武田信玄の伊那侵攻~高遠頼継との宮川の戦い
天文十一年(1542年)9月25日、袂を分かつ事になった武田信玄と高遠頼継が戦った宮川の戦いがありました。
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天文十年(1541年)6月、父=信虎(のぶとら)を追放して(6月14日参照>>)甲斐(かい=山梨県)一国の当主となった武田信玄(たけだしんげん=当時は晴信だけど信玄呼びします)は、
その1年後、父が同盟を結んでいた諏訪(すわ=長野県諏訪市・茅野市など)へと攻め込み、諏訪惣領家の諏訪頼重(すわよりしげ)と弟の頼高(よりたか)を切腹に追い込みました(7月3日参照>>)。
この時、戦いを前にして寝返ってくれた伊那(いな=長野県飯田市・伊那市・駒ヶ根市周辺)の高遠頼継(たかとおよりつぐ)とは、諏訪領のうちの宮川(みやがわ=長野県を流れる天竜川水系)以西を高遠領に、以東を武田領にする事で話をつけていましたが、
そもそも諏訪領全域を手にしたいと思って信玄に内通した高遠頼継は、一旦は了解したものの、心の内では不満ムンムン。。。
そこで高遠頼継は、諏訪攻めの際にともに武田に寝返った諏訪上社(かみしゃ=長野県諏訪市中洲)の禰宜(ねぎ=神職)の矢島満清(やしまみつきよ)や福与城(ふくよじょう=長野県上伊那郡箕輪町)主の藤沢頼親(ふじざわよりちか)や周辺の土豪(どごう=地侍)などを味方につけて、
天文十一年(1542年)9月10日、武田領に侵攻して上原城(うえはらじょう=長野県茅野市茅野上原)を陥落させ、その勢いのまま下社(しもしゃ=長野県諏訪郡下諏訪町)も占領して、諏訪全域の支配へと手を伸ばしたのです。
これを受けた信玄は、翌11日、下諏訪衆や諏訪満隆(みつたか)など未だ現地に残る武田方の者を支援すべく配下の板垣信方(いたがきのぶかた)に兵をつけて派遣し、
自身は、この戦いの大義名分になるであろう諏訪頼重の遺児=寅王(とらおう)を前面に推しだした形で出陣し、19日に諏訪郡に入ります。
寅王とは、かつて武田と諏訪の同盟の証として諏訪頼重に嫁いでいた信玄の妹=禰々(ねね)の息子で、この時、わずか生後6ヶ月でしたが、旧諏訪家臣の中には、この子を次期当主に…と考える者も少なからずいるわけで、そんな彼らは当然、武田方についてくれるわけで。。。
かくして天文十一年(1542年)9月25日、両者は宮川橋付近(長野県茅野市宮川=安国寺古戦場付近)でぶつかります。
武田勢は約2000、高遠勢もおそらく同じくらいの兵力だったと見え、未の刻(午後2時頃)に始まった戦いは壮絶を極めます。
ここらへんの状況にくわしい『守矢頼真書留』ですが、この戦いの部分は破損が激しくて読み込めず、合戦の詳細が不明なのは残念なところですが、
『高白斎記』には、
頼継弟の高遠頼宗(よりむね=蓮峰・蓮芳)をはじめとする700余名の高遠勢が討ち取られた事、
武田方の長坂光堅(ながさかこうけん=虎房)が功名を挙げた事、
戦いが酉の刻(夕方6時頃)まで続いた後、
「もはやこれまで」
と悟った高遠勢が杖突峠(つえつきとうげ=長野県伊那市&茅野市の境にある峠)を越えて高遠領へと敗走し、
この宮川の戦いが武田の大勝利に終わった事が記されています。
そして、この高遠勢を追うように上伊那郡 (かみいなぐん=長野県伊那市付近)に入った武田軍は、26日に駒井高白斎(こまいこうはくさい)(9月26日参照>>)らが藤沢(ふじさわ=長野県伊那市高遠町付近)を放火してまわり、28日には藤沢頼親の福与城を囲み、降伏に追い込んでいます。
また、この間に別動隊として動いていた板垣信方も、同じく28日に別ルートから伊那へ侵入。。。
こうして、大打撃を受けた伊那衆や高遠勢は潰滅状態となり、10月7日に諏訪西方が降伏・・・
信玄は駒井高白斎を奉行に据えた後、上原城を大幅修築して板垣信方に城代を任せて武田領となった諏訪全域を治めさせる事にします。
その後、翌年=天文十三年(1544年)の10月に高遠頼継らは再び信玄に反旗をひるがえしますが、信玄はまたまた伊那に侵攻(前半部分内容カブッてますが…10月28日参照)、11月2日には箕輪の戦いで藤沢頼親に勝利します(11月2日参照>>)。
その後も、何度か離反し、結局、高遠頼継が全面降伏して武田の家臣になるのは天文十四(1545年)4月の高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市高遠町)の陥落によって…という事になるのですが、
その戦いはまだブログに書いていないので、これまたいずれかの日付にて書かせていただきたいと思います。
しばしお待ちくだされm(_ _)m
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