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2024年8月28日 (水)

白井河原の戦いで散る将軍に仕えた甲賀忍者?和田惟政

 

元亀二年(1571年)8月28日、足利義昭を救出した事で知られる和田惟政が白井河原の戦いで討死しました。

・・・・・・・・

滋賀県甲賀市に生まれた和田惟政(わだこれまさ)和田家は、甲賀二十一家の一つにも数えられている所を見れば、甲賀(こうか)で有力な地侍であったと思われ、一説には忍者だったという話もありますが、

未だ成人前に戦で父を失い、第13代室町幕府将軍足利義輝(あしかがよしてる)に仕えていたと言います。

しかし、その義輝は、ご存知のように永禄八年(1565年)5月、三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・岩成友通)松永久通(まつながひさみち=松永久秀の息子)によって暗殺されてしまいます(5月19日参照>>)

この時、和田惟政はおそらく30代半ば・・・どうやら何かしらのトラブルで主君の義輝に怒られて謹慎中だったらしく、この日の現場にいなかったようです。

そんな中、兄か殺された事によって、当然、弟である足利義昭(よしあき=義秋:当時は一乗院覚慶)にも危機が迫ります。

この頃の義昭は興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)にて僧侶となっており、今回の事件のせいで幽閉状態にされていましたが、

そこを義輝の家臣だった細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)一色藤長(いっしきふじなが=幕府御供衆?)が救出し(7月28日参照>>)、甲賀にいた和田惟政のもとへやって来て支援を求めたのです。

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錦絵に描かれた和田惟政(1番右の義昭を背負ってる人です)

しばらく甲賀にて様子を伺いつつ、次に伊賀(いが)へ・・・

最終的に近江(おうみ=滋賀県)矢島(やじま=滋賀県守山市)にて義昭を匿う惟政は、何とか近江の有力者である六角義賢(ろっかくよしかた)の支援を受けて義昭を上洛させようと奔走しますが、

この頃の六角氏は、
2年前に起こった観音寺騒動(かんのんじそうどう)(10月7日参照>>)ゴタゴタで身動きが取れず・・・

そこで義昭の妹婿である武田義統(たけだよしずみ)を頼って若狭(わかさ=福井県南西部)へと向かいますが、ここも内戦でゴタゴタ状態(8月13日参照>>)

やむなく、さらに先の越前(えちぜん=福井県東北部)朝倉義景(あさくらよしかげ)を頼ります。

…で、ご存知のように、ここに滞在していた時に、朝倉の客将として越前にいた明智光秀(あけちみつひで)を介して尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)と出会い(10月4日参照>>)

永禄十一年(1568年)9月、義昭は信長とともに上洛を果たし(9月7日参照>>) 、約1ヶ月後に第15代室町幕府将軍に就任しま(10月18日参照>>)

この時、和田惟政はすばやく甲賀へと戻り、配下の地侍や忍びの者に、上洛に全面協力するよう要請しています。

軍記物の中には、
「この義昭の将軍就任の1番の功労者は和田惟政」
「和田惟政なければ義昭の将軍就任が成せなかったかも」
みたいに書き立てている物もありますが、さすがにそれは…(^o^;)

ただ、功労者の1人であった事はまちがいなく、現に、このあと、将軍義昭を冠に畿内を平定する事になった信長から、

池田勝正(いけだかつまさ)伊丹親興(いたみちかおき)とともに摂津(せっつ=大阪府中北部と兵庫県の一部)守護(しゅご=県知事)に任命されて芥川城(あくたがわじょう=大阪府高槻市)を与えられていますから…。

先の二人=池田と伊丹は、もともとその地に根を張っていた有力領主で今回の義昭&信長の上洛で傘下に入った人たちですが、

和田惟政は上記の通り、もともと甲賀にいた人なわけですから、その事を踏まえると、やはり、かなりの功績があっての抜擢と想像できますね(←あくまで個人の感想です)

