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2024年8月 6日 (火)

奈良の戦国乱世に揺れる~森屋城の主たち

 

元亀二年(1571年)8月6日、十市家臣の籠る森屋城を筒井配下の箸尾高春が攻撃する第3次森屋城の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

現在、奈良県磯城郡田原本町にある村屋坐弥冨都比売神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)の周辺にあったとされる森屋城(もりやじょう)は、

地元の国人領主であった森屋(もりや)が構築したとされる城ですが、戦国の混乱期において、わずかの間に秋山→十市→松永パパ→十市→箸尾→松永息子→塙と、その主が次々と代る状況に陥る事になります。

そもそも大和(やまと=奈良)という場所は、
ご存知のように、古代より東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)興福寺(こうふくじ=同奈良市)春日大社(かすがたいしゃ=同奈良市)といった宗教勢力が強い場所で、

鎌倉や室町に誕生した武士政権も、なかなかこの地にまともな守護(しゅご=幕府が派遣する県知事)が置く事ができずにいた中で、

そんな寺社から荘園の管理等を任されていた地元の国人(こくじん=地侍)土豪(どごう=半士半農の地侍)たちが力を持ち始め、

その代表格として興福寺に属する『衆徒』と呼ばれる筒井(つつい)や、春日大社に属する『国民』と呼ばれる越智(おち)十市(とおち)、さらに箸尾(はしお)を加えて『大和四家』と称されて群雄割拠していたのですが、

天文年間(1532年~1555年)頃に、大和守護の畠山(はたけやま)の重臣で守護代(しゅごだい=副知事)であった木沢長政(きざわながまさ)大和に侵攻(7月17日参照>>)

さらに永禄二年(1559年)、今度はその木沢を破った(3月17日参照>>)三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の重臣=松永久秀(まつながひさひで)大和平定に乗り出して来た事で(7月24日参照>>)、 

大和の国人たちは、
すでに大和国人の代表格であった筒井順昭(つついじゅんしょう=順慶の父)につくか?
新たな中央勢力=松永久秀につくか?
悩まされる事になるのです。

そんな中、上記の三好VS木沢の混乱に乗じて勢力を拡大し十市氏の中興の祖と呼ばれる十市遠忠(とおちとおただ=奥さんが順昭の姉)が天文十四年(1545年)に亡くなり、

その後を継いだのが若年だった嫡男の十市遠勝(とおかつ)だった事から、十市家内は混乱・・・自らの非力を知った十市遠勝は、やむなく娘のおなへ(御料)人質に差し出して松永久秀と和睦を結び、松永傘下となったのです。

そして、その久秀の力を借りて、筒井派の秋山直国(あきやまなおくに)に浸食されていた旧十市領の奪回を目指すのです。

そんなこんなの永禄十一年(1568年)2月、ここに来て、松永久秀がこれまで強力タッグを組んでいた三好三人衆みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)との仲がゴタゴタし始めた事、

さらに、その三好三人衆に秋山氏が通じた事を受けて、2月20日の早朝、十市遠勝は秋山勢が入っていた森屋城を攻めるのです(第1次森屋城の戦い)

激戦となる中、名のある武将が討たれますが、それでも十市軍の士気は高く、見事、その日のうちに十市遠勝は森屋城をゲット。

ところが、なぜか?この戦いからほどなく、十市遠勝は三好三人衆と手を組み、逆に秋山直国が松永派に転向。。。

どうやら、ここらへんで三好三人衆が、ちと盛り返した事と、その三好三人衆と組んでるのが奈良でいっちゃん強い筒井を継いだ筒井順慶(じゅんけい)ってあたりで三好側になびいたようですが、当然、松永久秀も黙っちゃいない・・・

てな事で、今度は松永久秀の支援を受けた秋山直国に、居城の龍王山城(りゅうおうざんじょう=奈良県天理市田町)を奪われ、やむなく十市遠勝は古巣の十市城(とおちじょう=奈良県橿原市十市町)へと退去。

それでも何とか森屋城は死守していましたが、同永禄十一年(1568年)10月、松永久秀が、この前月に足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)を奉じて上洛した織田信長(おだのぶなが)の傘下に入り(9月7日参照>>)

