奉天占領と5月の日本海海戦が終わり、バルチック艦隊が壊滅状態になった事を知った後も、ロシア皇帝ニコライ2世は依然かたくな姿勢で戦争続行の決意が変わる事はありませんでした。
一方で、これ以上戦い抜くのは困難との判断で、むしろ休戦を望んでいたのは日本の方。。。
なんせロシア側は開通したばかりのシベリア鉄道で西方から兵力や物資をどんどん送って来る事が可能でしたが、
日本は、自国の残存勢力を考慮すれば、遅かれ早かれ戦線は崩壊する事が目に見えていましたから、ここらあたりからは外交戦を展開して、なんとか休戦に持ち込むしかありませんでした。
そこで日本側の外務大臣である小村寿太郎(こむらじゅたろう)は、駐米公使の高平小五郎(たかひらこごろう)を通じてアメリカ大統領のルーズベルトに日露の講和に向けて仲を取り持ってもらえるよう打診します。
こうして、日本海海戦の10日後、ニコライ2世にルーズベルトのメッセージを直接伝える事に成功・・・6月7日にニコライ2世が、このルーズベルトの勧告を受け入れる事を承諾し、ようやく戦争終結への講和に向けて動き出したのです。
7月8日、講和を樹立させるべく首席全権の小村寿太郎はアメリカへと旅立ちました。
しかし一方で、別グループが水面下で動いていたのです。
今回の講和を少しでも優位に進めるべく動く参謀次長の長岡外史(ながおかがいし)は、陸軍大将の児玉源太郎(こだまげんたろう)を通じて樺太(からふと=ロシア語でサハリン)の占領を提案・・・
6月15日にはそれが承認され、17日には新設された独立第13師団に出動命令が出されます。
そんな事とは無関係の現地=樺太では、ロシア語の通訳として現地の漁業組合の職員をやっていた高井義喜久(たかいよしきく)らが、
コルサコフ(大泊)の長官=ケルバやアルチシェフスキー大佐を訪問して在留日本人の安全と保護の約束を取り付けに向かいます。
ここで面会したケルバ長官は、提示した安全はもちろん、高井に特別優待許可証を授けて無事を祈り、別れを惜しんだと言います。
つまり現地でのロシア人と日本人の関係はかなり友好的だったのです。
しかし樺太遠征軍は連合艦隊によって着々と海を渡り、7月7日に樺太南部の湾岸から上陸・・・
この時、ロシア兵はわずかしか駐屯しておらず、兵力勝る日本軍は破竹の勢いで進み、8日にはコルサコフ、10日にはウラジミロフカ(豊原市)を占領し、12日にはロシアの主力部隊を撃破します。
16日には先のアルチシェフスキー大佐が降伏を表明しますが、一部の部隊が抵抗を続けたため、
7月24日には北側のアレクサンドロフ(落石)から上陸した日本軍が残兵を内陸部へと追いやり、このアレクサンドロフも占領しました。
やむなく明治三十八年 (1905年)7月31日、ロシア側が全面降伏して日本軍が全島を占領・・・樺太の戦いは終結しました。
こうして結果的に日露戦争最後の戦いとなった樺太の戦い。
とは言え、
この戦いの後の8月10日から行われた日露講和会議により、9月5日のあのポーツマス条約が調印され、
ご存知のように、
この樺太は島を東西に横切る北緯50度線を境界として以北はロシアに返還され、以南は日本領という事に決定されるわけですが・・・
しかし、講和条件に不満ムンムンだった国民が~っと、
その後のお話は、(古い記事ではありますが)2009年9月5日のページ>>でどうぞm(_ _)m
ちなみに戦争の勃発で一時は帰国していた高井義喜久ですが、このあと樺太に戻り、明治四十年(1907年)から約3年ほど、現地の日本人漁業者の漁場確保や規則改正交渉などに奔走する事になります。
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