こうして足利の幕臣でありながら、信長の傘下となって、信長の要請に応じて各地を転戦する和田惟政・・・

やがて与力(よりき=付属の武将:組下)高山飛騨守(たかやまひだのかみ=重友・友照:高山右近の父)に芥川城を守らせ、自身は高槻城(たかつきじょう=大阪府高槻市)を拠点としました。

ところがその後=元亀元年(1570年)の初め頃、和田惟政は突然、信長から蟄居(ちっきょ=謹慎処分)を言い渡されるのです。

どうやら、ここらあたりから信長と義昭の関係がギクシャクし始めた(1月23日参照>>)事が原因のようですが、

これに対して和田惟政は、自ら頭を丸めて、朝倉攻め(4月26日参照>>)に向かう信長の謁見して抗議し、二心無き事を熱弁し、見事、地位を回復しています。

その後も、織田方の武将として複数の合戦に参加し、元亀二年(1571年)の6月には、三好三人衆に奪われていた吹田城(すいたじょう=大阪府吹田市)奪回するなどの活躍していましたが、

その2か月後の元亀二年(1571年)8月28日、三好三人衆側に立つ荒木村重(あらきむらしげ)中川清秀(なかがわきよひで)に、かの池田勝正から池田城を奪い取った池田知正(ともまさ)が合力した約3000が、

和田惟政の拠る摂津郡山城(こおりやまじょう=大阪府茨木市)を囲んだのです。

この時点での城兵は約500・・・未だ準備が整っていない郡山城では、現在、コチラに向かっている情報アリの高槻の高山勢や惟政息子和田惟長(これなが)勢の援軍を待つべく、

城主の郡正信(こおりまさのぶ)が敵陣に赴いて和睦交渉を進めて時間稼ぎしますが、その作戦は功を奏さず、敵方は攻撃を開始。。。

荒木村重の
「惟政の首を取った者には、恩賞を与えるぞ~」
の声が響く中、

和田惟政は、わずか200騎の手勢とともに中川清秀の陣に飛び込んで行くのでした。

しかしなんたって多勢に無勢・・・和田惟政は、その身体に銃を受け、無数の刀傷を受けた後も戦い、

自身の首を取りに来た者にまで傷を負わせながらも力尽き、最後は中川清秀に討ち取られ、残された配下の者も、ほぼ全滅状態に。。。

この間に、和田に加勢する茨木重朝(いばらぎしげとも=茨木城主)の軍が荒木村重本陣を襲撃し、荒木村重に手傷を負わせますが、そのうしろに隠れていた鉄砲隊の餌食となり、茨木重朝もろとも、コチラも潰滅状態となってしまったのでした。

加勢に向かっている途中で、この一報をうけた息子=和田惟長は、やむなく諦めて引き返し、高山父子とともに高槻城の守りを固める事に専念するのでした。

こうして終わった戦いは、
白井河原の戦い(しらいかわらのたたかい)とも
郡山合戦(こおりやまかっせん)とも呼ばれます。

思えば、永禄八年(1565年)の足利義昭救出によって全国ネットに躍り出た和田惟政。。。

もちろん、地元では有名人だったでしょうが、少なくともそれまでは地方史の域を越えなかった彼が、見事に有名史料に名を遺す事になったわけで・・・

それから、わずか6年ではありますが、歴史の表舞台で活躍した・・・ひょっとして甲賀忍者だったかも知れない人。

伊賀代表の服部半蔵(はっとりはんぞう)とともに、
「歴史ファンタジー活劇ジャンル」中国神仙モノ並みのバトルを見せてくれないかなぁ~」
と妄想を膨らませておりますです。

ちなみに、この白井河原の戦いでは、斎藤道三(さいとうどうさん)の隠し子だったかも知れない長井道利(ながいみちとし)も討死していますが、
そのお話は(内容がカブッてる部分ありですが)昨年の8月28日のページで>>
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