その信長から「大和は切り取り次第(久秀が自身で勝ち取った地は治めて良い)」の約束を取り付けて大和の諸城を切り取りはじめ

残念ながら
森屋城は松永久秀の物となってしまったのです(第2次森屋城の戦い)

Moriyazyouzyousyu まるで波に漂う木の葉のように、持ち主が代る森屋城参考→

しかも、この事で再び松永派となった十市遠勝に、家臣の不満は爆発・・・
十市家内が松永派と筒井派に真っ二つに分かれれて収拾がつかなくなる中、永禄十二年(1569年)の10月に十市遠勝が病死してしまいます。

その2か月後の永禄十二年(1569年)12月に十市家の内紛がピークに達して筒井派が十市城を占拠し、本拠の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を松永久秀に奪われていた筒井順慶が十市城に入城したりしますが、

そんな中、元亀元年(1570年)から織田信長は浅井(あさい)朝倉(あさくら)と交戦し(【金ヶ崎から姉川までの2ヶ月】参照>>)石山本願寺(いしやまほんがんじ)と交戦しはじめ(9月14日参照>>)、さらにそこに本願寺LOVEの武田信玄(たけだしんげん)が参戦した事で、

元亀二年(1571年)5月に松永久秀は織田信長から離反し、この頃は、すでにアンチ信長になっていた足利義昭や三好三人衆と和睦します。

これを受けて、敵の敵は味方とばかりに自然と信長寄りになっていく筒井順慶。。。

そんなこんなの元亀二年(1571年)8月4日、松永久秀は筒井順慶の辰市城(たついちじょう=奈良県奈良市東九条町)を攻撃しますが、多くの死傷者を出して松永久秀は惨敗してしまいます(8月4日…内容カブッてますがお許しを>>)

この時、辰市城の戦いで挙げた首級を信長に献上して存在をアピールしつつ、勝利の勢いに乗る筒井順慶は、その2日後の元亀二年(1571年)8月6日、配下の箸尾高春(はしおたかはる)森屋城を攻めさせるのです(第3次森屋城の戦い)

そう・・・
(先に書かせていただいたように)
十市内家内の内紛で筒井派に居城の十市城を占領され、この時、森屋城に籠っていたのは松永派の十市家臣たちです。

悲しいかな、その勢いに打ち勝てず、森屋城は陥落・・・
松永派十市家臣は、この城を追われる事になってしまったのです。

こうして森屋城は、今度は筒井&箸尾の物に・・・しかし、森屋城の波にもまれる木の葉状態は、まだ終わりません。

信玄の死やら浅井朝倉のなんやかんやで、結局、天正元年(1573年)12月に松永久秀が信長に降伏した事により(12月26日参照>>)、とうとう筒井も松永も織田傘下の状況になる中、

天正四年(1576年)に、筒井派に占拠されっぱなしの十市城を松永久通(ひさみち=久秀の嫡男)が攻撃し、城内の筒井派十市を一掃しますが、
ここで、この問題に織田信長が介入・・・

十市領は三分割され、塙直政(ばんなおまさ=原田直政:信長から大和守護を任されている家臣)と松永久通と十市氏に分け与えられる事になり、ようやく十市家内の内紛は終焉に向かう事になるのです。

ただし、この時期に、人質としておそらくずっと松永家と接点があったとおぼしき亡き十市遠勝娘のおなへと松永久通との婚姻が成立したとみられ、松永久通に与えられた十市領は実質は十市氏が管理していた物と思われます。

その後も十市遠長(とおなが=遠勝の弟)と松永久通のチョイモメがあったりなんかしますが、結果的にその後の十市氏は筒井の家臣として生き残る事になしました。

ただ、
森屋城については、このまま歴史の彼方へと消え、表舞台に登場する事は無く、冒頭に書かせていただいたように、その場所さえわからず、未だ遺構も確認できていないくらいの見事な消えっぷりとなってしまうのです。

やっぱ、この天正八年(1580年)の信長の城割(8月19日参照>>)の時に破却されたのかしら?

多聞院(たもんいん=興福寺の僧)の日記にも、
「国中おおむね城を破ると云々。残る所無きか」
って書いてはりますものね~

何か、詳細をご存知の方おられましたら、お知らせ下さいませm(_ _)m

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